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映画 『アイズ ワイド シャット』

2025年04月23日 12時10分09秒 | 社会・文化・政治・経済

2025年4月22日午前0・50分からCSテレビのムービープラスで観た。

これで2度目である。

アイズ ワイド シャット』(Eyes Wide Shut)は、1999年製作の映画。スタンリー・キューブリック監督の遺作となった。原作はアルトゥル・シュニッツラーの『夢小説』(1926年)。

主演の2人に加え、結果的に監督の遺作となったという話題性も上乗せされて、7月以降のロードショーでは世界的なヒット作となった。

タイトルの Eyes Wide Shut は、英語の常套句 "(with) eyes wide open"(目を大きく開いて)をもじった一種の言葉遊びで、結婚にまつわるベンジャミン・フランクリンの警句が直接の出典とされ、さらに遡って『テンペスト (シェイクスピア)』をルーツとする指摘もある。なお、当映画の試写会5日後に監督スタンリー・キューブリックは急死する。死因は発作要因不明の心臓発作とされている。

アメリカでの公開は性的シーンによってNC-17(成人映画扱い)の指定を避けるため(ワーナーとの契約でR指定が条件だった)、キューブリックの右腕であったレオン・ヴィタリ監修で性交シーンには後ろ姿のヌード・モデルやローブを着た男女の人影などが合成されて、R指定で公開された。

日本では無修正版で公開され、R-18(成人映画扱い)に指定されている(アメリカでのビデオ販売の際はVHS、DVDでは無修正のUnrated版とR指定修正版が併売されていた。Blu-rayでは無修正版のみ)。

 

アイズ ワイド シャット』(Eyes Wide Shut)は、1999年製作の映画。スタンリー・キューブリック監督の遺作となった。原作はアルトゥル・シュニッツラーの『夢小説』(1926年)。

主演の2人に加え、結果的に監督の遺作となったという話題性も上乗せされて、7月以降のロードショーでは世界的なヒット作となった。

タイトルの Eyes Wide Shut は、英語の常套句 "(with) eyes wide open"(目を大きく開いて)をもじった一種の言葉遊びで、結婚にまつわるベンジャミン・フランクリンの警句が直接の出典とされ、さらに遡って『テンペスト (シェイクスピア)』をルーツとする指摘もある。なお、当映画の試写会5日後に監督スタンリー・キューブリックは急死する。死因は発作要因不明の心臓発作とされている。

アメリカでの公開は性的シーンによってNC-17(成人映画扱い)の指定を避けるため(ワーナーとの契約でR指定が条件だった)、キューブリックの右腕であったレオン・ヴィタリ監修で性交シーンには後ろ姿のヌード・モデルやローブを着た男女の人影などが合成されて、R指定で公開された。日本では無修正版で公開され、R-18(成人映画扱い)に指定されている(アメリカでのビデオ販売の際はVHS、DVDでは無修正のUnrated版とR指定修正版が併売されていた。Blu-rayでは無修正版のみ)。

あらすじ

ニューヨークの医者であるビルと妻のアリスは、ビルの患者で大富豪のジーグラーが開いた盛大なクリスマス・パーティーに招かれる。広間でピアニストとして演奏する旧友のニックと再会するビル。倦怠期を迎えているビルとアリスは、それぞれ相手を見つけてパーティーを楽しむが、ビルは医者として奥に呼ばれる。ジーグラーと裸でバスルームにいたマンディという若い女性がドラッグの過剰摂取で意識不明に陥ったのだ。ビルの適切な処置でマンディは一命を取りとめたが、ビルはこの一件を口止めされる。ビルが姿を消した理由を知らないアリスは、ビルが浮気したと邪推する。

翌晩、ビルを責めて、自分も色目を使ってきた若い海軍士官に興味があると挑発するアリス[3]。そこへ老患者のネイサンソンが自宅で逝去したという知らせが入り、ビルはタクシーで患者宅へ向かう。しかし、その車中で、ビルはアリスが海軍士官とセックスをしているという妄想を抱き、懊悩する。

ネイサンソンの枕元で娘を慰めていると、彼女は急にビルにキスをする。ほとんど会話したこともないハイミスの娘だが、愛していると迫られて、ビルは早々に屋敷を後にする。しかし、混乱して街を歩くうちにドミノという娼婦に声をかけられ、ビルは彼女のアパートに入ってしまう。

アリスからの電話を受け、ビルはドミノとはキスだけをして、金を払ってその場を去る。ピアニストのニックが出演しているバーを見つけ、ビルはニックと酒を酌み交わす。ニックはこの後、深夜2時から仕事があると言い、それが淫らな秘密パーティーでの演奏だと知ったビルは、ニックから無理に場所とパスワード(合言葉)を聞き出す。

深夜に貸衣装屋を叩き起こして、秘密パーティーに必要な黒マントや仮面を借り出したビルは、タクシーで会場の邸宅へ向かう。屋敷の中では裸の女たちと黒マントの客たちが仮面を被って享楽に耽っていた。しかし、ビルは大広間で黒マントの客たちに取り囲まれる。ビルが予定外の侵入者であることはバレていたのだ。仮面を外させられ、命の危険を感じたその時、ビルを知っている様子であった裸の女の一人が彼の代わりに罰を受けると申し出た。ビルは屋敷から追い出され、家に逃げ帰る。

翌日、ニックを探して宿泊先のホテルを訪れたビルは、ニックが早朝にチェックアウトし、同行して来た強面(こわもて)の男たちに連れ去られたとフロント係から聞かされる。ビルは貸衣装を返しに行き、マスクだけが無くなっていることに気づく。プレゼントを携えて、ドミノの部屋を再度訪れたビルだったが彼女は不在であり、同居人からドミノがHIV陽性だったと聞かされる。

そしてビルは、ジーグラーの屋敷で治療した若いマンディが麻薬中毒で病院に運ばれ死亡したという新聞の記事を読む。秘密パーティーで自分の身代わりになったのはマンディであり、そのために彼女は殺されたのだと考えたビルは困惑する。そんなビルを、ジーグラーが屋敷に呼びつけた。

ジーグラーは、昨夜の秘密パーティーに自分も参加していたと打ち明ける。パーティーに出席していたのは誰もが知る著名人たちであり、秘密厳守は絶対だった。ビルがパーティーのことを他所で喋ったり、これ以上の詮索をしないように、「死の恐怖という芝居」で脅したとジーグラーは説明し、マンディが身代わりで罰を受けると進み出たのも芝居だと語る。

ピアニストのニックは秘密を漏らしたペナルティでパーティーの用心棒に殴られたが、すでにシアトルの家に帰っており、マンディは麻薬中毒の娼婦で、パーティー終了後に自宅で過剰にドラッグを摂取し、偶然に事故死したのだという。

帰宅したビルは、無くしたと思っていたマスクが自分の枕の上に置いてあるのを発見する。ビルは泣きじゃくりながら、アリスにこの2日間の出来事を告白した。翌日、娘とともにクリスマスの買い物へ出かけたビルとアリスは、これから2人はどうするべきかを話し合う。アリスは「大事なこと」をすぐにするべきだと言い、ビルが何をするのかと尋ねると、彼女は一言「ファック」と返答する。

あらすじ

ニューヨークの医者であるビルと妻のアリスは、ビルの患者で大富豪のジーグラーが開いた盛大なクリスマス・パーティーに招かれる。

広間でピアニストとして演奏する旧友のニックと再会するビル。

倦怠期を迎えているビルとアリスは、それぞれ相手を見つけてパーティーを楽しむが、ビルは医者として奥に呼ばれる。

ジーグラーと裸でバスルームにいたマンディという若い女性がドラッグの過剰摂取で意識不明に陥ったのだ。ビルの適切な処置でマンディは一命を取りとめたが、ビルはこの一件を口止めされる。

ビルが姿を消した理由を知らないアリスは、ビルが浮気したと邪推する。

翌晩、ビルを責めて、自分も色目を使ってきた若い海軍士官に興味があると挑発するアリス[3]。そこへ老患者のネイサンソンが自宅で逝去したという知らせが入り、ビルはタクシーで患者宅へ向かう。しかし、その車中で、ビルはアリスが海軍士官とセックスをしているという妄想を抱き、懊悩する。

