昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第二部~ (三百六十九)

2023-06-27 08:00:26 | 物語り

 昨日までの小夜子ならば、「そんなこと、あたしには関係ないわ」と、席を立つところだ。
しかしいまは、妊婦のはなしを聞きたくてならない。
ささいなことも、一言一句聞きもらすものかと身構える小夜子だ。
これから出産までの内に小夜子をおそうであろう事柄を、とにかく知っておきたいのだ。
「つわりって、どんなでした? お食事は、しっかり取れるでしょうか? 好みが変わるって、ほんとですか?」。
ことばの端々をつかまえては、立てつづけに聞いた。

「ハハハ。つわりはねえ、人それぞれだと言うねえ。ひどい人もいれば、軽い人もいる。
あたしの場合は、その中間ぐらいだったかねえ。
ま、辛いといえば辛いし、そうでもないといえばそうでもないし。
食事にしたって、そうさ。食べたい時に食べればいいのさ。
食べたい時に食べたいものを食べる。気にしないことだね、何ごとも。
ケセラセラだよ、なるようにしかならないしね」
 快活に笑いとばすその妊婦が、小夜子にはまぶしく見えた。

「そうですか、人それぞれですか、そうですか……」。
およそ小夜子とは思えぬ、気弱な声で言う。がっくりと肩を落として、いまにもくずれおちそうな風体を見せている。
「大丈夫だって! どんなにひどいつわりでも、ここの先生にまかせれば大丈夫よ。きちんと手当てしてくれるから」
「そうですか? お薬かなにか、出していただけるのでしょうね」
「ハハハ。心配性だね、あんたも。大丈夫、大丈夫。
みんなそれを乗り切って、お母さんになっていくんだから。
楽しちゃいけない。多少の苦しみはあじあわなくちゃ。そうでなきゃ、母親としての覚悟ができないじゃないか。
ま、母親になるための儀式だと思いなさい」と、受け合わない。

 その夜、武蔵の帰りを待ちわびる小夜子だが、なかなか武蔵は帰って来ない。
「遅いわねえ、武蔵は。会社はもう出たのよね? 千勢、千勢。
旦那さまはたしかに一時間もまえに、会社を出られたのよね? 
朝、なにか言ってた? 寄り道するとか、なんとか」
イライラする気持ちをおさえきれずに、千勢に当り散らしてしまう。
身を小さくしながら、千勢が答える。
「はい。会社に電話しましたら、六時過ぎに会社を出られたと聞きました。
朝ですか? とくには、なにも。いつものように『行ってくるぞ』とだけでした」

「もう! どうして起こしてくれなかったの! 旦那さまのおむかえをしない妻なんて、いないでしょうに!」
「もうしわけありません。旦那さまが『起こさなくていい』とおっしゃるものですから。
さくばんのごようすを旦那さまにお話しましたら、すごくご心配されていました。
『疲れているんだから休ませてやれ』とおっしゃられまして」
 台所の床で正座をして、ただただ小夜子の怒りがおさまるのを待った。
ただ今日の怒りようは、これまでのようなヒステリックな怒声ではなかった。
ことばこそきつめではあるけれども、勢いがよわいと感じる千勢だった。
なにかしらおなかをかばうような、弱い声だと感じた。



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