落語に「帯久」(おびきゅう)というお噺があります。大岡裁きをネタにしたお噺で、人情噺でもあります。昔お江戸日本橋に「和泉屋」という呉服屋があり繁盛していました。主人の与兵衛さんは人柄もよく人望があります。
隣町にも「帯屋」という呉服屋があり、こちらの主人の久七は陰気で性格も悪く、商売も上がったりだったのですが、お金に困った帯屋の久七に人の良い和泉屋は何度もお金を貸してあげます。
ところがいろいろあって、今度は帯久が繁盛し和泉屋が困窮する時がやってきます。そうすると帯屋はさんざん恩を受けた和泉屋に全く冷たい態度を取り、やがて...という展開です。
最後は悪辣な久七に見事な大岡裁きのうっちゃりが決まり大喝采となるのですが、まあ「恩を仇で返す」とかいうのは時代を超えた?テーマなのでしょうね。今でも話しのタネになりますよね。
「情けをかけた」「受けた」とは多少違いますが、「自分がした苦労」というものを他人がしているのを見る時の人の態度というものにどこか通じるものがある気がします。
例えばアイスランドの移民の人たちのことを見ると、長く住んでいて今は順調な人であっても、始めは言葉を学んだり職を探したりで、それなりの苦労をしているわけです。「苦労が身にしみて分かっている」といえばいいでしょうか。
そんな人たちが最近移ってきた他の移民の人たちに対する際に、二種類の態度があることに気づかされます。ひとつは「自分も苦労して助けてもらったことがあるから、できることなら援助してあげよう」という、まあ和泉屋さん的態度。もうひとつは「オレも苦労したんだ。関係ネエよ」という帯久的態度です。
正直いってこの帯久を見るとむかついてきます。勘違いしないで欲しいのですが、最近来た人たちが苦労すべきではない、と言っているのではありませんよ。苦労はどうしてもするんです。言葉を学ぶにしても学ぶことを他の人が替わってあげることはできませんから。
ただ職探しやアパート探しでも、気がついたものを紹介してあげることや、あるいは探し方を教えてあげるというようなことは、その結果云々もありますが、そうすること自体が励ましになるものなのです。
もちろん人間は複雑な生き物ですから、実際の私たちは「時に和泉屋さん、時に帯屋」というように豹変したり揺れていたりするのが実際でしょう。それでもできることなら和泉屋さんでいる割合の方が高いことを私は願います。
ここのところ仕事でゲオルギアからの避難民で、もう八年間以上もここで事実上の無国籍者として中途半端なリンボー状態に陥っている女性の人を支援しています。身元確認のための書類が入手できないのです。(戦災地からの難民の場合は珍しいことではありません)
状況から推測して疑う理由は何もないのだから救済措置を、という記事を新聞に書いたところ一日のうちに六百人以上のアイスランド市民が支持をしてくれました。
ところがある旧ソビエト出身の女性が「この女の話しはおかしい。ウソをついているに違いない」とFacebookを通じてクレームを付けてきました。このソビエト女性もソ連崩壊の直後に難民化し、母親と共にアイスランドに渡って来ていました。
そのお母さんが亡くなった際に、自分たちの悲運を随分嘆いたりしてたので、
いろいろと慰めたり励ましたりしたことがあったのです。ですから「難民」であることの辛さは十分に分かっているはずなのですが、「それでいて他人に対してはコレかよ」という感じです。
何度かやり取りした後、高飛車な態度がますます硬化していき、ワタシもアタマにきたのでShut OutしてFacebookのワタシのテリトリーから退場願いました。帯久め!