ネイサンソンの枕元で娘を慰めていると、彼女は急にビルにキスをする。ほとんど会話したこともないハイミスの娘だが、愛していると迫られて、ビルは早々に屋敷を後にする。しかし、混乱して街を歩くうちにドミノという娼婦に声をかけられ、ビルは彼女のアパートに入ってしまう。

アリスからの電話を受け、ビルはドミノとはキスだけをして、金を払ってその場を去る。ピアニストのニックが出演しているバーを見つけ、ビルはニックと酒を酌み交わす。ニックはこの後、深夜2時から仕事があると言い、それが淫らな秘密パーティーでの演奏だと知ったビルは、ニックから無理に場所とパスワード(合言葉)を聞き出す。

深夜に貸衣装屋を叩き起こして、秘密パーティーに必要な黒マントや仮面を借り出したビルは、タクシーで会場の邸宅へ向かう。屋敷の中では裸の女たちと黒マントの客たちが仮面を被って享楽に耽っていた。しかし、ビルは大広間で黒マントの客たちに取り囲まれる。ビルが予定外の侵入者であることはバレていたのだ。仮面を外させられ、命の危険を感じたその時、ビルを知っている様子であった裸の女の一人が彼の代わりに罰を受けると申し出た。ビルは屋敷から追い出され、家に逃げ帰る。

翌日、ニックを探して宿泊先のホテルを訪れたビルは、ニックが早朝にチェックアウトし、同行して来た強面(こわもて)の男たちに連れ去られたとフロント係から聞かされる。ビルは貸衣装を返しに行き、マスクだけが無くなっていることに気づく。プレゼントを携えて、ドミノの部屋を再度訪れたビルだったが彼女は不在であり、同居人からドミノがHIV陽性だったと聞かされる。

そしてビルは、ジーグラーの屋敷で治療した若いマンディが麻薬中毒で病院に運ばれ死亡したという新聞の記事を読む。秘密パーティーで自分の身代わりになったのはマンディであり、そのために彼女は殺されたのだと考えたビルは困惑する。そんなビルを、ジーグラーが屋敷に呼びつけた。

ジーグラーは、昨夜の秘密パーティーに自分も参加していたと打ち明ける。パーティーに出席していたのは誰もが知る著名人たちであり、秘密厳守は絶対だった。ビルがパーティーのことを他所で喋ったり、これ以上の詮索をしないように、「死の恐怖という芝居」で脅したとジーグラーは説明し、マンディが身代わりで罰を受けると進み出たのも芝居だと語る。

ピアニストのニックは秘密を漏らしたペナルティでパーティーの用心棒に殴られたが、すでにシアトルの家に帰っており、マンディは麻薬中毒の娼婦で、パーティー終了後に自宅で過剰にドラッグを摂取し、偶然に事故死したのだという。

帰宅したビルは、無くしたと思っていたマスクが自分の枕の上に置いてあるのを発見する。ビルは泣きじゃくりながら、アリスにこの2日間の出来事を告白した。翌日、娘とともにクリスマスの買い物へ出かけたビルとアリスは、これから2人はどうするべきかを話し合う。アリスは「大事なこと」をすぐにするべきだと言い、ビルが何をするのかと尋ねると、彼女は一言「ファック」と返答する。

アイズ・ワイド・シャット 儀式シーン 逆再生 - ニコニコ動画

考察・検証】『アイズ ワイド シャット』の儀式・乱交シーン ...
 
アイズ・ワイド・シャットを詳しく解説|bitotabi

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アイズ・ワイド・シャットを詳しく解説|bitotabi

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アイズワイドシャットはキューブリックの最高傑作!感想とネタバレ

キャスト

 

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永遠性の上から見なければ、本当の「勝者」は分らない

2025年04月23日 11時27分13秒 | その気になる言葉

▼他人がどう考えているか、時代がどう見ているかは、永遠からみれば小さいものだ。

時代は変わり、人の心は移ろう。

それらを超えて、見つめるのは「人間」である。

人間の「魂」だ。

長い歴史の上から、また永遠性の上から見なければ、本当の「勝者」は分らない。

▼試練を受けなければならない。

試練とか困難の時にこそ、民衆や神に祝福される指導者が現れるのだ。

その人こそ嵐の中で人類のために戦っている指導者である。

▼善の行為をしている人間が、ある面でみれば、善でない場合がいっぱいある。悪の場合である。

キリスト教でいえばイエスも、当時は悪人である。

死刑となるが、しかし、そうであっても善である。

政治的な評価は、絶えず揺れ続け、批判され続けるだろう。

だが、そんなものに左右されたり、屈してはならない。


「推し」の公明実績

2025年04月23日 11時16分56秒 | 社会・文化・政治・経済

2025年4月16日

読者ら490人に聞いた「推し」の公明実績・前編

 

公明党女性委員会(委員長=竹谷とし子代表代行)はこのほど、「あなたの『推し』の公明実績アンケート」を実施しました。その結果を、ランキング形式で2回にわたって紹介します。前編は総合ランキングとともに、世代別(20~40代)を特集します。(<後編>は4月23日付に掲載予定)

総合ランキング

アンケートは今年3月26日から4月6日まで、公明新聞をはじめ、党女性委員会のSNSなどを通じて行いました。回答数は490人。そのうち、女性が87.3%、男性が11.6%でした。年代別にみると、50代が27.1%と最も多く、次いで、60代が22%、40代が18.2%、30代が17.6%と続きます。

「推し」の公明実績を約30項目の中から選んでもらったところ(最大三つまでの複数回答)、最も多かった回答は「携帯料金の引き下げ」で25.1%でした。その理由に「全世代が恩恵を受けられた実績なのが良かった」「公明党の引き下げの署名に参加した。実現したのを実感できた」といったコメントが寄せられていました。

次いで、「教科書の無償配布」が23.5%、「児童手当の拡充」と「学校エアコンの設置」が21.2%で続くという結果になりました。回答者からは「子育て世代に寄り添ってくれて本当にありがたい」「学校エアコンの設置は命に関わるので必須です」などの声も。また、物価高に直面する今、「食品への消費税軽減」がほとんどの世代でトップ10入りするなど、家計負担の軽減策として実感しているのが浮き彫りになりました。

回答者が自由に書き込める「その他」の意見を紹介すると、▽難病指定の拡充▽アレルギー疾患対策の充実▽地元の女性議員の実績――などが挙がっていました。

世代別ランキング

イチオシ動画ご案内
佐々木氏、女性が働きやすい環境を

参院国土交通委員会で佐々木さやか参院議員(参院選予定候補=神奈川選挙区)は、建設業界での女性活躍の推進に関して質問。工事現場における女性用トイレの設置費の一部助成などに取り組んでいる横浜市の事例を紹介し、より踏み込んだ支援を訴えています。質疑の様子を動画で紹介しています(約1分30秒)。

女性委員会のX(旧ツイッター)はこちらから

 

 


公明党が訪中 友好深化の流れを強固に

2025年04月23日 10時58分18秒 | 社会・文化・政治・経済

2025年4月11日

交流深め関係強固に
党訪中団、劉中連部長と会談/斉藤代表、竹谷代行、平林氏
公明新聞2025/04/23 1面より

 【北京22日=塚田慎一】公明党訪中団の斉藤鉄夫代表は22日午後、羽田空港を出発し、北京に到着した。竹谷とし子代表代行、平林晃国際局次長(衆院議員)が同行した。党訪中団の派遣は2023年11月以来で、斉藤代表就任以来初めて。

■日中友好でアジア繁栄へ

 今回の訪中は経済、外交などの分野について意見を交わし、相互交流を深め、関係を強化することが狙い。斉藤代表は中国側の要人会談に臨む予定で、石破茂首相の習近平国家主席に宛てた親書を持参している。

 斉藤代表は同日夜、北京市内で中国共産党中央対外連絡部(中連部)の劉建超部長と会談した。

 席上、斉藤代表は党訪中団の派遣に対する中連部の協力に謝意を表明し「公明党は、1964年の結党以来、中国との友好を一貫して推進してきた。両国が仲良くしていくことがアジアの平和、繁栄につながる」と力説した。

