「さよこおー! いらっしゃーい!」
酒に焼けた野太い声が、小夜子にかけられた。
「梅子ねえさーん、梅子ねえさあ」
いきなりに小夜子の目から、大つぶの涙があふれでた。
当然に梅子も竹田も、当惑の色をみせる。
しかしもっとも驚いたのは、当の小夜子自身だった。悲しい思いなど、まるでないのだ。
「ど、どうした? なにかあったのかい? そうか、また武蔵に悪いくせがでたのか。
で、どこの店の女だ? まさか、うちの店じゃないだろ?
それとも、出張先かい? 病気だからね、武蔵の女あそびは。
よしよし。こんど店にきたらたっぷりととっちめてやるよ。
大丈夫、大丈夫だから。この梅子姉さんに任せときな」と、赤子をあやすように、小夜子の肩をだいてやる梅子だった。
「ちがうの、ちがうの、梅子姉さん。べつに悲しくなんかないの。
なのにね、涙がね、なみだが出てくるのよ。おかしいでしょ、こんなの」
笑いながらなみだを拭く小夜子だけれども、あふれる涙は止まらない。
「大丈夫、大丈夫。おかしくなんかない。
いいじゃないか、な。悲しくなくても、泣いたっていいじゃないか。
この梅子さんにもあるんだから。仕事を終わって、アパートに帰って、お風呂から上がって、窓の外を見るんだよ。
するとね、すーっとお日さまが昇ってくるんだ。
するとね、どうしてだか、涙がこぼれるんだよ。
きれいだね、って声を出したりしてね。だれが居るわけでもないのにさ。
おかしいだろ? それから、神さまにおれいを言うんだ。
ああ、今日もいちにち無事に終えることができました、って。
これから休みますが、このまま召されても構いせん。
明日また生を受けられるますなら、どうぞ健康体でお願いします、とね。
やまいにかかっちまうと大変だからね、独り身としては」
「そうなの? 梅子姉さんでも神さまにお願いしたりするの?
小夜子はね、朝よ。大きくのびをしてからなの。
夜はね、武蔵がそばにいるから、いてくれるからね、大丈夫なの」
うふっと、小さく笑いながら、そして頬をすこし染めながら、ごめんなさいね、ひとりの梅子ねえさんには……とより小声でつぶやく。
「でもね、でも、小夜子ね、最近おかしいときがあるの。
さっきもね、この竹田と一緒にステーキを食べようとしたんだけど、どうしても食べられなくて」
「小夜子がお肉を食べられないとは、そりゃたしかに変だ。どんな風だったんだい?」
小夜子の手を両の手でつつんでみると、すこしの熱を感じる梅子だった。
「それがね、おかしいの。ちっとも美味しく感じないの。
それどころか胸がムカムカしてね、見るのも嫌になるの。
おかしいでしょ、あたし。こんなこと、はじめてだもの」
突然に、ケタケタと笑い出す小夜子。ついさっきまでの涙が、まるで嘘のようだ。
梅子にある疑念が浮かんだが、うかつなことはいえないと、とりあえずそのことばをのみこんただ。
“まあ、ふしぎじゃないわな。男と女なんだし、もうかれこれ……”。
頭の中で指をおってみた。
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