昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第一部~ (七十)

2021-02-10 08:00:46 | 物語り
 どうしても小夜子の涙が気になる幸恵は、意を決して尋ねてみることにした。
“もしかしてわたしの知らぬところでの、お父さまからの圧力にお兄さまが負けてしまったのでは”と、思ってしまった。
家を継がねばならぬ嫡男の正三と違い、己は他家に嫁ぐ皆のだ。
佐伯家に縛られることはない。

見合いの話がすでに届き始めたとは聞いているが、幸恵の気性を知る母親によって抑えられている。
大婆さまの意向が働き始めたことを薄々と感じてはいるが、意に沿わぬ相手に嫁そうとは思わぬし、最悪の場合には正三を頼ることすら考えている。
幸いなことに小夜子に気に入られているという自負心が、幸恵にはある。

それこそ、新しい女として自立すれば良いことと考えている。
しかし今、小夜子に異変が起きているのでは? と疑いを持ち始めた。
よもや正三に心変わりをするとは思えぬけれども、責任感の強さと共に気の弱さが気になる幸恵ではあった。

「小夜子さま。とてもぶしつけなことですし、お気に触ることかもしれませんが、お聞きしてよろしいでしょうか?」
「なあに、あらたまって。どうぞ、答えられることなら、よろしくてよ」
「小夜子さんの涙、初めて見ました。もしかして正三兄さんのことで、うちの親から何か……」。
すまなさそうに目を伏せながらの幸恵に
「あらあら、見られちゃったかしら? 心配なくてよ、正三さんのことじゃないの。
実はね、近々家を出ようかと思ってるの。
正直のところ、学業にまったく身が入らないの。焦りが、ね、あるの」

 幸恵の肩に手を置いて、心配させてごめんなさいね、と目で送った。
「えっ! 行かれるのですか? 正三兄さんは、まだ暫く後のことになると思うのですが」
「ほほほ、正三さんとわたしの東京行きは、別物よ」
「そうなんですか、ここから出て行かれるのですか」
 肩を落とす幸恵に、「お手紙を差し上げるわね、幸恵さんに」と、指切りの約束をする小夜子だった。
「待ってます、あたし。すぐに、お返事も書きますから」

“そうよね、どうしてかしら? ここのところ、突然涙が出てくるのだけど、どうしてかしら”
 東京に出ることに対し、不安がないわけではない。
しかしその不安を打ち消すほどの、明るい未来を感じる。
実のところは、信じられないことなのだが茂作のことが気にかかる。
茂作に対し、特段の罪悪感を感じるわけではない。
“ごめんね”の一言で済んでしまう程度のものだ。仕方のないことだ、と思っていた。

 しかし今、いよいよとなるとなぜかしら泣けてくる。
初めての心持ちで、どう考えたらいいのか、小夜子には分からない。
持て余す小夜子だ。小夜子の預かり知らぬところで、涙腺が緩んでしまう。
気が付くと、涙が頬を伝っている。幸恵が見た涙も、そんな涙だった。

 小夜子に涙は似合わない。どんなに辛い時も悲しい時も、ついぞ涙は見せない。
“泣いたら負けよ、負けたら終わり”。
そんな思いが、小夜子を縛り付ける。
“悲しくもないのに、どうして涙が出るの?”。
自問しても、答えが出ない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