 その上で、昨年11月に石破首相と習国家主席が会談し、今年1月にも日中与党交流協議会が6年3カ月ぶりに再開したことに触れ、「日中のつながりを深めていく機運が増している」と強調。一方、両国間に懸案や課題があることを指摘し、「今回の訪中を通して日本国民の懸念を伝え、率直に意見交換したい。信頼を増す土壌を醸成していくことにつなげ、中国とさらなる友好関係を築きたい」と語った。

 劉氏は公明党の訪中を歓迎し、「公明党は、日本政界において古い友人であり、中日国交正常化への実現のために歴史的に貢献してきた。連立与党でも中日関係の前進の先頭に立っている」と強調した。

 
 

友好深化の流れを強固に 
斉藤代表に竹谷、平林氏が同行

10日の中央幹事会で公明党の斉藤鉄夫代表は、党として今月22日から25日の日程で中国を訪問すると発表した。斉藤代表を団長に、竹谷とし子代表代行、平林晃国際局次長(衆院議員)が同行する。

今回の訪中は、中国共産党中央対外連絡部(中連部)の招へいによるもの。北京や遼寧省を訪問し、中国共産党幹部や政府要人と会談する予定。党訪中団は2023年11月以来で、斉藤代表の訪中は代表就任以来初めて。

中央幹事会の席上、斉藤代表は今回の訪中の意義について「国際社会が不透明さを増す中、中国は日本にとって最大の貿易相手国であり、経済、外交の両面で戦略的に重要なパートナーだ。要人との会見を通して友好を深め、経済や安全保障などの懸念についても率直に意見を交わし、前向きな解決に向けて取り組みたい」と強調した。

日中関係の発展に向けては「今年1月に再開された日中与党交流協議会など前向きな流れをさらに確かなものにしたい」との考えを表明。その上で、かつて自身が中国と交流を重ねてきたことを振り返り「07年には当時、政治局常務委員だった習近平氏と人民大会堂で会見した経験もある。これまで積み重ねてきた信頼を基に中国指導部と率直な対話を行い、日中関係のさらなる深化に貢献していく」と力説した。

 

交流深め関係強固に
党訪中団、劉中連部長と会談/斉藤代表、竹谷代行、平林氏
公明新聞2025/04/23 1面より

 【北京22日=塚田慎一】公明党訪中団の斉藤鉄夫代表は22日午後、羽田空港を出発し、北京に到着した。竹谷とし子代表代行、平林晃国際局次長(衆院議員)が同行した。党訪中団の派遣は2023年11月以来で、斉藤代表就任以来初めて。

■日中友好でアジア繁栄へ

 今回の訪中は経済、外交などの分野について意見を交わし、相互交流を深め、関係を強化することが狙い。斉藤代表は中国側の要人会談に臨む予定で、石破茂首相の習近平国家主席に宛てた親書を持参している。

 斉藤代表は同日夜、北京市内で中国共産党中央対外連絡部(中連部)の劉建超部長と会談した。

 席上、斉藤代表は党訪中団の派遣に対する中連部の協力に謝意を表明し「公明党は、1964年の結党以来、中国との友好を一貫して推進してきた。両国が仲良くしていくことがアジアの平和、繁栄につながる」と力説した。

 その上で、昨年11月に石破首相と習国家主席が会談し、今年1月にも日中与党交流協議会が6年3カ月ぶりに再開したことに触れ、「日中のつながりを深めていく機運が増している」と強調。一方、両国間に懸案や課題があることを指摘し、「今回の訪中を通して日本国民の懸念を伝え、率直に意見交換したい。信頼を増す土壌を醸成していくことにつなげ、中国とさらなる友好関係を築きたい」と語った。

 劉氏は公明党の訪中を歓迎し、「公明党は、日本政界において古い友人であり、中日国交正常化への実現のために歴史的に貢献してきた。連立与党でも中日関係の前進の先頭に立っている」と強調した。<


戦争は人間性の敗北 フランシスコ・ローマ教皇

2025年04月23日 10時30分25秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

 「戦争は人類の敗北」教皇、一般謁見で
教皇フランシスコは、一般謁見の会場で参加者と共に、戦争の犠牲者を思い起こし、祈られた。

 

 教皇フランシスコは、3月23日(水)、バチカンで行われた一般謁見の席で、戦争の犠牲者を思い起こし、参加者と共に祈られた。

 一般謁見の終了前、教皇は、ここで戦争の犠牲者を思い起こしたい、と述べた。

 「疎開する人、逃げる人、亡くなった人、負傷した人、戦死した多くの双方の兵士たち…、これらはすべて死のニュースです。いのちの主に、戦争の死からの解放を祈りましょう」と教皇は招いた。

 「戦争に勝利はありません。あるのは敗北だけです」と述べた教皇は、「主が聖霊をおくり、戦争は人類の敗北であり、むしろ戦争自体に打ち勝つことが必要だと、わたしたちに理解させてくださるように」と願った。

 そして、教皇は「主の霊がわたしたちをこの戦争という自滅から守るように」、また「治世者たちが、武器の取引と製造は問題の解決にならず、聖書が言うように、共に平和のために働くことこそが解決であると理解するように」と祈られた。

 こうして、教皇は巡礼者らと共に「アヴェ・マリアの祈り」を唱えられた。

大きなミッションのためにあなたの支援を:すべての家に教皇の声を伝えるために


23 3月 2022, 14:29


最新の謁見
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父親と二人の息子のたとえを考察、教皇一般謁見カテケーシス
26/03/2025


イエスとサマリアの女の出会いを観想、教皇一般謁見カテケーシス


20/03/2025


教皇、イエスとニコデモの出会いを考察、一般謁見カテケーシスですべて読む >
23-04-2025 15:50

 

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教皇謁見
サンタ・マルタ館でのミサ


山田寿子 自伝「長い旅路」より 下半身にたばこの火 治安維持法下

2025年04月23日 10時02分42秒 | 社会・文化・政治・経済

知られざる女性への性的拷問

 

<picture><source srcset="https://cdn.mainichi.jp/vol1/2025/04/21/20250421k0000m040067000p/6.webp?1" type="image/webp" />高等女学校時代の山田寿子さん=自伝「長い旅路」より</picture>
高等女学校時代の山田寿子さん=自伝「長い旅路」より

1925年に公布、敗戦後の45年に廃止

 言論や思想の自由を奪った治安維持法が1925(大正14)年に公布され、4月22日で100年を迎えた。45年に同法が廃止されるまで10万人以上が検挙され、拷問や病気で死亡した人は1000人以上とされる。重く暗い時代。多くの女性も弾圧され、想像を絶する性的な拷問に遭っていた。

 「裸にされ、下半身にたばこを押しつけられて……。どれだけひどい辱めだったのか」。元京都府議の原田完さん(74)=京都市中京区=は自身が高校生のころを思い出す。ある日、母の山田寿子(としこ)さん(98年に87歳で死去)が、自宅を訪ねてきた作家につらい過去を淡々と語っている姿を見た。初めて知る衝撃的な事実。原田さんは、母が亡くなるまで詳しく尋ねることができなかった。

 山田さんは11(明治44)年、鳥取市に生まれる。地元の高等女学校を卒業して上京。下町の開業医の手伝いとして働き、そこでの体験が人生を変えた。

差別直視し労働運動に

 医師は貧しい患者を遠ざけ、お金がない労働者には埋葬に必要な死亡診断書すら出そうとしない。貧富の差で死後も差別される現実を目の当たりにした。仕事をやめ、当時の共産党機関紙「無産者新聞」や町工場で働き、労働者を支援する運動にかかわるようになった。

 治安維持法は、共産主義者や労働運動の関係者らを幅広く標的にした。28(昭和3)年には最高刑を死刑とする法改正が行われ、これに反対した当時の労農党衆院議員・山本宣治が右翼の男に暗殺される事件が起きた。山本の葬儀には多くの労働者が集まり、警察は参加者を軒並み検挙した。

