正男が目ざめたとき、沙織の姿はなかった。
脇のテーブルに「さきにかえる」との走り書きがあった。
沙織の行動が理解できない正男だった。しかし満足感一杯の正男には、どうということもないことだ。
それよりも夢に出てきた栄子のことが気になっていた。
はじめてのフラメンコという踊り、正男には衝撃だった。
「たかがダンスだろうが…」という見くだした思いが、見事にくつがえされた。
栄子というダンサーがステージ中央に立つと、ギターの調子が変わり、激しいビートを奏ではじめた。
カンタオーラの声が、地の底からひびくかのごとくに正男の耳にはいる。
パンパンとリズムに合わせた拍手と共に、正男を釘付けにしていく。
タンタンと床をふみ鳴らして、悩ましく腰をゆらしながら手首がくねくねと動き、そして怪しげな指先が正男を魅了する。
激しくゆれるスカートの裾が正男の眼前に飛んでくる。
正男は、うっそうとしげる森林の中をさまよっている。
いまどこに居て、これからどこに向かうのか、それが分からない。
クルリクルリと回りながら、激しく空に巻き上げられるスカートが、正男の脳髄を刺激する。
食い入るように見入る正男の姿は、魅了ということばでは言い表せない。
激しくたたく靴音が、ややもすると金属音に聞こえるその音が、正男の琴線にふれる。
一切の俗界から遮断され、正男と栄子だけの異次元に飛んでしまった。
知らず知らずに正男の目から涙が溢れ始めた。
なぜ涙を流すのか、溢れ出るのか、正男にも分からない。
正男を包むバリアに邪魔されて、沙織は触れることもできない。
「正男、正男」と沙織が声を掛けても、答えることはない。
沙織の声が遠くで聞こえる。のぞき込む沙織の顔が、逆望遠鏡のように遠くに見えた。
うなだれて静止するダンサー、ギターも奏でることをやめた。
カンタオーラも沈黙した。
栄子からしたたり落ちる汗が、ステージ上でとび跳ねる。
大きな拍手の鳴りひびく中、正男ははっきりとその水音を耳にした。
正男を包みこむ踊りに「なんなんだ、これって。フラメンコっていうのは…」と、我にかえった正男だった。
夢とはいえ妙に現実感をともなっていた。
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