30日(日)。その2。太田光著「向田邦子の陽射し」(文春文庫)を読み終わりました 太田光はご存知、漫才コンビ”爆笑問題”の芸人です つい最近まで太田光が向田邦子の信仰者であることをちっとも知りませんでした
この本はⅠ.ぼくはこんなふうに向田邦子を読んできた、Ⅱ.向田邦子が書いた女と男の情景、を本編として、「読む向田邦子」ベスト10、「観る向田邦子」ベスト10を間に挟んでいます
この本を通じて、久しぶりに向田邦子のエッセイや小説などに接しましたが、「この本にはこんなことが書いてあったのか」と思うことがしばしばでした
私が向田邦子を読むきっかけになったのは、長女が実践女子高校に入学した時です。向田邦子は実践女子専門学校国語科を卒業しているからです。彼女の作品はその頃片っ端から読みました しかし、時間が経つと内容はあまり覚えていないことに愕然とします。それを「向田邦子の陽射し」は思い出させてくれました
この本の中で、なかなか鋭いと思ったところがあります。それは「生への”沈黙”-向田邦子の恋文 向田邦子の遺言」です
「向田邦子は”沈黙”の作家だと思う。今回、こうして向田邦子作品を読み返し、やはり改めて思い知ったのは、向田さんの”沈黙”の凄まじさだ。『思い出トランプ』でも、『あ・うん』でも、多くのエッセイでも、いつも感じ、感動し、恐ろしく思うのは向田さんの”黙っている姿”だ 読者にはそれが伝わる。”黙っている”というのは、”言葉を発しない”ということではない。言葉を、言葉以外のことを伝える為にその道具とする、ということだ。例えば音楽は、無音の状態がなければ生まれないし、生む意味もない。音と音との間に無音がある。また、音の後ろにも無音がある。我々は音を聞きながら、実は必ずその後ろにある無音を目指している」
それから、もう一つ、向田文学の特徴をよく言い表している言葉があります
「向田さんの作品には、人間というのは愚かで、未熟で、自然も破壊するし、戦争も起こす。大変なことが起こっているのに、登場人物が飯を食ったりする。そんなやつらだけれど、それがいとおしいじゃないかというメッセージがある」
向田作品を読んでいると、確かに指摘されているような”目”が感じ取れます
それから、1979年にNHKで放送された「阿修羅のごとく」の「女正月」の台本を取り上げた部分で、太田光は次のように書いています
「四姉妹がぺちゃくちゃ話している。話の核心は親父の浮気なのに、脇道にそれながら、ぺちゃくちゃ話をする。揚げ餅を頬張りながら、またぺちゃくちゃ。男は次女の旦那ひとり。そのうち長女のさし歯がとれて、「やだ」と言ってハンカチを口で隠す。普通のコメディとしてもおもしろいし、それが人物紹介にもなっている シナリオの教科書みたいなシーン。でも誰も真似できない。これを手本にして書け、とシナリオセンターで言われてもできない。こんなアクロバットは向田さんにしかできない」
これを読んでいて、なぜか、モーツアルトの歌劇「フィガロの結婚」を思い出しました この歌劇の台本はフランスの喜劇作家ボーマルシェの原作を基にイタリア出身の台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテが書き、それにモーツアルトが音楽を付けた訳ですが、時に、ソロが二重唱に、二重唱が三重唱に、三重唱が四重唱にと、どんどん歌が拡大していきます。こういうところは「阿修羅のごとく」のいくつかのシーンによく似ているな、と思いました さしずめ、向田邦子は日本のダ・ポンテか
太田光は「読むベスト10」の一つに「あ・うん」を挙げています。「あ・うん」の最初の「狛犬」を途中まで紹介して「以下略」としています。この先はどうだったか、気になって、文春文庫「あ・うん」を引っ張り出して「狛犬」の続きを読みました。向田作品にはそういう魅力があります
太田光はエッセイでは「水羊羹」をベスト1に挙げています。向田邦子は、水羊羹を食べる時にかける音楽はミリー・ヴァ―ノンの「スプリング・イズ・ヒア」が一番合うと書いています これを初めて読んだ時は、普段は行かないCDショップのジャズのコーナーに行って買い求めました。「スプリング・イズ・ヒア」を聴いてみて、そうか、向田邦子はこういう音楽が好きなのか、と感心したのを覚えてます ちなみにCDの曲目解説によると「春が来たけど、心は弾まない。恋人が居ないから」という春の憂鬱を歌ったもの、とありました 「スプリング・イズ・ヒア」は当時の向田邦子の心象風景を歌ったものだったのでしょうか