 山田さんもその一人だった。これ以降も同法に違反したとして繰り返し検挙され、過酷な拷問を受けた。自伝「長い旅路」によると、横浜の警察署では1カ月以上にわたって拘束。自身や仲間の名前を一切言わない山田さんに対し、特高警察は竹刀でたたいたり、鉄球が入った袋を足にぶつけたりした。裸にされて後ろで手錠をかけられ、下半身にたばこの火をつけられた。その後、懲役5年の刑に服した…

 

長い旅路 山田寿子 1997年2刷 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟群馬支部

 

 

 


検証 治安維持法: なぜ「法の暴力」が蔓延したのか

2025年04月23日 09時55分30秒 | 社会・文化・政治・経済

1925年5月に施行された「治安維持法」。
国体の変革または私有財産制度の否認を目的とした結社を処罰することをその主な主旨として成立した。
当初は反社会的な運動を取り締まるものであったが、次第に政府の政策を批判する者や自由主義者、労働運動なども取り締まりの対象となった。
1945年に日本の敗北とともに撤廃されるまで20年間その運用は続き、国内外での検挙者数は10万人以上におよんだ。
本書では治安維持法の「悪法」性を正しく捉えるべく、現代的かつ多角的な視点からのアプローチを用いて深く検証する。

《目次》
序章

第一章 治安維持法小史――施行から廃止まで
1 前史
2 治安維持法の成立
3 治安維持法の「改正」
4 一九三〇年代前半の運用
5 一九三〇年代後半の運用
6 新治安維持法の施行
7 治安維持法の廃止

第二章 治安維持法はだれが、どのように運用したのか
1 検挙から送致へ――特高警察
2 起訴――思想検察
3 予審――裁判所1
4 公判――裁判所2
5 行刑・保護観察・予防拘禁
6 軍法会議による処断

第三章 戦時下抵抗と治安維持法による「法の暴力」
1 唯物論研究会事件
2 京大俳句会事件
3 神戸詩人クラブ事件
4 横浜事件と細川嘉六
5 3人の弁護士たちによる弁護活動

第四章 朝鮮における治安維持法
1 治安維持法の運用開始
2 全開する治安維持法
3 拡張する治安維持法
4 暴走する治安維持法
5 治安体制の崩壊

第五章 台湾における治安維持法
1 治安維持法の運用開始
2 治安維持法運用の全開
3 戦時体制下の治安維持法
4 治安体制の解体

第六章 「満洲国」の治安維持法
1 関東州と在満外務省警察の治安維持法運用
2 反満抗日運動の取締法制定
3 暫行懲治叛徒法運用の全開
4 「満洲国」治安維持法の猛威
5 治安体制のなかの行刑・矯正輔導
6 「満洲国」治安体制の終焉

第七章 治安維持法の威力の震源=「国体」とは何だったのか
1 治安維持法への「国体」の組込み
2 治安維持法における「国体」の確立
3 「国体」変革観念の拡張
4 特高警察・思想検察と「国体」
 

著者について

1953年埼玉県生まれ。82年早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。
小樽商科大学商学部教授を経て、2018年定年退官、同大学名誉教授。専門は日本近現代史。主な著書に『思想検事』『特高警察』(ともに岩波新書)、『よみがえる戦時体制─治安体制の歴史と現在』(集英社新書)、『治安維持法の歴史』全6巻(六花出版)、『小林多喜二の手紙』(編集、岩波文庫)などがある。
 
 
  • 治安維持法は中型国語辞典で見出し語として採用されています。
    それくらい悪法として有名だということなのでしょう。

    本書に触れることによって、踏み込んだ事項を多く知ることができます。、
    日本国内おける治安維持法の適用状況を知ることになったり、裁判がどうやって進行
    したのか、朝鮮、台湾、「満州国」における適用状況もわかります。
    直接書かれていないことでも、条文そのものはネット上に存在するので目を通すこと
    ができました。
    いろんな意味で具体的に知ることで、書いたり話したりする際に役立ちそうです。
     
  • 本書は「治安維持法の悪法性=『法の暴力』(p15)を「検証」(書名)するものです。
     それなら「治安維持法」の条文を本書に掲載すべきでしょう。条文全文を読まずして法律を理解することはできません。
    また、日本における「戦後治安体制の速やかな復活」(p481)や「『新しい戦前』の進行」(p489)を著者が懸念されているなら猶更のこと“悪法”の全文を紹介すべきでした。"こんな条文でも「悪法もまた法なり」(p17)と言うのかね"と。
    ★一つ減点とした理由です。
     条文全体を知りたい向きは『治安維持法小史』(奥平康弘著、岩波現代文庫)をお勧めます。この書の巻末に「治安維持法関連法律・法律案条文」(pp303-325)が載っています。
     ところで「新しい戦前」という言葉は「タモリ氏による発言に触発されて注目」(p13)とありますが、かつては羽仁五郎、家永三郎がよく使ったフレーズです。
    両人それぞれの講演会で「今やまさに新しい戦前」云々と語ったので、「どんな点が戦前ですか」と尋ねようしましたが、質問は受け付けられませんでした。
    前者に至っては開口一番「諸君、すでに戦前と言っていい時代を迎えた」。会場は大きな拍手に包まれたことを思い出します。
 
 
 
 

治安維持法一〇〇年:「新しい戦中」にしないために 

2025年04月23日 09時47分37秒 | 社会・文化・政治・経済

社会運動や思想・言論の自由を弾圧し、日本が戦争へと突き進むなかで取締り対象を異常なほどに拡張していった治安維持法。その実態を教育・思想に焦点をあてて描き、朝鮮・台湾・「満洲国」でより苛烈に運用された問題も提示する。

[目次]

まえがき
第1章 治安維持法とは何だったのか
1 戦前の治安維持法体制
――植民地朝鮮・台湾、「満洲国」における運用を視野に(荻野富士夫)
コラム1 「大東亜治安体制」の構想(荻野富士夫)
コラム2 治安維持法関係史料の残り方と現況(荻野富士夫)

第2章 治安維持法に抗した人びとを語り継ぐ――教育・思想の自由をめぐって
1. 京都学連事件――治安維持法国内最初の適用事件 (本庄 豊)
2.長野県「二・四事件」――「教員赤化事件」という攻撃に抗して(小平千文)
3.一五年戦争期の兵庫の「新興教育運動」から学ぶ(田中隆夫)
4.「唯物論研究会」弾圧と周辺の人びと(黒川伊織)
5.村山俊太郎、ひでがめざした民主主義とそれへの弾圧(村山士郎)
6.北海道綴方教育連盟事件と生活図画事件(川嶋 均)
7.治安維持法下朝鮮の学生運動――光州事件と春川中学・常緑会事件(丸浜 昭)
8.エスペランチスト・長谷川テル―日中友好のかけはしとなって(西田千津・田辺実)
コラム3 戦争末期の庶民の言辞から日本社会を見る(丸浜 昭)

第3章 治安維持法は今も生きている
1.戦後、治安維持法体制の断絶と連続(関原正裕)
コラム4 特高官僚・思想検事の戦後(桜井千恵美)
2.現代の治安維持法――特定秘密保護法・共謀罪の成立(白神優理子)
3.安保三文書と改憲のねらい(山田 朗)
4.権力犯罪を告発した「横浜事件」再審と国家賠償請求(山本志都)
5.経済安全保障政策のねらいと現在(布施祐仁)
6 学問と教育の自由をめぐる攻防――統制と介入、抵抗の戦後八〇年(河合美喜夫)

第4章 治安維持法はどう教えられているか
1 平和に向けて教員と生徒はどう語り合うか――治安維持法に関するある授業から(内田一樹) 2  絵を描いただけで罪になるのか?――治安維持法の変遷に注目して(伊藤和彦)
   3 治安維持法は教科書にどのように記述されているか(河合美喜夫)
資料 安維持法と関連法/治安維持法関連年表

著者について

[編]
荻野富士夫(おぎの ふじお):1953年生まれ、小樽商科大学名誉教授(日本近現代史)。主要著作:『治安維持法関係資料集』全4巻(編、新日本出版社、1996年)、『特高警察関係資料集成』全38巻(編・解説、不二出版、1991-2004年)、『検証 治安維持法――なぜ「法の暴力」が蔓延したのか』(平凡社新書、2025年)