私は、人が自分が他人にかけた情けや助けをいつまでも腹に貯め込んで「恩を忘れんなよ」みたいに振る舞うのは大嫌いです。恩や援助はそれだけで独立した行為であるべきで貯め込むものではないと思います。恩を笠に着たり、着られて迫られるのもゴメン被りたいです。
それはそれとしても、私たちの誰もがどこかで誰かからの何がしかの助けを受けて今あるのでしょうから、自分を含めて人は誰でも困窮することがあるものであり、そういう際には足蹴りにするのではなく手を差し伸べる、という気持ちは持ちたいものです。「帯久」は悲しい。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
隣町にも「帯屋」という呉服屋があり、こちらの主人の久七は陰気で性格も悪く、商売も上がったりだったのですが、お金に困った帯屋の久七に人の良い和泉屋は何度もお金を貸してあげます。
ところがいろいろあって、今度は帯久が繁盛し和泉屋が困窮する時がやってきます。そうすると帯屋はさんざん恩を受けた和泉屋に全く冷たい態度を取り、やがて...という展開です。
最後は悪辣な久七に見事な大岡裁きのうっちゃりが決まり大喝采となるのですが、まあ「恩を仇で返す」とかいうのは時代を超えた?テーマなのでしょうね。今でも話しのタネになりますよね。
「情けをかけた」「受けた」とは多少違いますが、「自分がした苦労」というものを他人がしているのを見る時の人の態度というものにどこか通じるものがある気がします。
例えばアイスランドの移民の人たちのことを見ると、長く住んでいて今は順調な人であっても、始めは言葉を学んだり職を探したりで、それなりの苦労をしているわけです。「苦労が身にしみて分かっている」といえばいいでしょうか。
そんな人たちが最近移ってきた他の移民の人たちに対する際に、二種類の態度があることに気づかされます。ひとつは「自分も苦労して助けてもらったことがあるから、できることなら援助してあげよう」という、まあ和泉屋さん的態度。もうひとつは「オレも苦労したんだ。関係ネエよ」という帯久的態度です。
正直いってこの帯久を見るとむかついてきます。勘違いしないで欲しいのですが、最近来た人たちが苦労すべきではない、と言っているのではありませんよ。苦労はどうしてもするんです。言葉を学ぶにしても学ぶことを他の人が替わってあげることはできませんから。
ただ職探しやアパート探しでも、気がついたものを紹介してあげることや、あるいは探し方を教えてあげるというようなことは、その結果云々もありますが、そうすること自体が励ましになるものなのです。
もちろん人間は複雑な生き物ですから、実際の私たちは「時に和泉屋さん、時に帯屋」というように豹変したり揺れていたりするのが実際でしょう。それでもできることなら和泉屋さんでいる割合の方が高いことを私は願います。
ここのところ仕事でゲオルギアからの避難民で、もう八年間以上もここで事実上の無国籍者として中途半端なリンボー状態に陥っている女性の人を支援しています。身元確認のための書類が入手できないのです。(戦災地からの難民の場合は珍しいことではありません)
状況から推測して疑う理由は何もないのだから救済措置を、という記事を新聞に書いたところ一日のうちに六百人以上のアイスランド市民が支持をしてくれました。
ところがある旧ソビエト出身の女性が「この女の話しはおかしい。ウソをついているに違いない」とFacebookを通じてクレームを付けてきました。このソビエト女性もソ連崩壊の直後に難民化し、母親と共にアイスランドに渡って来ていました。
そのお母さんが亡くなった際に、自分たちの悲運を随分嘆いたりしてたので、
いろいろと慰めたり励ましたりしたことがあったのです。ですから「難民」であることの辛さは十分に分かっているはずなのですが、「それでいて他人に対してはコレかよ」という感じです。
何度かやり取りした後、高飛車な態度がますます硬化していき、ワタシもアタマにきたのでShut OutしてFacebookのワタシのテリトリーから退場願いました。帯久め!
私は、人が自分が他人にかけた情けや助けをいつまでも腹に貯め込んで「恩を忘れんなよ」みたいに振る舞うのは大嫌いです。恩や援助はそれだけで独立した行為であるべきで貯め込むものではないと思います。恩を笠に着たり、着られて迫られるのもゴメン被りたいです。
それはそれとしても、私たちの誰もがどこかで誰かからの何がしかの助けを受けて今あるのでしょうから、自分を含めて人は誰でも困窮することがあるものであり、そういう際には足蹴りにするのではなく手を差し伸べる、という気持ちは持ちたいものです。「帯久」は悲しい。
応援します、若い力。Meet Iceland
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com