昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

スピンオフ作品 ~ 名水館女将、光子! ~  (二十五)(明水館女将! 光子:一)

2024-10-04 08:00:11 | 物語り

 早朝に熱海駅におりたちました。
駅員さんから顔をかくすように改札をでますと、おもわず立ち止まってしまいました。
駅前にたちならびますお店のそれぞれが懐かしく感じられ、かってに涙腺がゆるんでしまいました。
すぐにも立ち去りたいのでございます。
どこで知り合いとでくわすかもしれません。
この時間にお客さまをおむかえする旅館などあるはずもないのに、この時間に駅前にまで出ばる者がいるはずもございませんのに、不安でふあんでたまらないのでございます。

 大女将からは「はやく帰ってらっしゃい」とあたたかい手紙をいただいてます。
ですが、明水館についたとたんに、大目玉を食らうのではないかと、足がふるえます。
一歩をふみだそうとするのでございますが、なかなか動いてくれません。
どなたかに背中をトンと押していただきたいのです。
「さあ、行きますよ」。そんな声をききたいのでございます。
おかしゅうございますか。わたくしらしくないと、思われますか。
たしかに、自分でもそう思います。
こんな小心者では、明水館の女将などつとまるまいと思ってしまいます。
いっそこのまま戻ろうか、三水閣にもどって気ままに気楽に暮らそうか、そんな思いにもとらわれてしまいます。

 うしろから汽笛が聞こえてまいります、そして潮風が呼応するように匂ってまいりました。
明水館のにわにさく種々雑多なくさばなの匂いも感じられます。
思いだします。長い廊下のぞうきんがけでのあかぎれを思いだします。
手にハアハアと息を吹きかけたことが思い出されます。
夜になると軟膏をぬっては、ヒリヒリとした痛みにおもわず涙ぐんだこともございました。
〝かえりたい。おっとうにしかられてもいい。おっかあがあたまをポンポンしてくれる〟。
そして〝おかえりと、ふたりして言ってくれる〟。
そんなありえないことを、思い浮かべるのでごさづいました。

 さあ、いつまでもここでグズグズしているわけにはまいりません。
人の流れもすこしずつ増えはじめた気がいたします。
あらあら、駅員さんが挨拶してくださっています。わたくしのことをご存じのようですわ。
お日さまもしっかりとわたくしを照らしてくださいます。
一歩、あゆみを進めなさいと、そのあたたかい日差しをあたえてくださいます。
参りましょう、明水館へ。

と思うのですが、またまた弱気の虫が。
おみやの松が見えてまいりましたら、とたんに足がおもくなりました。
きょうはやめて明日にしようかしら、などと考えてしまいました。
わかっております、きょうをあすに延ばしたからといって、あすになればもう一日と考えることでしょう。
そうだわ、裏口からこっそりと入り、素しらぬ顔でお客さまをお迎えする……。
お客さまのまえならば、いかに大女将のお怒りがはげしくとも……。そんなことも考えるのでございます



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