職務中心の経営と人間中心の経営:SDGsの視点から 3
SDGs(持続可能な開発目標)は、基本理念として、人類社会も地球環境も、現状維持ではなく多様な開発をして進化していかなければならないが、その目指す方向が、持続可能なものでなければならないという事を強調しているのでしょう。
核分裂エネルギーを開発すれば、それでエネルギーの供給が豊富になったり、戦争で敵を倒すことが出来るかもしれませんが、挙句の果ては地球が、放射能汚染で、人類の生活に適さない場所になってしまうので、核弾頭の蓄積を競ったり、原発にエネルギーを依存すというのは持続可能でないという事になるのでしょう。
こうした見地から、今政府が進めている職務中心の経営(所謂ジョブ型雇用による経営)についてみてきました。
職務中心の経営は、一見効率的に利益を出すのに適しているように思われますが、企業の目的は実は利益を出すことではなく、社会を豊かで快適なものにすることで、利益はその達成のために必要な手段だという事がSDGsの視点からは明確ですので、長い目で見れば、日本型の「人間中心の経営」の方が望ましいよう思われてきます。
しかし、欧米では、「企業の目的は利益」という考え方が一般的で、そのためにはジョブ型雇用が一般的になっているという事ですから、些か問題があるようです。
この辺りが典型的に表れているのが、この所、欧米で急速に拡大している「マネーゲームによる利益追求」、マネー資本主義の企業の発展です。
その主役である投資銀行などの組織は、付加価値を創る企業に資金を提供して、付加価値(社会の富=GDP)の生産を増やす(経済成長を金融面から支援する)のが目的のはずでしたが、今日では金融工学の発展により、株式などの証券や国債などの債券、さらのそれらからの派生金融商品(デリバティブズ)の売買でキャピタルゲインの稼ぐことが主流になっています。
こうした産業の基幹的は職務を担当するのがトレーダーで、場合によっては瞬時に巨億の利益を挙げます。その指導をするのがストラテジストなどでしょうか。
しかし、そうした利益は付加価値とは無縁です。帳簿上のマネーが移動・増減するだけで、経済学的には、購買力がAからBに移転するだけです。
このマネー資本主義の盛況は、つまりは社会の富の偏在、格差社会化を促進するころになり、ピケティの言を借りれば「格差の拡大する社会は持続可能ではない」という事になるようです。
人間中心の日本の企業社会では、人々は昔から「額に汗したカネ」と「あぶく銭」とを区別する見識を持っていました。
カネでカネを儲けるようなこと(キャピタルゲイン)は「浮利を追わず」などと言ってさげすんだのです。(マネー資本主義は、その区別を認めない)
経済学的に言えば、付加価値を創り、その中から人件費、金利、利益等として生まれる所得が、経済成長の分配としての所得で、本来の所得(インカムゲイン)で、マネーゲームによる所得は、既存の富の移転(購買力の移転の形で)でしかないという事でしょう。
(富の移転による再分配は、政府の税と社会保障制度に任せましょう)
経済活動から人間が消えて、カネだけが注目されるシステム、職務が中心で、人間はそれに当て嵌められる存在という職務中心の経営(ジョブ型雇用)は、共に経済活動からの人間性の喪失という恐ろしい問題を内蔵しているように思われるところです。
日本企業は、本来それを善しとしてまで利益を追求しないという考え方だったのですが、政府の経済外交や経済政策の失敗による30年余に亘る不況の中で、一部に人間より利益(マネー)といった風潮が生まれて来ていることも否めないようです。
マネー偏重の社会は、決して持続可能(サステイナブル)でない事、SDGsに似合わない事は、古い童話も教えてくれています。
SDGs(持続可能な開発目標)は、基本理念として、人類社会も地球環境も、現状維持ではなく多様な開発をして進化していかなければならないが、その目指す方向が、持続可能なものでなければならないという事を強調しているのでしょう。
核分裂エネルギーを開発すれば、それでエネルギーの供給が豊富になったり、戦争で敵を倒すことが出来るかもしれませんが、挙句の果ては地球が、放射能汚染で、人類の生活に適さない場所になってしまうので、核弾頭の蓄積を競ったり、原発にエネルギーを依存すというのは持続可能でないという事になるのでしょう。
こうした見地から、今政府が進めている職務中心の経営(所謂ジョブ型雇用による経営)についてみてきました。
職務中心の経営は、一見効率的に利益を出すのに適しているように思われますが、企業の目的は実は利益を出すことではなく、社会を豊かで快適なものにすることで、利益はその達成のために必要な手段だという事がSDGsの視点からは明確ですので、長い目で見れば、日本型の「人間中心の経営」の方が望ましいよう思われてきます。
しかし、欧米では、「企業の目的は利益」という考え方が一般的で、そのためにはジョブ型雇用が一般的になっているという事ですから、些か問題があるようです。
この辺りが典型的に表れているのが、この所、欧米で急速に拡大している「マネーゲームによる利益追求」、マネー資本主義の企業の発展です。
その主役である投資銀行などの組織は、付加価値を創る企業に資金を提供して、付加価値(社会の富=GDP)の生産を増やす(経済成長を金融面から支援する)のが目的のはずでしたが、今日では金融工学の発展により、株式などの証券や国債などの債券、さらのそれらからの派生金融商品(デリバティブズ)の売買でキャピタルゲインの稼ぐことが主流になっています。
こうした産業の基幹的は職務を担当するのがトレーダーで、場合によっては瞬時に巨億の利益を挙げます。その指導をするのがストラテジストなどでしょうか。
しかし、そうした利益は付加価値とは無縁です。帳簿上のマネーが移動・増減するだけで、経済学的には、購買力がAからBに移転するだけです。
このマネー資本主義の盛況は、つまりは社会の富の偏在、格差社会化を促進するころになり、ピケティの言を借りれば「格差の拡大する社会は持続可能ではない」という事になるようです。
人間中心の日本の企業社会では、人々は昔から「額に汗したカネ」と「あぶく銭」とを区別する見識を持っていました。
カネでカネを儲けるようなこと(キャピタルゲイン)は「浮利を追わず」などと言ってさげすんだのです。(マネー資本主義は、その区別を認めない)
経済学的に言えば、付加価値を創り、その中から人件費、金利、利益等として生まれる所得が、経済成長の分配としての所得で、本来の所得(インカムゲイン)で、マネーゲームによる所得は、既存の富の移転(購買力の移転の形で)でしかないという事でしょう。
(富の移転による再分配は、政府の税と社会保障制度に任せましょう)
経済活動から人間が消えて、カネだけが注目されるシステム、職務が中心で、人間はそれに当て嵌められる存在という職務中心の経営(ジョブ型雇用)は、共に経済活動からの人間性の喪失という恐ろしい問題を内蔵しているように思われるところです。
日本企業は、本来それを善しとしてまで利益を追求しないという考え方だったのですが、政府の経済外交や経済政策の失敗による30年余に亘る不況の中で、一部に人間より利益(マネー)といった風潮が生まれて来ていることも否めないようです。
マネー偏重の社会は、決して持続可能(サステイナブル)でない事、SDGsに似合わない事は、古い童話も教えてくれています。