人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

高橋英夫著「疾走するモーツァルト」を読む~光と影のアンビヴァレンツが魅力

2014年03月31日 07時00分43秒 | 日記

31日(月)。とうとう3月も今日で終わり。明日から4月、新年度です 一昨日は一斉に桜が咲いたと思ったら、昨日は一転、”花に嵐”の雨の日になってしまいました 21日(金・春分の日)から29日(土)までの9日間で11回のコンサートを聴いたせいか、身体の疲れが取れません という訳で、昨日は外出せず、家でスダーン指揮東響によるシューベルト「交響曲第2番、第3番」や、アンジェラ・ヒューイットの演奏するショパン「夜想曲・即興曲集」のCDを聴きながら本を読んで過ごしました

 

          

          

 

  閑話休題  

 

高橋英夫著「疾走するモーツァルト」(新潮社)を読み終わりました この本は、先日高橋英夫氏の死去のニュースに接して、20数年ぶりに本棚から引っ張り出して読み始めたものです 手元の単行本は1987年5月20日発行、1988年2月20日5刷と表示されています。長女が2~3歳の頃に買ったと思われます

 

          

 

先日のブログで、この本の「序章」の一端をご紹介しましたが、この本のタイトル「疾走するモーツアルト」は、小林秀雄が『モオツァルト』の中で「スタンダールは、モーツアルトの音楽の根柢はtristesse(かなしさ)というものだ、と言った。アンリ・ゲオンは弦楽五重奏曲K.516の第1楽章冒頭について tristesse allante と呼んだ。確かにかなしさは疾走する。」と紹介しているところから取られています

 

          

 

高橋英夫氏は第Ⅱ章「逃走」の中で、この話をさらに掘り下げ、小林秀雄はゲオンの言葉を誤訳したのではないか書いています

「小林秀雄が、ゲオンのいう allante を『疾走する』と訳し、『モーツアルトのかなしさは疾走する』といったのは小林秀雄的『誤訳』、一種の創造的誤訳ではなかったのか

「ゲオンは tristesse allante を直接にはニ長調の『フルート四重奏曲K.285』の第1楽章について言っているのである もちろんすぐ続けて、その曲が後の傑作、ト短調の『弦楽五重奏曲K.516』の冒頭の『新しい音』を時に響かせていると述べているし、K.516を語った個所からも、ゲオンがこのト短調の中にやはり tristesse allante を感じていたであろうことは察しがつくのであるのだが

「しかし、訳語の『疾走する』はもう少し問題にしなければならない。語学的にはそれは誤っているが、だからといって現行の仏和辞典での allante の訳語『動き回ることの好きな、活動的な』、『元気旺盛な、はつらつとした』、『活動的な、元気な』を持ってきて、例えば『活動的な悲しみ』、『はつらつとした悲しさ』というふうに言い表せば、的確と言えるだろうか それでもまだぴったりしないように思われる。これは『陽気で軽快』ではあるが、、中には『悲しみ』がたたえられているという二つの矛盾した特性の融合なのである アンビヴァレンツを含んでいるのである。ゲオンが言いたかったのはそれであろう。このように了解した上で、おそらくいかなる訳語も完全には表現しきれないモーツアルト的本質がそこにある、と受け止めるほかない

私はこの文章に接した時、なるほどと思うと同時に、モーツアルトの音楽の本質は「光と影」「陰と陽」「表と裏」の同居ではないかとも思いました。とくに短調の曲を聴いている時に強く感じます

モーツアルトと同じことを感じたのは、意外にもヴィヴァルディの音楽でした もうかなり前のことです。NHKのテレビドラマでヴィヴァルディのフルート協奏曲が使われていたのですが、すごく楽しげなメロディーなのに、聴いていてすごく悲しいのです この時も音楽はアレグロで”疾走”していました。思い出してみるとドラマは悲劇的な内容でした。その時、この番組のディレクターは音楽の分かる人だな、と思いました

さて、「疾走するモーツアルト」は「序章」「唯一者」「逃走」「深淵」「記憶」「調和」「謎」「終章」、2つの「インテルメッツォ」から成りますが、日本におけるモーツアルト音楽の演奏史なども書かれていて興味が尽きない内容になっています 古い本なので一般の書店には売っていないと思われます。興味のある方は神保町あたりの古書店でお求めください

 

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