計画自体は、じつに大ざっぱなものだった。
小屋から連れ出すことだけで、その後どこでどうするということまでは考え付かないものだった。
ともあれその夜、友人宅ちかくの北野神社で、午前十二時におちあうことになった。
“不良だぞ、これ。不良がやることだぞ”。恐れの心がわいていた。
“だめだ、だめだ。やるべきじゃない”。戒めるこころがわいていた。
家人に気づかれぬように足音をころして二階からおりた。
階段のきしむ音にきづいた母親の「どうしたの、こんな時間に」となじる声が、きのうまではうっとおしく感じる声が、こんやに限っては恋しく感じられた。
しかしこんやに限って階段のきむ音はちいさく、家人の誰もきづかなかった。
“ドスドスとおりればよかったろうか……”。“わるいことをしにいくんじゃないんだから”。
“なんでぼくは、いつも良い子ぶるんだろう”。そんな思いが、ぼくを責め付ける。
すでに来ていた友人に「遅かったね」となじられ「親にきづかれないようにしたから」と、言い訳をしつつふたりで歩きはじめた。
左手のトタン屋根の駐車場にそって左へと曲がると、灯りの消えた人家が建ちならんでいる。
もうしばらくすると、かどに八百屋がある。
そこを過ぎて二本目のかどを右に折れれば大通りにでる。
そしてその大通りをまっすぐにいき、信号のある大きな交差点を三つすぎると、目当ての金公園につく。
時間にして十五分ぐらいになるはずだ。
しかしこんやは人の目を避けねばならない。
深夜なのだから人通りはないだろうが、中学生ふたりなのだ、万が一にも見とがめられるわけにはいかない。
警官に補導されるわけにはいかないのだ。
不良少年というレッテルを貼られる惨めさや怖ろしさ、そして悲しさをまのあたりにしてきたぼくには、良い子のぼくには、あってはならないことなのだ。
万が一に人とすれ違ったおりにきづかれぬことのないようにと、うつむきながら歩いた。
目線を合わせたくない、それで見とがめられることはない、そう思っていた。
そろそろ八百屋があるはずだ。
距離的に考えれば、ひょっとして通り過ぎているのではと思えた。
あるべきものがないということが、どれほどに人を不安な気持ちにおとしいれるものなのか、いやというほど思い知らされた。
大した問題でもないのだが、どうにも落ち着かない。
一本や二本間違えたところで、かどを右に曲がれば大通りに出ることに変わりはないのだ。
しかし不安な思いは不吉な予感を感じさせた。
「おかしいよ、八百屋がないよ」。
まったくの異世界に迷い込んだのではないか。
不良たちだけが住む世界に入りこんだのではないか。
しきりに、不良ということばがぼまくの頭の中で走りまわった。
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