昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第二部~ (百九十六)

2022-02-10 08:00:58 | 物語り

「ねえねえ、タケゾー。町子さん、すっかり元気になってくれた。
あたしのおかげですなんて、手を合わせるのよ。
看護婦さんたちもね、そう言ってくれるの。恥ずかしくなっちゃう」
 目を輝かせて武蔵に病院でのことを小夜子が話し始めた。
キラキラと輝くその瞳をじっと見つめて、武蔵の頬も緩みっぱなしだ。
「そこまで回復したか。小夜子は、そこらの医者よりもずっと名医だな。
まだ頑張ってみるか?」
「もちろんよ。退院されるまで付きそうつもりよ」

「小夜子。昨日、お前の実家に行かせたよ」
 突然の、寝耳に水の武蔵のひと言に、言葉を失ってしまった。
見る見る顔が紅潮し、わなわなと唇が震える。
「ど、どうして! なんでいきなり行ったのよ! 
あたしから前もって連絡しなきゃ怒るわよ、きっと」
「あたし、タケゾーのお嫁さんになるって、決めてないわよ! 
タケゾーが勝手に思ってるだけでしょ。
なのに会社じゃみんなが『奥さま、奥さま』って。わざと言わせたりして」
 顔を真っ赤にして烈火の如くに怒る小夜子に、周囲の客たちがその剣幕に気圧されて席を立ってしまうほどだ。
「小夜子、小夜子、落ち着け。皆さん、驚かれてるじゃないか。
俺が悪かった、悪かった。な、とに角落ち着いてくれ」

テーブルに頭をこすりつける武蔵の様に、一様に口を開けたままの客たちだった。
正に異様な光景だ。としはも行かぬ小娘に、いっぱしの男が謝りつづけるのだから。
「あんまりよ、あんまりよ。あたしに黙って……」
 次第に涙声になる小夜子だった。
アナスターシアの死亡以来、気弱な面を見せる小夜子に、ただただ謝るだけの武蔵だった。
武蔵の元に嫁ぐ、小夜子の気持ちの中にあった。
武蔵の妻になる、それが最良のことと小夜子も分かっている。
しかし、心の隅では反発する気持ちもあった。

“お金に目がくらんだの? 金色夜叉お宮みたいに、正三さんを見限るの! 
薄情な女なのね、見損なったわ。天国のアーシアも呆れてるんじゃないの。
きっと、アーシアが泣いてるわよ”
“違う! そんななじゃない。あたしは薄情な女じゃない。
町子さんの看病に、毎日通ってるのよ。みんながあたしをほめてるじゃないの。
そうよ、正三さんが悪いのよ。あたしをほっとくなんて”
“正三さんに会わなくっちゃ。どうして連絡をくれないのか、葉書の一枚すらも。
心変わりしたの?お父さまに負けたの? どうしてもはっきりさせなくちゃ。
あたしから引導を渡さなくちゃ”

 そうなのだ、己を納得させる為の儀式が済んでいないのだ。
正三の心変わりではなく、正三にに捨てられるのではなく、小夜子の決断としたいのだ。
そうでなければならないのだ。
 武蔵の小夜子に対する愛情は、疑うべくもない。小夜子の欲すること全てを、武蔵は適えてくれる。
小夜子が熱望した女王然とした生活を送らせてくれる。
しかし釈然としないものが、小夜子の胸に渦巻いている。
それが何なのか、今の小夜子には分からない。

 平塚らいてうに憧れた小夜子。
「原始女性は太陽であった」
この一文に、小夜子の全てが始まった。



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