「小夜子ー、帰ったぞ! どうだった? 元気にしていたか、正三くんは。
つもる話もあったろうが、故郷の話に花が咲いたか?
小夜子、小夜子ー、いないのかー」
矢継ぎ早に声を上げるのは、小夜子の反応が気になっているからだ。
早く小夜子に聞きたい気持ちとともに、先延ばしにしたいという気持ちもある。
そんな相反する思いが錯綜するなか、大声を張り上げつづけた。
大きな門灯が武蔵を出迎えた。そして玄関の灯りは、煌々と点いている。
廊下もまた明るい。しかし居間に客間、そして台所の灯りは点いていない。
そして奥からは、なんの返事もない。
階段下から二階をのぞきこんでみるが、ぴっちりと襖が閉じられている。
どかどかと大きな音を立てて、階段を上がった。
その足音に小さなふくみ笑いが返ってくるのが常なのに、今夜は声がない。
“まさか……”
背筋を冷水が滑り落ちた気がした。
“いや、そんな筈は……あるわけがない。小夜子は俺の女だ、俺のものだ。
眠っているんだ。きっとそうだ、そうに決まっている”
「小夜子、小夜子ちゃーん。どうしたのかな、疲れたのかなあ?」
明るくやわらかく、そして甘ったるく呼びかけた。
月明かりを頼りに、薄暗い部屋をのぞき見た。
“となりの部屋か? 気分屋の小夜子のことだ、今夜は変えたか”
寝室を変えたことなど一度とてない。まして、物置同然にしている部屋だ。
小夜子の買い求めたものが、所狭しと並べられている。衣装箪笥に長持ち、そして衣桁が。
「かーくれんぼ、かくれんぼ。そら、見つけたぞ」。
いきおい良く襖を開けてみるが、かび臭い空気が流れ出てくるだけだ。
「風を通していないのか」。武蔵の声だけが聞こえる。
“正三がなんだ、官吏さまだと? そんなもん、そんなもん”
吐き出してしまえばいいものを、どうしても声にすることができない。
小夜子を大切にしてきたと、自負はある。
しかしそれを小夜子がどう受け止めているのか、感謝の気持ちは多少はあるだろう。
けれどもその思いを受け止めることのない小夜子だと、知る武蔵だ。
“小夜子は、俺が女にしたんだ。どうだ、そんな女をお前は、お前は受けいれられるのか。
どうだ、正三! 小夜子、お前は見限っていなかったのか? 小夜子、小夜子、小夜子”
がっくりと肩を落として居間に入り、崩れるように本皮シートのイタリア製のソファに体を投げ出した。
会社用にと購入したのだが、その座り心地の良さに惚れこんで追加したものだ。
「痛いっ!」
突然の嬌声に驚いたのは武蔵だ。
誰も居ないと思い込んでいたこの家に、薄ぼんやりとしたこの部屋に、小夜子が居た。
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