「おおい、そろそろかえるぞお」。
遊びたりないわと、不満げなかおをみせるかと思った小夜子が「はあい!」とあかるく返事をしてきた。
どうやら砂浜をはしることに疲れたらしく、宿にもどりたがっていることがみえた。
もともと体力のあるほうでは小夜子では、海で毎日を過ごす娘の体力にかてるはずもない。
盆地育ちの小夜子の毎日といえば、本を読むかコーラスに興じるか、そこらあたりが関の山だ。
しかも女王然とふるまってきた小夜子にはかしずく者がおおく、正三を筆頭にして武蔵もまたそれを楽しんでいる。
そしてその鼻っ柱をおったのが、小夜子が敬愛してやまぬアナスターシアだった。
彼女の亡きあとのこころのすき間を埋めたのが武蔵だった。
小夜子のどんなわがままもむちゃぶりもすべて受け止めている。
当初こそあしながおじさんとみていた小夜子だったが、いまでは本人は気づかぬ思いだが、好きすぎて憎しみすらときおり感じるほどになっていた。
あたしがわがままなのは武蔵のせい、あたしがごうまんなのは武蔵のせい、あたしがいじわるなのは武蔵のせい、。
ことほどさように、すべてが武蔵で埋め尽くされている。
一日二日のあいだ武蔵が留守をすると、とたんにイライラがこうじてまわりに当たりちらす。
そして武蔵の顔をみたとたんに、こんどは武蔵にあたる。そうしてやっときもちが落ち着いてくるのだ。
「もう帰っちゃうの」。不満げに、娘が野良犬のあたまをなでながら口をとがらせた。
「新婚だからね」。そう答えると、「あした、ここで待ってるから」という娘に無言のまま、武蔵のもとに駆けよった。
「どんなはなしをしたんだ。そうだ、いっそのこと、うちでも犬を飼うか? 柴犬か、それとも外国の犬もいいかなあ」
無言のまま武蔵の腕にしがみついてきた。
小夜子の気まぐれには慣れている武蔵だが、このときだけは違和感を感じた。
「どうした、疲れたのか」。「こんやはステーキにするか、それともすき焼きがいいか?」。「食事が終わったら海岸を散歩するか」。
なんど問いかけても、うんうん、とから返事をくりかえしてくる。
なにか悩み事があるのかと気になるのだが、武蔵には思い当たることがない。
熱でもあるのかとひたいに手を当ててみるが、特段にあつく感じることもない。
顔色も肌のつやも、毎月のように美容院でうける美顔術で、それこそ映画スターにも負けない。
合点のいかぬまま、ヤシの木を横目にみながら旅館に着いた。
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