歴史教育者協議会(れきしきょういくしゃきょうぎかい):1949年結成。歴史・社会科の教員と研究者を中心に、全国に会員をもつ。授業づくりの研究、地域の歴史の掘り起こしなどにとりくみ、機関誌『歴史地理教育』を発行している。
 
 
 
 

 


利根輪太郎の競輪人間学 振り出しに戻る

2025年04月23日 01時38分18秒 | 未来予測研究会の掲示板

2025年4月22日 取手競輪

5レース

3=1245=12457の3連単で勝負する

5R A級 初日特別選抜

枠番 車番 選手名 着差 上り SB
1着 3 3 橋本智昭   11.6  
2着 6 6 石坂永伍 1車身1/2 11.6  
3着 5 5 小林史也 1/4車輪 11.8   S

 
払戻金
2車複 3-6 1,600円 5人気
2車単 3>6 1,840円 6人気
ワイド 3-6 360円 5人気
3-5 340円 3人気
5-6 1,500円 16人気
3連複 3-5-6 3,990円 10人気
3連単 3>6>5 10,670円 30人気
 

 

2025年4月22日 熊本競輪

8R S級 選 抜

3-7 3-5の3連単で勝負する。

 
枠番 車番 選手名 着差 上り SB
1着 3 3 竹山陵太   11.6 S
2着 4 4 吉松直人 1/8車輪 11.6  
3着 2 2 今村麟太郎 1/8車輪 11.7   B

払戻金
2車複 3-4 2,360円 8人気
2車単 3>4 4,480円 13人気
ワイド 3-4 820円 8人気
2-3 630円 6人気
2-4 670円 9人気
3連複 2-3-4 1,910円 6人気
3連単 3>4>2 25,730円 48人気
 
 
9R S級 選 抜

1-2-5 1-3-5 1-4-5 1-7-5を買う

 
枠番 車番 選手名 着差 上り SB
1着 1 1 市橋司優人   11.6  
2着 5 5 小林弘和 1/8車輪 11.5  
3着 2 2 西村光太 1/4車輪 11.3   S

払戻金
2車複 1-5 250円 1人気
2車単 1>5 340円 1人気
ワイド 1-5 150円 2人気
1-2 140円 1人気
2-5 220円 3人気
3連複 1-2-5 370円 1人気
3連単 1>5>2 660円 1人気

 

10R S級 準決勝

1-4と4-1の3連単で勝負する

 
枠番 車番 選手名 着差 上り SB
1着 3 3 岡本総   11.2  
2着 2 2 雨谷一樹 1車輪 11.1  
3着 5 5 藤井栄二 1/2車輪 11.6   B

払戻金
2車複 2-3 2,740円 9人気
2車単 3>2 7,620円 21人気
ワイド 2-3 930円 12人気
3-5 1,190円 15人気
2-5 1,390円 16人気
3連複 2-3-5 5,870円 16人気
3連単 3>2>5 33,150円 73人気
 

 


コメ価格高騰

2025年04月22日 08時47分54秒 | 日記・断片

我が家はm小文間の長男の友人の農家からコメを直接購入している。

25㌔7000円が、8000円となったが、5㌔1600円。

家人の友人たちにも分けているのであるが、「ありがたい」と感謝されている。

韓国では5㌔3000円ほど。

 


利根輪太郎の競輪人間学 競輪は2本立て?!

2025年04月22日 00時38分23秒 | 未来予測研究会の掲示板

F1 熊本競輪 おトクにPLAYオッズパーク杯

初日(4月21日)

9レース

並び予想 1-3-5 7-2-4 6(単騎)

3-1 3-2 3-7の3連単で勝負したが・・・




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
× 1 2 志村 太賀   11.3    
2 7 原田 亮太 1/4車輪 11.6 B  
3 1 藤井 栄二 3/4車身 11.4   S  
4 3 西村 光太 微差 11.3      
5 5 小堺 浩二 3/4車身 11.2      
  6 6 伊藤 奎 5車身 11.6      
  7 4 小沼 良 1車身1/2 11.9      
 
2

未発売
2

2=7
1,260円(4)
3

1=2=7
3,200円(9)


1=2
400円(5)
1=7
880円(12)
2=7
480円(6)
未発売
2-7
1,620円(6)
2-7-1
11,870円(31)

並び予想 1-4-6 5-2 3-7




選手名 着差 上り 決ま
り手
S

B
勝敗因
  1 4 成田 和也   10.9    
× 2 1 新田 祐大 3/4車身 11.2 B  
  3 6 大槻 寛徳 1/2車輪 10.9      
4 2 小川 勇介 1車身1/2 10.8      
5 5 河端 朋之 1/2車輪 10.5      
6 3 吉田 拓矢 1車身1/2 11.0      
7 7 雨谷 一樹 1/2車身 10.9   S  
 
2

未発売
2

1=4
430円(2)
3

1=4=6
730円(3)


1=4
300円(3)
1=6
690円(12)
4=6
460円(7)
未発売
4-1
1,060円(4)
4-1-6
2,210円(5)

優しいコミュニケーション「おもいやり」の言語学

2025年04月21日 10時36分54秒 | 社会・文化・政治・経済

 

 
ビジネス会議ではなぜ雑談が大事?
会話での相槌にはどんな意味が? 日常の会話、ビジネス会議やオンラインの話し合い、リスクコミュニケーションを、社会言語学の視点から具体的に分析すると、コミュニケーションを成り立たせる条件がみえてくる。
誰も排除しない社会に向けた「人に優しい話し方・聞き方」のヒントがここに。
 
 
「聞き合い」から生まれる「優しい」言葉
「雑談」の重要性。
 
雑談が、相手への心理的な配慮として働くとともに、業務遂行に
とっても、プラスにも働く。
また、雑談から生まれる言葉の中に「革新」のアイデアが埋まっている場面にしばしば遭遇してきましたーと著者はいう。
 
共感に伴う心理的なつながり。
 
自分の言葉で「語る」
 

著者について

村田和代(ムラタ カズヨ)
奈良県橿原市生まれ.ニュージーランド国立ヴィクトリア大学大学院言語学科Ph.D. (言語学).現在,龍谷大学政策学部教授・学部長.専門は社会言語学(コミュニケーション研究).主な編著に,『シリーズ話し合い学をつくる 全3巻』『聞き手行動のコミュニケーション学』(ひつじ書房),『包摂的発展という選択――これからの社会の「かたち」を考える』『「対話」を通したレジリエントな地域社会のデザイン』(日本評論社,共編)など.
 

 

言葉の大切さが分かります

伝える際の言葉選びを
分かりやすく事例に応じて解いてくださってます
会社や組織で上司にあたる方には
是非読んで欲しい本です

 

そうですね

コミュニケーションの方法を論じています。
「優しい」コミュニケーションとは何かを捉えることができます。
最終章では、雑談・聞くこと・双方向がキーワードなっているようです。。
そのことを、この最終章に至るまで、例を出しながら論じています。
納得ですね。

最近、私の職場で、あることについて、仕事の同僚と話していた時のことを思い出しました。
我々より自分が偉い(?)と思っている方が、断りも無く
突然、私と話をしている同僚に話しかけてきました。
その方は、コミュニケーションの仕方をわかっていない方だと思いました。
(困った人ですね。たぶん、このような方にコミュニケーションの仕方を言っても無駄であると思います。)
私は蚊帳の外となり、話は中断して、その場を去りました。

とにかく、
「優しい」コミュニケーションを考えるために読んでも良い本でしょう。


優しいコミュニケーションの実現へ向けた社会言語学の貢献

社会言語学者である著者による、①社会言語学の魅力や面白さを伝える、②優しいコミュニケーションのエッセンを考える、③言語・コミュニケーション研究の社会への貢献方法を提示する、という三つのメッセージが込められた書である。

本書は6つの章から構成されるが、まず1章で概念や理論が紹介される。

この後も、学術的な知見に裏打ちされた記述が基本となるが、特に1章はその性格が強い。続く2章からは、より具体的な話が中心となり、「雑談」の効用が説かれる。さらに、3章は「聞くこと」の重要性が説かれる。

