昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百八)

2022-03-17 08:00:10 | 物語り

「小夜子ー、帰ったぞ! どうだった? 元気にしていたか、正三くんは。
つもる話もあったろうが、故郷の話に花が咲いたか? 
小夜子、小夜子ー、いないのかー」
 矢継ぎ早に声を上げるのは、小夜子の反応が気になっているからだ。
早く小夜子に聞きたい気持ちとともに、先延ばしにしたいという気持ちもある。
そんな相反する思いが錯綜するなか、大声を張り上げつづけた。

 大きな門灯が武蔵を出迎えた。そして玄関の灯りは、煌々と点いている。
廊下もまた明るい。しかし居間に客間、そして台所の灯りは点いていない。
そして奥からは、なんの返事もない。
階段下から二階をのぞきこんでみるが、ぴっちりと襖が閉じられている。
どかどかと大きな音を立てて、階段を上がった。
その足音に小さなふくみ笑いが返ってくるのが常なのに、今夜は声がない。

“まさか……”
 背筋を冷水が滑り落ちた気がした。
“いや、そんな筈は……あるわけがない。小夜子は俺の女だ、俺のものだ。
眠っているんだ。きっとそうだ、そうに決まっている”
「小夜子、小夜子ちゃーん。どうしたのかな、疲れたのかなあ?」
 明るくやわらかく、そして甘ったるく呼びかけた。
月明かりを頼りに、薄暗い部屋をのぞき見た。

“となりの部屋か? 気分屋の小夜子のことだ、今夜は変えたか”
 寝室を変えたことなど一度とてない。まして、物置同然にしている部屋だ。
小夜子の買い求めたものが、所狭しと並べられている。衣装箪笥に長持ち、そして衣桁が。
「かーくれんぼ、かくれんぼ。そら、見つけたぞ」。
いきおい良く襖を開けてみるが、かび臭い空気が流れ出てくるだけだ。
「風を通していないのか」。武蔵の声だけが聞こえる。

“正三がなんだ、官吏さまだと? そんなもん、そんなもん”
 吐き出してしまえばいいものを、どうしても声にすることができない。
小夜子を大切にしてきたと、自負はある。
しかしそれを小夜子がどう受け止めているのか、感謝の気持ちは多少はあるだろう。
けれどもその思いを受け止めることのない小夜子だと、知る武蔵だ。
“小夜子は、俺が女にしたんだ。どうだ、そんな女をお前は、お前は受けいれられるのか。
どうだ、正三! 小夜子、お前は見限っていなかったのか? 小夜子、小夜子、小夜子”

 がっくりと肩を落として居間に入り、崩れるように本皮シートのイタリア製のソファに体を投げ出した。
会社用にと購入したのだが、その座り心地の良さに惚れこんで追加したものだ。
「痛いっ!」
突然の嬌声に驚いたのは武蔵だ。
誰も居ないと思い込んでいたこの家に、薄ぼんやりとしたこの部屋に、小夜子が居た。



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