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レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

ディスタンス

2013-01-09 05:00:00 | 日記
私たちの生活の中での「距離」というものは、ここ数年来のネットの発展によってあれよあれよと言う間に縮まって来た感があります。

二十年ほど前に私がアイスランドへ移った頃には、距離はもっと「距離」として厳として存在していました。アイスランドと日本を結ぶ一番リアルタイムな手段は国際電話でしたが、これはお安くありません。国際コールは盆暮れか緊急用の手段でした。

親が時々新聞やテレビ番組のビデオを送ってくれたのですが、これが手元に届くのが一週間から十日後。それでもその小さな日本への窓口を楽しみにしていたものです。

アイスランドへ移った翌年に第二子の長女が田舎の港町の病院で誕生しました。病院からすぐに両親に伝えようとしたのですが、なぜかコレクトコールができません。「アイスランドで支払わなければだめだ」って。なんで?

電話は自宅に戻るまで諦めました。そのかわり持参していたビデオで撮ったフィルムのカセットを、レイキャビクから駆けつけてくれていた義姉に投函してくれるように頼みました。両親は五日後にテープで赤ちゃんとご対面、となりました(日本-アイスランド間の郵便事情は昔も今も良いようです)。

それから二十年。今のコミュニケーション模様はまるで夢の国のようになりましたね。

それでも距離は時折「距離」として立ちはばかります。普段、距離が縮まったように思えるために、その折には逆に「距離」が際立つ感があります。

その距離が感じられる機会の最たるものが、家族や友人の病気や危篤の状況にある時でしょう。もちろん同じ国内でいたって、そのような時は難しいものでしょうが、距離があると「そばにいてあげられない」という罪悪感が加わります。これはもう外国住まいの者の宿命でしょうか?

そのような経験を持つ人は、周りにも何人もいます。家族や友の訃報を遠距離で聞くのは誰にとっても容易いことではありません。私自身そのような経験はありますし、これからもまたすることと思います。特に私の父は寝たきりなのですが、高齢でいつ天に召されてもおかしくありません。

調子が悪くなると、なるべく帰省するようにしていますが、それも時間も費用もかかります。正直言って休暇のほとんど全ては両親への訪問で費やされてしまい、スペインのビーチや花の都パリへは足が届きません。

ただそれでももちろん文句などないですよ。逆に休暇を想い通りに使える自由のあることを感謝しています。

結局の所、私たちは生活の中の全てをコントロールできるわけではありません。その時その状況の中で何が一番すべきであることか、ふさわしいことであるかを選び取っていかなくてはならないのでしょう。

一番大切なことを選んで行けば、少なくとも後で「ああしておけば...」と後悔することもなくなるでしょうし。

多分「距離」は消えてしまったわけではなく、現れ方を変えたのかもしれませんね。
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