4章は、具体事例から、優しさを表すことが難しい場面でのコミュニケーションについて、コロナ禍初動期のリーダーのコミュニケーションにつき安倍首相・小池都東京都知事・吉村大阪府知事のコミュニケーションのあり方が分析される。オンラインでのコミュニケーションについても事例分析も行われる。

5章では、社会貢献に関する著者自身も関わる実践例を示す。終章は、優しいコミュニケーションについて整理した短めの章となる。

新書200ページ程というコンパクトな分量に、研究と実践がバランス良く盛り込まれ、著者が言うところの「優しいコミュニケーションとは」ということを読者に伝え、さらに考えさせてくれる好著である。


本当は怖い優しすぎる社会

果たしてデス・マス体を使えば優しいコミュニケーションなのかについては疑念が残る。しかしそれは措いておくとして、本書p.3にこんな記述がある。
 [引用開始]
 たとえば、廊下で学生とぶつかってしまった時に「ごめんなさい、痛くなかったですか?」と言ったら、「いや、全然大丈夫っす! 先生こそ、痛くなかったっすか?」と返事が返ってきたとしましょう。
 規範主義的なアプローチをとれば、「その日本語は間違っていますよ」と答えるべきでしょう。すなわち「全然は否定形と呼応するので、「全然痛くなかったです」といったように後ろに否定形をもってくる必要があります。それから、「大丈夫っす」は正しい文末表現ではありません。「大丈夫です、痛くなかったですか」と言うべきです」というのがその解説です。
 一方、社会言語学的(記述文法的)アプローチは、言語使用は時代と共に変化すると考え、「全然+肯定形」を新しい表現(使い方)としてとらえます。加えて、「っす」については、主として若い男性が使用し相手への親しい丁寧さを表す(社会的な意味)という研究結果があります。[引用おわり]
 この箇所を読んだだけで、ダメだこりゃと思った。四角括弧や丸括弧が煩雑過ぎて何やら訳が分からない。
 しかしもっと本質的な誤謬を指摘したい。「言語使用は時代と共に変化する」のは事実だが、「その日本語は間違っていますよ」の規範主義そのものが誤りだ。これはどういうことかと言うと、「全然+肯定形」は全然新しい表現ではなく、明治大正期の文学作品に度々出てくる、ごく当たり前の表現なのだ。新しいというより先祖返り現象と言って良い。こうした歴史も踏まえずに、こんな無知な状態で「優しいコミュニケーション」もへったくれも無い。
 「全然+肯定形」が廃れ、「全然+否定形」の一辺倒になるのは昭和に入ってからだが、そこに昭和軍国主義が絡んでいるのか否かは不明だ。一部の識者は、英語の授業で習う not ・・・ at all =「全然・・・ない」と、昔のドイツ語の授業でエリートの卵たちが習った gar nicht ・・・ =「全然・・・ない」という訳語に影響され、いつの間にか「全然」は肯定形に使ってはならないという誤った規範意識が芽生えたという説を提唱している。
 これが平成に入ると主に若者の間で「全然+肯定形」が復活した。そして明治大正期の文学作品を読んだこともない無知な大人(教員に多い)が、「その日本語は間違っていますよ」と余計な事を言ったものだ。
 まぁとにかく物を知らずに本を書くことの恐ろしさを教えてくれた点だけは評価できよう。

「優しい」とは?

著者の言う「優しいコミュニケーション」と言うのが一体何なのか最後までわからなかった。

 

これからの時代に求められる「コミュ力」を身に付ける本

多様性を重んじる時代、何をもって「正しい」言葉遣い、「正しい」コミュニケーションとするかが一概に言えなくなり、学校や会社といった組織レベルから、家族や友人といった身近な人間関係レベルまで、異なるバックグラウンドを持つ人同士でぎくしゃくする場面が増えている。
これは〇〇ハラにあたるのか、これは炎上するのか、誰もが手探りで言葉を探している。

そんなコミュニケーションの過渡期とも言えるこの時代に、本書は相手を思いやるコミュニケーション方法に立ち返り、様々な事例とともに、どうすればその時々のオーディエンスにとって「やさしい」交流が出来るか追究している。

世代や性別、価値観や文化等が自分と異なる相手に対してのコミュニケーションに悩む、あらゆる読者が、明日からのコミュ力を劇的に変えられる一冊となっている。

『コミュニケーション』を立体的に...

「コミュニケーションとは双方向である」...あたりまえのこととわかっていても、
ふり返ってみると、一方的に話すことばかりしている...そんなことはないでしょうか。
 一対一のコミュニケーションから、集団で意見をまとめる会合のファシリテーション
まで、コミュニケーションを立体的に考えさせてくれます。

コミュニケーションについ
ての考え方を整理することができました。
 理解を進めるための具体的なやり取りを示してくれていますが、紙幅のために限られ
てしまっています。この本を入門として、続編ではそれぞれの場面でどのような意図で、
どのようなやり取りをしているかを教えていただきたいと思います。

 

雑談は、優しいコミュニケーションにとって非常に重要

私は製薬企業のMRとして長年、営業活動に携わってきたが、現役時代の私は雑談が苦手で、「○○先生、本日、私がお話ししたい事項は3つでございます。第1は・・・」と、単刀直入に用件を切り出したものです。

このたび、『優しいコミュニケーション――「思いやり」の言語学』(村田和代著、岩波新書)を読んで、雑談の重要性に気づいたが、時、既に遅しですね。

「雑談はユーモアと並び、職場談話の典型的な、人と人との関係を紡ぐ言語実践です。このような機能を担う言語的ふるまいは、相手のフェイス(対人関係上の基本的な欲求)への配慮として働くと同時に、業務遂行にとってもプラスに働く点が指摘されています」。

「雑談の主要な目的として、沈黙を解消することがあげられます」。

「話し合いの基礎作り・場作りを担うのは、本題に関わる情報伝達を行う談話ではなく雑談なのです。とりわけ、価値観もバックグランドも異なる者同士で行われる話し合いにおいて、雑談は非常に重要な役割を担います。話し合いが活発に進み、参加メンバーが忌憚なく意見を出し合える活発で建設的な話し合いを行うためにも、雑談は必要不可欠なのです」。

「雑談は、『雑』でもなく『small』でもなく、優しいコミュニケーションにとって非常に重要です。皆さんは一日の中で、誰と、どれくらい、どんな話題で雑談していますか?」。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

日米安保条約改定日米安保条約改定

2025年04月21日 10時19分07秒 | その気になる言葉

1960年、自民党岸信介内閣によって進められた日米安保条約の改訂。日米軍事同盟強化に反対する運動(安保闘争)が起こったが、強行採決され、6月に成立。岸内閣は退陣し、池田内閣に交代した。

 1960年に激しい反対運動を抑え込んだ自民党岸内閣とアメリカのアイゼンハウアー大統領によって締結され、日米軍事同盟が強化された新安保条約。
 1951年に締結された日米安全保障条約(旧安保)は、日本の自衛隊発足前のもので、アメリカ軍による保護協定的な性格が強かった。1955年に保守合同で成立した自由民主党は政権与党として自主憲法制定、共産圏に対する防衛力強化を掲げて、安保条約を日米対等な軍事同盟とする改定をめざした。
1957年には岸信介首相・アイゼンハウアー大統領間で改定の方向で一致し、改訂作業に入り、前条約の改定期を迎えた1960年に改定することで合意し、1月19日に調印した。国内の大きな反対運動をが起こったが、5月20日に岸内閣は衆議院で強行採決、反対運動が続く中、1960年6月19日に自然成立した。この1960年に締結された条約を一般に新安保条約といい、さらに10年後の1970年に再改定されたので、現在の日米安保条約とはこの70年に改訂されたものを言う。

新安保条約の内容

 以下に主な内容を挙げる(数字は条)。
2・両国の経済的協力を促進する。 
3・武力攻撃に抵抗する能力を維持、発展させる。 
5・日本国の領域でいずれかが攻撃された場合に共同防衛する。 
6・極東における国際の平和および安全に寄与するためにアメリカ軍による施設・区域(基地)の使用が許される(その実施にあたっては事前協議を行うことが別に定められる)。
10・10年後に締約国の通告があれば1年後に終了する。

