人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

下野竜也+新日本フィルでブルックナー「交響曲第6番」を聴く~最初のコラボは成功!

2013年10月15日 07時00分22秒 | 日記

15日(火)。明日16日12時05分から内幸町の飯野ビル1階エントランスロビーでランチタイムコンサートが開かれます 今回はこのコンサートで初めて、ピアノを離れてボーカルとギターによりポピュラー音楽が演奏されます

ボーカルの川部真未さんは洗足学園音楽大学(ミュージカルコース)卒、平成22年度、23年度・同大学ミュージカルコース最優秀演奏者賞を受賞した実力者 面接をした飯野ホール支配人Kさんによると、かなりの美人とのこと ギターの石川恭平さんは同じ洗足学園音楽大学ジャズコース卒の俊英

演奏曲目は「星に願いを」、ミュージカル「キャバレー」より、同「レ・ミゼラブル」より、などミュージカルの曲が中心のようです。お近くにお出かけの際には是非お立ち寄りください

 

          

 

  閑話休題  

 

昨日、すみだトりフォニーホールで新日本フィルの第516回定期公演を聴きました プログラムは①シューマン「チェロ協奏曲イ短調」(チェロ:ルイジ・ピオヴァノ)、②ブルックナー「交響曲第6番イ長調」で、指揮は2001年ブザンソン国際指揮者コンクール優勝者・下野竜也です 

 

          

 

私は新日本フィルの室内楽シリーズの定期会員でもあるので、舞台上を見るとなお馴染みの演奏者が揃っていて親近感を感じます やはり、オーケストラは定期演奏会だけでなく、少人数による室内楽の演奏会を開くことも大事なことだと思います

1曲目のシューマン「チェロ協奏曲イ短調」は1850年、シューマン39歳の秋に作曲されました 第1楽章「速すぎず」、第2楽章「ゆっくりと」、第3楽章「きわめて生き生きと」の3楽章から成りますが、区切りなく連続して演奏され、一つの大きな流れを作ります

チェリストのイタリア人ルイジ・ピオヴァノの登場です。指揮者・下野が指揮台に乗った時と頭の位置が同じ高さです これはむしろ下野の背が低いと言うべきでしょう。コンマスは豊嶋泰嗣です

美しいメロディーが淡々と続き、どちらかというと起伏の少ない、どこが山場か分からない曲想です CDで徹底的に予習しておきたかったのですが、CDが見つからなかったので、ぶっつけ本番で聴きましたそれが原因だと思いますが、曲の良さが十分理解できませんでした。演奏者の名誉のために書きますが、決して演奏が悪かったわけではありません

拍手に迎えられて再登場したピオヴァノは、何をするかと思っていると、チェロに近いヴィオラ首席の野村さんの椅子に座り(野村さんはヴィオラの後方席に移った)、美しいメロディーを奏で始めました 最初は何の曲かまったく分からなかったのですが、そのうち「赤とんぼ」のメロディーが聴こえてきました チェロ・セクションの伴奏をバックに静かに山田耕筰の「赤とんぼ」編曲版をアンコールに演奏しました。しみじみとして良い演奏でした

休憩後は大曲、ブルックナーの「交響曲第6番イ長調」です。下野竜也は2006年から読売日響の初代正指揮者を務め、今年4月から同楽団首席客員指揮者に就任しましたが、正指揮者としての最後の演奏会のプログラムはブルックナーの「交響曲第5番」でした 今シーズンから新日本フィルでも振ることになり、最初に選んだのがブルックナーの「第6交響曲」だったのです ブルックナーに対する彼の意気込みを感じます

この曲は第1楽章「荘厳に」、第2楽章「アダージョ。非常に厳かに」、第3楽章「スケルツォ。速くなく」、第4楽章「フィナーレ。動きをもって、しかし速すぎずに」から成ります

この曲はしばらく聴いていないので、事前にCDで予習しておきました オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団のスケールの大きな演奏です

 

          

 

第1楽章冒頭から、ブルックナーの世界が展開します。下野は小さな身体を大きく動かし小気味の良いテンポで音楽を進めます 一転、第2楽章「アダージョ」では、オケにたっぷりと歌わせます。オーボエの古部賢一はいつも聴かせてくれます

第3楽章「スケルツォ」は、これでもか、と繰り返されるメロディーをたたみかけていきます。このしつこい繰り返しについていけない人は次の楽章に進めませんよ、奥さん

この楽章がフォルティッシモで終わり、無音となるはずの会場に、なぜか「キュルキュルキュル」というケータイの着信音が静かに響き渡りました 1階中央の左サイド辺りの席のようです。まだ居るのですね、こういうシーラカンス的な非常識人間が 演奏者に対して、聴衆に対して大変失礼な行為です。もしも私がその人の隣の席で、着メロが「ドラえもん」のテーマだったら、その場で張り倒します

気を取り直して第4楽章「フィナーレ」に移ります。このフィナーレこそ大管弦楽の大家ブルックナーの真骨頂です ブルックナーの頭にあるのは神への賛歌だと思います。大きなカタルシスをもたらして曲を閉じます

拍手とブラボーの中、下野はセクションごとに立たせます。自らも団員から拍手で迎えられます。下野と新日本フィルとの最初のコラボは、まずは成功と言って良いでしょう

 

          

 

さて、新日本フィルのプログラムには音楽評論家の方が分担して曲目解説を書いています 「トりフォニーシリーズ」はAさん、「新クラシックへの扉」はOさんです。読んでいていつも思うのは、このAさんの解説が非常に分かりにくいのです 読み終わってから「はて、いま何が書いてあったんだろうか?」と、もう一度読み直すことがしばしばです 「曲目解説」ですからわれわれ素人がよく理解できるように書いてほしいのですが、Aさんはどうもそれでは飽き足らないようで、「解説」を「文学」に高めようとしているかのように思われます われわれは解説に文学を求めていません 

曲目解説は音楽評論ではないのですから、その曲の出来た背景や特徴、その曲が作曲された時の作曲家を取り巻く状況などを出来るだけ”客観的”に”分かり易く”書いてほしいのです もっとも、これが「曲目解説」でなく「演奏会批評」の場合はその人の主観が前面に出ることは理解できます。それでも、ある程度は共通していると思います。分かりにくい抽象的な事がらを、いかに平易な言葉に置き換えて読者に届けるか、というのが音楽評論でメシを食っている”専門家”の役割だと思いますが、いかがでしょうか

コメント (6)
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