次郎吉に、盗みにかけてそれ程の才能があったわけではない。
ただ、建具職・鳶職のてつだいが、いまになって幸いしているのである。
それに付け加え、稲葉小僧なる盗賊のことをしらべたにすぎない。
稲葉小僧は、天明の初年(1780年)頃より、大名屋敷をおそう盗賊として有名になった。
警備の手うすさを調べあげての犯行であった。
盗むものは、金子はもちろんのこと着物・小間物、はては大名屋敷のたいせつな道具類も盗み出した。
目利きができたのである。
というのも、稲葉小僧は武家の出であった。淀藩稲葉家につかえる武士の次男として生まれた。
が、幼少の頃よりの盗癖のため、ついには入れ墨の上、「たたき」の刑にしょせられた。
親元にいることができず、勘当同然にとびだした。
食べていくためには働かねばならぬものの、武士の出身ゆえに丁稚奉公をきらった。
そうこうしている内に、往来の人ごみの中でスリをはたらきだした。
そして、江戸の悪党仲間にくわわり、夜盗になったのである。
ここに、稲葉家の者ゆえに、稲葉小僧が誕生した。
稲葉小僧としての罪状はおびただしい。
武家屋敷の後に、寺院・町家へと矛先はうつった。
ありとあらゆる物を、片っぱしから盗んだ。
たんすの錠前をこじ開け、金子・腰物・小道具類・衣類・反物などを、手当たりしだいであった。
それら盗品を古道具屋へ売ったり、質入れしたりした。
大量の盗品となった折には、知人に預けることもあったらしい。
ご丁寧に、上野山内の穴の中へ隠し置いたりもした。
そして大枚の金子で遊女・飯売女等を買いあげ、どんちゃん騒ぎをくりかえした。
そしてまた大博打を打ったりもして、派手につかいまくった。
天保五年(1834年)九月、こともあろうに、徳川一橋家に忍び込み捕縛されてしまった。
吟味をしていく内に、古道具屋・質屋・上野山内の穴よりの証拠品により、いままでの悪行があばかれた。
小塚原での処刑は、同年十月であった。
次郎吉は、そんな稲葉小僧という盗人とはことなり、盗んだ金子やらを知人にあずけたり、また隠したりということはしなかった。
そしてなにより、町家をおそったりはしなかった。
そのことが、江戸っ子の人気を博したゆえんでもあった。
逃亡中に落とした一両小判が、たまたま貧乏長屋の前であったことから、「盗んだ金子を貧乏人にバラまく」という噂になったことも、人気に拍車をかけた。
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