日米地位協定

 日米安保条約の第6条にもとづくアメリカ軍(在日米軍)への基地提供および使用に関する細則を定めたもの。現在の沖縄普天間基地など具体的にはこの協定で運用されている。
 この安全保障条約改定に対し、激しい反対運動(安保闘争)が起こった。

 

安保闘争

1960年の日米安保条約の改定に際して高揚した軍事同盟反対の国民運動。戦後最大の大衆政治運動となったが、国会で批准され6月に成立した。

 日米安保条約の改定に対し、国内では社会党・共産党および労働組合、学生、市民の中から対米従属の軍事同盟反対、基地強化反対の声が上がった。
日本が核戦争に加担し、再び戦争の道に進むことに対する強い危機からの反対運動であり、戦後の民衆運動が最高潮に達した。
それに対して自民党政府はソ連・中国の脅威から日本を防衛するためのアメリカの核の傘の中にいることが現実的であるとして反対運動を抑えつけた。
平和共存路線に行き詰まっていたアメリカのアイゼンハウアーも中国共産党の脅威などからアジアを防衛するためには日本を反共陣営の中に留め、軍事基地はどうしても手放せないという戦略から日本政府を後押しした。

安保改定反対運動「60年安保」

 1960年5月20日、日米安保条約改定の批准に反対する社会党・共産党を、岸信介自民党内閣は強行採決で押し切った。
強行採決に対する反対運動は議会外でも盛り上がり、激しいデモが繰り返され、6月15日には全学連の女子学生(東大生の樺美智子さん)が死亡、多数の負傷者がでた。
その後、条約は6月19日6月19日に自然成立したが、反対運動によってアイゼンハウアーの訪日は取り止めとなり、岸内閣は条約成立を待って辞任した。
 この「60年安保」と言われた大衆政治運動は、社会党・共産党と云った既存の革新政党だけではなく、労働組合・学生・市民が闘争に参加して、連日国会議事堂をデモ隊が取り囲むなど、かつてない規模に拡大した。デモには高校生や家庭の主婦など、幅広い人々が参加したことが特徴であった。
しかし、結果的に安保条約の成立を阻止することができなかったことから失望感も強く、政治運動の市民参加、大衆運動化は岐路に立つこととなり、一部の学生運動の先鋭化に対して多くの若者の政治離れも始まった。
また革新政党と労働組合の関係も複雑に分裂し、停滞が始まったとも云える。
一方で、安保条約の改訂には成功したものの、自民党の掲げた憲法改正はとても無理という判断もせざるを得ず、その課題は長く棚上げされることとなった。こうして「政治の季節」は過ぎ、岸内閣総辞職後に代わって登場した池田勇人内閣の「所得倍増」のかけ声の下、60年代の日本は日米軍事同盟の枠の中で高度経済成長路線に転換していくこととなる。

逃がしてならない「時」がある

2025年04月21日 09時11分48秒 | その気になる言葉

▼「断絶というものは絶対ない」松下幸之助

「断絶」という言葉を<悪い方面に用いて、断絶をさらに深めようとしている。そこから生まれるものは、背反と闘争しかない。不信感しか生まれない>

大切なのは、分断の目を摘み協調の道を見いだすことだ。

▼立ち上がれ、そして断固たる心で戦うのだーロマン・ロラン

必死の一人が突破口を開く。

▼「挑戦」と「不安」は表裏一体ともいえる。

人が「元来、挑戦したい生き物」

だが、日本人は性質的に楽しさより先に不安を感じてしなう傾向にある。

脳科学者の枝川義邦さんは指摘している。

▼不安が募ると、人は孤独を感じやすい。

そんな時、誰かが話を聞いてくれるだけで、心が軽くなることもある。

▼逃がしてならない「時」がある。

今、励ましが必要な人がいる。悩みを聞いて寄り添い、共に前進の歩みを重ねたい。

▼壁を破ってこそ<先駆>である。


土の宿

2025年04月21日 06時39分26秒 | その気になる言葉

人が好き土が好きそして私が好き~沖縄で紡ぐ言葉~

観光地として人気の伊江島では、かつて沖縄戦で多くの住民の命が奪われました。この島で宿を営みながら戦争体験を語る木村浩子さんは、脳性小児麻痺の影響で体に障害があります。戦時中、障害者は“生きる価値のないモノ”と扱われた事実を社会に訴え続けている浩子さん。「この体で何ができるか」 浩子さんが沖縄で紡ぐ平和への思いとは。

「平和でなくっちゃ」 浩子さんの生き方の原点

沖縄本島からフェリーで30分。沖縄本島北西に浮かぶ伊江島は、豊かな自然に恵まれた人気の観光地です。

しかし、今から70年前、ここは沖縄戦の激戦地でした。 当時東洋一と言われた日本軍の飛行場を狙い、アメリカ軍が上陸。住民を巻き込んだ激しい地上戦は6日間にも及び、島民の半数に近い1,500人以上が命を奪われました。

周囲およそ22キロ、車なら1時間ほどで1周できる小さな島は、今もなお、その土地の3分の1が米軍基地で占められており、3年前からは新型輸送機・オスプレイの訓練も行われています。

そんな伊江島の地へと33年前に移り住み、この島で平和を訴え続けているのが、木村浩子さんです。脳性小児麻痺で体に障害がある浩子さん。わずかに動かせる左の足先だけが頼りです。

画像

77歳になった今でも、浩子さんは全国各地へ出かけて戦争体験や沖縄の“いま”を伝えています。 今年2月、京都にある福祉施設を訪れた浩子さんは、次のように語りました。

「私は沖縄が大好きで、この32年間を見てきました。この32年間、曲がりなりにも、戦争はじかに起こっていません。それは憲法があったからだと思います。」(浩子さん)

浩子さんは、移住してから小さな宿を運営してきました。 浩子さんのアイデアが活かされ、誰もが快適に過ごせるよう全館バリアフリーになっています。

この日、沖縄市から1組の家族がやってきました。宿を訪れるのは3度目というこの一家の双子の次男・陽太くんは、脳性小児麻痺のため手足が自由に動かせません。

画像

「子どもたちに生きる力を感じて欲しい。浩子さんの生き方を、人生の道しるべにしてもらえたらいいかなと思って今日は泊まりに来ました。」(陽太くんの母)

この宿の名前は「土の宿」。

「『人は土から生まれ土に還る』という言葉があるんです。土がなければ人間は機械になってしまうような気がしてならないし人間は自分らしく生きることはできないと思っています」(浩子さん)

浩子さんの活動の原点は、障害を理由に日本兵に殺されかけたことにあります。

1937年、浩子さんは満州に生まれました。まもなく軍人の父が戦死し、山口県に引き上げた浩子さんと母・喜美子さんのもとに、日本兵がやってきたのです。

画像

「ここに障害者の子どもがいるだろう、有事の時は邪魔になるから親の手で殺せって青酸カリという薬を持ってきて」(浩子さん)

それはちょうど、戦況が厳しくなってきた頃のこと。母・喜美子さんは7歳の浩子さんを背負って山の中へと逃げこみました。人目を盗んで暮らすこと3か月。ようやく終戦を迎え、生き延びることができました。

こうした体験が浩子さんの原点となっているのです。

「障害者も健常者も平和でなくっちゃ何も考えられない。この体で何ができるか」(浩子さん)

その後、母を病気で失ってから画家として自立した浩子さん。出産にも挑み、子育てする姿が注目されました。

「障害者である前に、1人の生きてる人間として何を目指して生きるかってことをずっと考えてきたんです。」(浩子さん)

福祉や平和について語り合う場を 沖縄・伊江島との出会い

そんな浩子さんが、初めて沖縄を訪れたのは40歳の頃。沖縄の歴史と現状を肌で感じ、平和のために何かできないかと考え始めます。

「伊江島は戦争の激戦地でもあって。沖縄問題を縮小したような島です。それをじかに触れたいと思っていたし。痛みとか悲しみとか忘れてはいけない。」(浩子さん)

