人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

「マルハラスメント」再び / 本間ひろむ著「日本のピアニスト ~ その軌跡と現在地」を読む ~ アルゲリッチやグールドを知らない現代の音大生、舞台に上がるとピアニストは人間性まで見られてしまう

2024年03月05日 06時37分39秒 | 日記

5日(火)。今日から5日連続コンサートを控えていることから、昨日は映画を観たいのを我慢して、ベッドに寝転んで予習CDを聴きながら読書をして過ごしました 今はとにかく予定されたコンサートを聴くことを最優先に考えて、長時間座ることを控えなければなりません このブログはパソコンで書いていますが、30分くらい書いたら立って休憩を入れ、また書き始めるようにしています

ということで、わが家に来てから今日で3338日目を迎え、イランで女性が髪を隠すヒジャブの着用強制に抗議する曲を発表し、米アカデミー賞を受賞したイランのシェルビン・ハジプールさん(26)が、デモを扇動した罪や反体制的な宣伝をした罪で禁固3年8月の判決を受けた  というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

     普通の女性は アナクロニズムの極致を行くイランでは 生活したくないだろうなあ

 

         

 

昨日、夕食に「ビーフシチュー」「生野菜とアボカドのサラダ」を作りました 牛肉はいつも通りバラ肉を使いましたが、とても美味しかったです

 

     

 

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「マルハラスメント」については2月27日付のtoraブログで、26日の朝日「天声人語」で取り上げられていた内容をご紹介しました

奇しくも同じ昨日、朝日朝刊文化欄(加藤雄介記者)と 日経夕刊のコラム「令和なコトバ」(ライター福光恵さん)で「マルハラ」が取り上げられていました

朝日は「『。』は冷たい?  句点に感情深読み 会話型ツールで薄れる必要性 世代間ギャップ」という見出しで、日経は「句点は脅しのメッセージ?」という見出しにより「。」(句点)の使われ方について書いています

朝日の記事は句読点の歴史について解説していて参考になります

「句読点の歴史はそれほど古くない。『源氏物語』には句読点がない 『てんまる 日本語に革命をもたらした句読点』の著者で大東文化大の山口謡司教授によると、かつては係り結びの法則や『候』などの文字が文章の切れ目を示す句読点的な意味合いで使われた 現在の形式に近い句読点が整備されたのは明治期以降。山口教授によると、文法が簡略化された言文一致が進み、話し言葉なら発声や抑揚の違いで伝わっても文章だと読み間違いが出るため、区切りを明確にする必要が高まったという。山口教授は『句読点はまさに記号なので、意味が伝わるのなら、なくても問題ない』と語る

この記事で気になったのは、「20年以上前の携帯電話のメールでは、句読点代わりに様々な絵文字や記号が使用され、絵文字がないメールは『愛想がない』と敬遠されもした そして現在、絵文字や記号の多用がむしろ『おじさん構文』『おばさん構文』と批判的に語られもする状況に」あるという記述です これは日経の記事でも同じことが指摘されていました toraブログは「おじさん構文」に陥っているでしょうか? 皆さん、どう思われますか

 

         

 

本間ひろむ著「日本のピアニスト ~ その軌跡と現在地」(光文社新書)を読み終わりました 本間ひろむは1962年東京都生まれ。批評家。大阪芸術大学芸術学部文芸学科中退。専門分野はクラシック音楽評論・映画評論。著書は「ユダヤ人とクラシック音楽」「アルゲリッチとポリーニ」「ピアニストの名盤」など多数

 

     

 

著者は「まえがき」の中で次のように書いています

「女優とピアニストは職業ではない。女優は生まれながらにして女優であり、ピアニストは生まれながらにしてピアニストなのである もちろん、それ相応のトレーニング&プラクティス(お稽古や訓練)が必要なのは当然ですよ。ただ、お稽古や訓練さえすれば誰でも女優やピアニストになれるわけではない。ほとんどの場合、その夢は叶わない たとえば、『1万時間の法則』というのがある。その分野のエキスパートになるためには1万時間の訓練等が必要だという、『ニューヨーカー』誌スタッフライターのマルコム・グラッドウェルが提唱した理論だ。あくまで目安だが、ピアニストでいうと、ちょうど音大に入るために必要な時間がそれくらいである 時間以外のコストも相当かかる。ピアノの楽器自体、高額である それなりのピアニストの個人レッスンともなるとやっぱり高額

