25日(日)。昨日は午前11時から「ポゼッション」と「ローズマリーの赤ちゃん」の2本立てを観る予定で、開演30分前に着くように早稲田松竹に行ったのですが、何と私の前の人までで満席になってしまいました 同館は小規模な映画館のため 3密防止の観点から 今なお市松模様の座席配置をとっており、入場者を定員の半分以下に抑えているのです
2回目のサイクルを観ると終演が夜になってしまうので諦めて帰ってきました
幸い この2本立ては来週金曜日まで上映されるので、来週月曜日に出直すことにしました
ということで、わが家に来てから今日で2215日目を迎え、米大統領選に向け22日にあった、共和党のトランプ大統領と民主党のバイデン前副大統領による2回目のテレビ討論会は、相手候補の発言中にマイクのスイッチを切る措置と合わせ、司会役だったNBCテレビのアンカー、クリステン・ウェルカー氏による質問や進行が効果的だったと称賛する声が上がった というニュースを見て感想を述べるモコタロです
マイクのスイッチを切ってフェイクを防いだ後は トランプとの縁を切る番じゃね?
今日(10月25日)はチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調」初演の日です この曲はピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840-1893)が1874年に作曲した作品です
チャイコフスキーはピアノの巨匠アントン・ルビンシテインが1866年に開設したモスクワ音楽院に教授として迎えられ、当時すでに作曲家として広く認められていました
チャイコフスキーは曲が完成すると、先輩に敬意を払い批評を仰ごうと考え、アントンの弟で同音楽院の校長だったニコライ・ルビンシテインと同僚のフーベルトの前で試奏しました
ところが、演奏が終わるとルビンシテインは「書き直すなら、自分が初演してもよい」と激しくこき下ろしたのです
これに対しチャイコフスキーは改訂を拒否し、自分の良き理解者であるドイツのピアニストで指揮者のハンス・フォン・ビューローに楽譜を送りました
ビューローはこの作品が独創的で高貴な曲だとして、予定されているアメリカへの演奏旅行で初演したいとチャイコフスキーに伝えました
こうした経緯から、彼はこの曲をビューローに献呈し、1875年10月25日にボストンでビューローのピアノ独奏により初演されたのです
初演は大成功で、翌月にはモスクワで初演されました。その後、ルビンシテインはこの曲を演奏会で頻繁に取り上げ、作品の普及に貢献しました
初演と言えば、チャイコフスキーが1878年に作曲した名曲「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」もトラブルがありました チャイコフスキーは完成した楽譜を彼の経済支援者メック夫人に送りましたが、夫人からは称賛の声はなく、その後、楽譜を当時ロシアで最も偉大なヴァイオリニストと称されていたペテルブルク音楽院教授のレオポルト・アウアーに送りましたが、「演奏不可能」として初演を拒否されました
結局、ライプツィヒ音楽院教授となったロシア人ヴァイオリニストのアドルフ・ブロツキーのピアノ独奏、ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルの演奏により1881年12月4日に初演されました
その後、批評家ハンスリックらに酷評されましたが、ブロツキーが繰り返しこの作品を取り上げて演奏したこともあって、次第に作品の真価が理解されるようになり、アウアーも演奏するようになったと言われています
「ピアノ協奏曲第1番」にしても「ヴァイオリン協奏曲」にしても、今でこそ 音楽史に残る名曲中の名曲として世界中に知れ渡っていますが、曲が完成した当時は「現代音楽」なので、周囲の理解を得るのは生易しいことではなかったのでしょう 今の時代に作曲される「現代音楽」も、繰り返し演奏されることがなければ後世に残りません
したがって、作曲家は繰り返し演奏するのに堪えうる作品を作曲しなければなりません
「ピアノ協奏曲第1番」のCDは十数枚持っていますが、マルタ・アルゲリッチの3種類のCDをご紹介します
1枚目はシャルル・デュトワ指揮ロイヤル・フィルとの共演盤(1967年録音)です
2枚目はキリル・コンドラシン指揮バイエルン放送交響楽団との共演盤(1980年録音)です
3枚目はクラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルとの共演盤(1994年 ライブ録音)です
オーケストラこそ違いますが、アルゲリッチはアルゲリッチ。唯一無二の名演です