そうして出会ったのが伊江島の農家だった阿波根昌鴻(あはごん しょうこう)さんです。

戦後、伊江島では多くの農家が長年耕してきた土地を米軍に強制収容され、最大で島の土地の3分の2が取りあげられました。

「人が生きるためには土地が必要だ」と訴え続け、土地の返還を求めて先頭に立っていたのが阿波根さんでした。

その阿波根さんが、浩子さんの思いを支援するため、自らの土地を譲ってくれました。それが、この宿の出発点となりました。

宿の建設が始まったのは1983年。当時取材を受けた浩子さんは次のように語っています。

「福祉とはとか平和とかを考えていくところにしたいと思います」(浩子さん)

翌年完成した「土の宿」の評判は口コミで広がり、国内外から多くの客が訪れました。 障害のあるなし、立場や考え方の異なる人たちが、平和や福祉について語り合う場となったのです。

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子どもたちのために 戦後70年の今、強まる平和への願い

今、浩子さんは宿の近くで1人暮らしをしています。ここ数年、体力が落ちてからは1日4回ヘルパーを頼んでいます。できることもだいぶ限られてきました。唯一自由に動かせていた左の足先も、今は携帯で文字を打つのがやっとです。

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「きついからね毎日。足はしびれる手はしびれる。頭だけはまだしびれていない(笑)。」(浩子さん)

この日、島に暮らす玉城キクさん(86)がやってきました。浩子さんとは本音で話し合える、気心知れた友人です。

キクさんは、新聞の切り抜きを嬉しそうに持ってきて見せてくれました。新聞記事には、去年浩子さんが中央アメリカのコスタリカを訪問した時のことが記されています。

コスタリカは平和憲法の下、軍隊を持ちません。どう平和を保ってきたのかどうしても知りたいと、浩子さんは準備に2年をかけてコスタリカ行きを実現させたのです。

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キクさんと浩子さんもまた、平和について語り合います。

「戦争の話とかね、日本はどうなるんでしょうね、浩子さん、私、気にしているよとか、いろんな話あるけどね、こんな話したかったの。」(キクさん)

10代で戦争に巻き込まれたキクさん。島での激しい戦いで父を亡くしたキクさんは、母と共に幼い妹や祖父母を抱えて壕(ごう)から壕へと逃げ惑い、なんとか命をつなぎました。この戦争体験を数十年にわたり語り部として伝えてきたキクさんですが、ここ数年、自分の平和への思いが伝わっているのか不安を感じています。

キクさん「70年にもなってね、今からどーしたどうしたって言っても自分のためにもならんし国のためにもならんしね。」 浩子さん「国のためにも自分のためにもなんないけど子どもたちのためになる。」 キクさん「そう思うけどね話してもね。」 浩子さん「これからが大変です。」 キクさん「そうですよ浩子さん、私総理大臣になりたい。」

浩子さん77歳、キクさん86歳。2人はまた会う約束をしました。

「個」は命あっての「個」 平和への思い

宿には今も時折、浩子さんと思いを共にする仲間が集まってきます。その中の1人、島袋ひとみさんは、21年前に宿で働いたことをきっかけに岐阜県から移住してきました。

浩子さんの平和への思いを身近に感じてきたひとみさん。今、浩子さんから受け継いだ思いを自らも伝えていきたいと考えています。

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その取り組みの1つが「民泊」です。島の外の学生を家庭に受け入れています。

ひとみさんが必ず子どもたちを連れて行くのが、伊江島に今も残る戦争の傷跡です。 この日は、滋賀県から中学3年生5人を迎えました。ひとみさんはまず、5人を飛行場へと案内しました。

ひとみさん「ここがね米軍補助飛行場と言って、70年前はねアジア1の飛行場で今でも米軍の基地に伊江島はなっていて、そんなのも聞いたことある?分からなかった?」 中学生たち「(うなずく)」 ひとみさん「覚えておいてね」

子どもたちを連れて戦跡を一つ一つ巡ります。ひとみさんは壕へと子どもたちを案内しました。

「ここですね。4月の22日に、150人の尊い命が奪われた集団自決の場所であります。」(ひとみさん)

ひとみさんは、子どもたちがじかに見て感じることが大切だと考えています。伊江島に残る戦争の傷跡を巡った中学生たちにも、感じるところがあったようです。

「沖縄っていうイメージは基地あるくらいは知っているけど、観光場所って言うイメージしかなくて」(中学生)

そんな中学生たちにひとみさんは次のように思いを伝えました。

「ここに来て、戦争というものに触れたことによって、ちょっとニュースとか見た時に、そういやひとみさんこんなこと言ってたなとか、どっかでひっかってくれたらいいな。うん。」(ひとみさん)

「沖縄の土になりたい」と伊江島にやってきて33年。浩子さんは今日も、島に暮らしています。

「この宿を通していろんな人と出会いがあり、いろんなことを学んできました。私たちは1人しかいない素敵な『個』を持っているんだから大事にしなきゃいけない。それがないと平和も沖縄もすべて考えられないんじゃないですか。『個』は命あっての『個』なんです。その命を脅かすものとか考え方とか絶対にやめなければいけない」(浩子さん)

平和への思いを次の世代へつなげるために何ができるのか。戦後70年を経た今、私たちが考え続けていかなければならない課題です。

※この記事は2015年06月23日(火)放送のハートネットTV「シリーズ戦後70年 人が好き土が好きそして私が好き~沖縄で紡ぐ言葉~」を基に作成しました。情報は放送時点でのものです。

 

土の宿

人が好き土が好きそして私が好き

この宿の名前は「土の宿」。
「『人は土から生まれ土に還る』という言葉があるんです。土がなければ人間は機械になってしまうような気がしてならないし人間は自分らしく生きることはできないと思っています。」(木村浩子)

普段、土に触れることがない私達は「心」を耕したいと思います。

学業や

土の宿

人が好き土が好きそして私が好き

この宿の名前は「土の宿」。
「『人は土から生まれ土に還る』という言葉があるんです。土がなければ人間は機械になってしまうような気がしてならないし人間は自分らしく生きることはできないと思っています。」(木村浩子)

普段、土に触れることがない私達は「心」を耕したいと思います。

学業や仕事・家事子育てなどで疲れ固まった心はたまに休めてすべてリセットし初心に戻ってみてはいかがでしょうか?
非日常的な「土の宿」で、新しい自分を見つけてみてはどうでしょうか?
心を耕して明日の活力にしてください!!!

 

仕事・家事子育てなどで疲れ固まった心はたまに休めてすべてリセットし初心に戻ってみてはいかがでしょうか?
非日常的な「土の宿」で、新しい自分を見つけてみてはどうでしょうか?
心を耕して明日の活力にしてください!!!

「現世の地獄」から脱走 脳性まひ87歳、壮絶な人生で見つけた答え

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笑顔を見せる木村浩子さん。紫に染めた髪は、伊江島に咲くリュウキュウコスミレなどをイメージしているという=沖縄県宜野湾市で2025年3月2日、喜屋武真之介撮影

 沖縄県の伊江島(伊江村)にある民宿「土の宿」を開設した木村浩子さん(87)は、重度障害者の尊厳が守られ、安心して暮らせる社会を目指し奔走してきた。歌人、画家として自然や生命の尊さを描き、各地で個展を開いた。

 重度障害者が施設へ入所する動きが広まりつつあった1960年。脳性まひの木村さんも施設で暮らす覚悟を決めた。入所した広島市立の救護院では、生活困窮者や障害者が混在していた。寝たきりの高齢者の腰は床ずれでただれ、ウジ虫がわいていた。

 「現世の地獄だ」。耐えきれず、半年で施設を出た。

 前後編の後編です。
 前編・「親の手で殺せ」と兵士は告げた 脳性まひの芸術家

 次に向かったのは、大分県別府市の国立保養所だった。立派な施設と聞き、期待を胸に門をくぐった。しかし、所定の時間に用便するよう求められるなど、制約ばかり。部屋にはのぞき窓があり、常に監視されているようだった。「まるで囚人だった」。施設職員に「あんたみたいな身障者は、ここでなければ生きられない」と冷たく告げられた。

「脱走しよう」と決意

 3年が過ぎた頃、あるうわさが駆け巡った。入所者の傷痍(しょうい)軍人が服毒自殺したという。