「お帰りなさい、女将さん。ああ、お客さまですか?」
玄関先を掃除中の老人が、手を止めて女将を見る。
「治平さん、ただいま。旦那さまがね、この雨に駅舎で立ち往生なさっておいでだったの。
でも、恵みの雨でした。こうしてお客さまになっていただけたのだから」
奥から手ぬぐいを持って、若い仲居がドタドタと走ってきた。
「これこれ、おたまちゃん。そんな走ってはいけませんよ。
申し訳ありません、躾がなっておりませんで。
「うん、なになに。若いんだ、仕方ないですよ」
口ではそう言いつつも、心内では宿選びに失敗したかと舌打ちした。
“どうする? 引き返すか? ここで上がってしまえば、戻れないぞ”
逡巡のきもち湧きははしたが、ぬいのえりあしの色香が思い出された。
若い仲居が、ぼーっと立ちすくんでしまった。
この地ではなかなかに出会うことのない美男子の武蔵だ。
ぬいの目にも、それは同じだ。しかも上客だ。
仕事関連とあれば、連泊になるに違いない。何としても常連客にしたいと考えている。
色気で釣るつもりはないけれども、表情が柔らかくなるのは当たり前だ。
つい、艶めかしい目つきで、武蔵を見てしまう。
熱海の女将とは違った雰囲気をかもし出している女将のぬいに、武蔵の虫がざわざわとさわぎ始めた。
しかし何といっても、新婚だ。いかな武蔵でも、しばらくは大人しくしていようと思っている。
“しかしだ。女の方から言い寄ってくれば、そいつは別だな。
据え膳食わぬは、男の恥だ。女に恥をかかせるわけにはいかんぞ”などと、勝手なことを思いめぐらせている。
部屋に落ち着いた武蔵。心づけを仲居に渡しながら、早速に声をかけた。
「女将さんは忙しいだろうかな? 手が空いていれば、来てもらいたいんだが」
「まあ、こんなにも。ありがとうございます。
女将さんですね? すぐにも来させますので、少々お待ちください。
他に何かご用がありましたら、お声をおかけください。
何はおいても、馳せ参じますので。」と、満面に笑みを浮かべている。
女将の情夫かとぞんざいな態度を見せていたが、心づけを手にした途端に豹変する仲居だ。
“ふっ、現金な女だ。ま、田舎女なんてこんなものだろうさ。
しかし好きだぜ、俺は。正直で良いや。女は賢くなくても良いのさ、色香もいらねえ。
男が女に求めるものは、何といっても安らぎだ。ほっとできる時間を作ってくれる女がいい。
外に女を囲うのは、一にも二にも、その為だわさ。
女房には求められねえアホさ加減を、男は求めるんだから。
といって、そんな女を女房にはできない。対外的にまずい。
妻を娶らば才たけて、見目麗しく情けあれ、だ”と、ひとりにやつく武蔵だ。
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