「ピアニストは生まれながらにしてピアニストである」という著者の考え方は何となく分かるような気がします 周囲を見渡しても、ピアノ教室で教えている(いた)人のブログを読んでも、「ろくに実力もないのに他人にピアノを教えるなんて、ほとんど詐欺ではないのか 生徒が可哀そうだ」と思うことがたまにあります どうやらピアノを教えるには「資格」はいらないようなので、本人がある程度ピアノが弾ければ誰でも教えることが出来るらしいですね。個人的にはそこが問題ではないか、お金を取って教えるからには、検定試験制度のようなものを作って合格した者だけがピアノを教えることができるようにすべきではないのか、と思います このように書くと、あちこちから石やブロックが飛んできそうですね

本書は次の各章から構成されています

まえがき

序 章「鹿児島 ~ 浜松  ー  オルガンからピアノへ」

第1章「横浜、そして上野  ー  日本人ピアニスト誕生と東京音楽学校」

第2章「上野の森、あるいは調布  ー  東京藝大と桐朋学園」

第3章「浜松  ー  ヤマハとカワイの出生地」

第4章「ロンドン、ベルリン、あるいはヘルシンキ  ー  海外で活躍するピアニスト」

第5章「ワルシャワ  ー  ショパンの聖地で輝いた若者たち」

終 章「東京、奈良、そしてサイバー空間  ー  日本のピアニストの現在地」

付 録(日本のピアニスト・ディスコグラフィ30)

あとがき

上記の章立てを見れば分かる通り、本書は日本における楽器としてのピアノの歴史(ヤマハとカワイ)をはじめ、黎明期から現在 第一線で活躍する若手に至るまでのピアニストを紹介しています 内容が広範囲にわたるので、個人的に印象に残ったところに絞ってご紹介します

著者は第3章「浜松  ー  ヤマハとカワイの出生地」の中でヤマハ音楽教室の出身者でチャイコフスキー・コンクールで優勝した上原彩子を紹介しています 同コンクールの審査委員長から「5年は結婚せず、10年は子どもを産まないように」と言われていたにも関わらず、彼女は結婚して子どもをもうけています その時彼女は「結婚をして子供ができ、自分と違う意見を持つ人間と初めて向き合った」と語り、「舞台に上がるとピアニストとしてだけではなく、丸裸になる。人間性まで見られてしまう」と吐露しています 著者は「つまりは、ピアノの音は単なる楽音ではなく、ピアニストのパーソナリティそのものが発露してしまうのだ」と書いています さらに、「このことは中村紘子が『ピアニストだって冒険する』の中で指摘している」として次のように紹介しています

「1994年に『第2回浜松国際ピアノコンクール』に初めて審査員として参加し、日本人参加者と欧米そしてロシアの参加者たちとの間に歴然とした違いがあるのを確認して、内心ショックを受けた そのはっきりした違いとは、ひと言で言えば、『響きが無い』に尽きるだろうか この『響き』とは、音の大小、強さのことではない。そこに込められた奏者の率直な想いや息吹、思想や宇宙、要するにつきつめて言えば、その人を育んできた『文化』のことに他ならない

その中村の尽力もあり、1996年から毎年開かれている「浜松国際ピアノアカデミー」でもコンクール形式での1位を決めるようになります 著者はこのアカデミーから巣立ったピアニストとして、清塚信也、小菅優、上原彩子、チョ・ソンジン、牛田智大、高木竜馬、藤田真央を挙げていますが、いずれも後に国際的な活躍をするピアニストです

著者は終章「東京、奈良、そしてサイバー空間  ー  日本のピアニストの現在地」の中で、ピアニストの金子三勇士のツイートを紹介しています

「ピアノを専攻している現役の学生さんたちと話して感じること。今の時代、CDプレーヤーを持っていない。テレビもない。音楽はスマホかPCで、主にYouTubeで鑑賞している ⇒ ここまではなんの問題もない    しかし、グールド、ポリーニ、ツィメルマンやアルゲリッチを知らないのは、やはり悲しい」(2022年1月7日のツイート)

これを受けて著者は、「若い世代がCDプレーヤーやテレビを持っていないのは予想がつくが、グールドやアルゲリッチを知らなかったりする学生が多いのには驚く」と書き「ホロヴィッツやポリーニを知らないとお話にならない」と述べています

アルゲリッチを知らない マジか   グールドを聴いたことがない モグリか  かてぃんなら知ってるって   誰だって知ってるよ  どうせ絵文字の多用の「おじさん構文」だよ

本書は読みやすい語り口で書かれています ピアノのみならず、クラシック音楽全般に興味のある方にお薦めします

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