NPDI外相会議と夢物語
インフレの問題を一回中断、NPDI外相会議(核兵器を持たない国の外相会議)の報道があったので、漱石の「夢十夜」ではありませんが「こんな夢を見た」と書いておきたいと思います。
平成22年、日本とオーストラリアのイニシアティブによって、この会合が始まりました。今年4月11、12日と広島で開かれた会合は第8回、こうした人類の将来を明るくしようとする活動が、もっともっと拡大し、世界の関心の中でも、最もメジャーなものになっていくことを望む人は多いと思います。
現実世界は違います。メジャーな国々というのは核兵器を持ち、その力を背景に国際関係場裏で優位を確保することが、現状では最も大事だと考えているようです。
核兵器の保有がメジャーな国になることの条件だと考えて、何とか無理をしてでも核兵器を持とうとする国も当然出てきます。
昔、日本は侍は刀を持ち、町人は丸腰で、「町人の風情で侍に無礼を働くとは」と手打ちになっても文句はいえなかったようです。泣き寝入りしかない町民は落語の「たがや」などでうっぷんを晴らしていたのでしょう。
今は、ピストルや刀を持っているのは暴力団か何かで、市民は銃砲刀剣等不法所持が常識です。武器不所持がメジャーで、武器や凶器を持っているからメジャーなんてことは考えられません。凶器は政府が管理するのは常識です。歴史の流れがそれだけの変化を齎したのです。
そうであってみれば、地球人類の世界も、きっと何百年かの将来にはそんな風になっているのではないでしょうか。個々の国がそれぞれに核兵器やや高度な武器を持つことがメジャーの条件などという『野蛮な時代』はいつかは終わるのでしょうし、そうした世界を早く作ろうという活動こそがまともな活動と考えるべきでしょう。
「人類社会にとって国連とはなにか」「武器は国連管理が常識になる日がいつ来るのか」といった論議もそこから始まることを期待したいと思います。
NPDI外相会議が「我々こそが人類の将来にとってもメジャーな活動をやっているのだ」と誇りを持ち、力を頼む国々は「本当はそうですね」と肩をすくめ、NPDIを尊敬するような意識が生まれるのはいつの事でしょうか。
インフレの問題を一回中断、NPDI外相会議(核兵器を持たない国の外相会議)の報道があったので、漱石の「夢十夜」ではありませんが「こんな夢を見た」と書いておきたいと思います。
平成22年、日本とオーストラリアのイニシアティブによって、この会合が始まりました。今年4月11、12日と広島で開かれた会合は第8回、こうした人類の将来を明るくしようとする活動が、もっともっと拡大し、世界の関心の中でも、最もメジャーなものになっていくことを望む人は多いと思います。
現実世界は違います。メジャーな国々というのは核兵器を持ち、その力を背景に国際関係場裏で優位を確保することが、現状では最も大事だと考えているようです。
核兵器の保有がメジャーな国になることの条件だと考えて、何とか無理をしてでも核兵器を持とうとする国も当然出てきます。
昔、日本は侍は刀を持ち、町人は丸腰で、「町人の風情で侍に無礼を働くとは」と手打ちになっても文句はいえなかったようです。泣き寝入りしかない町民は落語の「たがや」などでうっぷんを晴らしていたのでしょう。
今は、ピストルや刀を持っているのは暴力団か何かで、市民は銃砲刀剣等不法所持が常識です。武器不所持がメジャーで、武器や凶器を持っているからメジャーなんてことは考えられません。凶器は政府が管理するのは常識です。歴史の流れがそれだけの変化を齎したのです。
そうであってみれば、地球人類の世界も、きっと何百年かの将来にはそんな風になっているのではないでしょうか。個々の国がそれぞれに核兵器やや高度な武器を持つことがメジャーの条件などという『野蛮な時代』はいつかは終わるのでしょうし、そうした世界を早く作ろうという活動こそがまともな活動と考えるべきでしょう。
「人類社会にとって国連とはなにか」「武器は国連管理が常識になる日がいつ来るのか」といった論議もそこから始まることを期待したいと思います。
NPDI外相会議が「我々こそが人類の将来にとってもメジャーな活動をやっているのだ」と誇りを持ち、力を頼む国々は「本当はそうですね」と肩をすくめ、NPDIを尊敬するような意識が生まれるのはいつの事でしょうか。