レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

「たまやー」と「たmたmタマタマ」

2013-01-02 03:00:00 | 日記
明けましておめでとうございます。こちらの言葉では Gledilegt nytt ar(グレージレクト ニヒト アウル)「喜ばしい新年を」と言います。親しい仲では、これに添えてTakk fyrir gamla(タック フェーレル ガムラ)、「旧年(のお付き合い)をありがとう」と言うのが習わし。日本の挨拶と全く同じですね。

今回の年末年始はレイキャビクで過ごしました。前回書きましたようにこちらでは大晦日は花火で年変わりを祝います。日本では花火は夏の風物詩ですが、こちらでは大晦日用です。その楽しみ方も多少違うようで...

これは私個人の思い込みかもしれないのですが(いや、そうでもないか?「キンチョウの夏、日本の夏」のCMを考えると)、日本人にとっての花火のイメージと言うのは、隅田川の川面があって、ポンッと花火が一筋天空へ。ヒュルヒュルっと音がして、しばらくの静寂。それからパーンと大輪の花火が開いて、見ている人が「たまやー」と言うものではないですか?(正直言いますが、私は花火を見ながら「たまやー」と発したことは一度もありません)

ポンッ - ヒュル - 静寂 - パーン - 「た˘まやー」

このワルツにさらに一拍足したような「間」。  余韻です。

やっぱりこれが花火の風情ではないでしょうか?

ぱっと大輪を開いてさっと消えて行く。うーん、桜に共通するものもあるのでしょうか?除夜の鐘に相通ずるものもあるような。「もののあはれ」という想いですよねえ。

ところ変わってレイキャビク。この年末は花火の値段が一割ました感じがしました。「高いなあ」一緒に行った息子も店先で感想。そのせいでしょうか?例年より全体として花火の音が少なかった気がします。

花火は年が変わる零時にピークを迎えるのが暗黙の了解なのですが、全体が少なくなった感がする反面、午前零時前後にはとても激しい花火ラッシュがありました。

我が貧乏アパートから通り一本下った学校の広場からも花火が上がり、まさしく頭上の大輪です。明らかに皆で示し合わせて、短い時間にどれだけ多数の花火を上げられるか頑張ってくれたもので、数分間確かに見事でした。

まるでディスコのフラッシュライトですよ。えっ?ディスコなんて知らないだろって?そうだけど「CSI NY」でよく出てきます。あのディスコでDJとかいう人がレコードを両手で廻し戻してやってますよね。この花火、あのラップの感じなんです。

これに合わせて「た˘まやー」をかけ声しようと思ったら、「たmたmたmたm、たま、たmたm、タマタマ、たmたm、タマヤ!たまやー!」でしょう。

隅田川とは面影が違います。花火に関しては日本の方が風情豊かと思います。

ただ面白いのは、日本の生活の全てが「た˘まやー」の一拍余韻付きではないですよね。それどころか日常の現実のリズムは、「これでもか、これでもか」と言う具合に、キュッキュッとDJ.Pocoの手で小刻みに行きつ戻りつさせられるレコードの如き?

逆にアイスランドの生活では「もうちょっとテキパキやってよ」と言いたくなるほどの「間合い」が満ちていたりします。余韻と「ノロノロ」の違いは紙一重なのかもしれませんが、余韻と「ノロノロ」は全く違います。

世界のどこであっても、祭りとか、風情の楽しみ方とか、人は普段縁遠いものを求めるようにできているのでしょうか?


コメント
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