その吟味の最中に、何を思ったのか「俺が、ねずみ小僧だ!」と、自白してしまった。
大盗人だと聞かされた松平宮内家では、地団駄をふんでくやしがったというが、あとの祭りであった。
そのまま牢屋敷お預けとなり、翌六月十六日に入牢となった。
当時の調書に、こう記されている。
十年以前未年(ひつじどし=文政六年)以来、所々、武家屋敷二十八ヶ所、度数三十三度、塀を乗り越え、又は、通用門口より紛れ入り、長局等へ忍び入り、錠前をこじあけ、或いは土蔵の戸を鋸にて挽き切り、……(中略)……、引き回しの上獄門。
更に再吟味の結果、その度数は重なり、次のように記されている。
=罪状=
武家屋敷百三十三ヶ所 列記
盗みの総金額 三千四百十三両ほど。
そして、天保三年(1832年)八月十九日に、江戸中引き回しの上、鈴ヶ森で磔に処せられた。
世間では、何と二万二千両もの金を盗み貧乏人にバラまいたという噂が流れた。
ひまを出した女房に、毎月生活費を送り続けた(当時は、離縁後の送金という習慣はなかった)という話。
さらには、盆・暮れどきに家主はもちろん、同じ長屋の住民にまで届けものをしていたというエピソードも伝えられた。
もちろんその真偽のほどは、定かではない。
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前回の捕縛時においては、入れ墨中追放となり釈放されたが、今度ばかりはそうも行かなかった。
私見だけれども、つけくわえておきたい。
老中の交代劇もあり、ねずみ小僧の行状利用も終わった。
幕府は、ねずみ小僧の“義賊”評判をつくり、対露政策の失敗、貨幣の質低下による人心不安・動揺をごまかしていたのではなかろうか。
猿は、猿回しの叩く太鼓の音につられて踊る。そして、太鼓の音が止まると共に踊りを止める。
次郎吉は、自らの意志とは関わりなく、老中水野忠成という猿回しの思いのままに踊らされていたのか?
“義賊”と称する救世主を待っていた下層町民の声をどう聞いていたのであろうか?
本所回向院にある次郎吉の墓で、一度聞いてみたいものである。
参考までに、戒名は教覚速善居士、俗名は中村次良吉となっているらしい。
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