レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

数値を愛し活用せよ されど...

2020-05-10 00:00:00 | 日記
こんにちは。日本ではゴールデンウィーク明けとなりましたね。あるいは、明日から明け、という人も多いのでしょうか?どのようなGWを過ごされたでしょうか?

アイスランドでは、(別にGWはなかったのですが)一昨日、昨日は青空に初夏の太陽が輝く好天に恵まれました。それが「コロナ規制明け」 感に拍車をかけたようで、巷には「やっと夏だ」という雰囲気が漂っています。気の緩み過ぎが怖い気もしますけど。

と言いながら私も「コロナ明け」をエンジョイしました。床屋さんです。私が二十年も通っているのは昔ながらの「床屋さん」でヘアサロンではありません。

理容・美容業の営業が禁止された時、その床屋さんのマスターがニュースのインタビューで「感染が怖いし、自主的休業を考えていた」とかのたまっていたので、営業解禁になっても戻ってくるのか心配していましたが、ちゃんと営業再開してくれました。

七週間か八週間ぶりの散髪だったので、さすがにさっぱりしました。マスターもいつになく饒舌で、やはりお客さんだかおしゃべりが恋しかったのでしょう。




「コロナ後」へ向けてツーリスト業も必死
Myndin er ur Icelandtravel.is


日本もGW明けをもって緊急事態宣言が全国から限定の都道府県へ縮小されたということで、「解禁」を喜ぶ声とともに「たがが緩む」ことを心配する向きもあるようですね。

ところで、日本からの報道番組やワイドショーを見ていて思ったことがあります。それは「数」というものについてです。もちろんアイスランドのニュースでも感じることなのですが、絶対数なるものが限りなく少ないアイスランドよりは、日本やアメリカのニュースに接すると余計に感じさせられることなのです。

西村経済再生大臣と吉村大阪府知事の間での議論とかでも問題になっていたと思うのですが、コロナに関しての規制解除や自粛解禁への「出口」が話題になるたびに、「わかりやすい説明を」とか「具体的に数で示してほしい」とかいう意見が聞かれます。

「一日の感染者数がXX人以下になったら」とか「入院者の病床に対する比率がXX%以下になったら」とか、確かに客観的な数字で示してもらえると理解しやすくなりますね。

逆にPCR試験の条件を「高熱が続く」だの「倦怠感がある」などの表現で示されると「そんなんじゃわからん」という気にさせられます。まあ熱はとにかくとして、倦怠感は数字化するのは難しいでしょうが。

数とか数字というのは、ものごとを考える際の基本的なデータとなるものです。ものごとを主張する際の根拠になったり、説明する際の指標にもなったりしますね。分野にもよるでしょうが、大方の論理的なプレゼンテーションでは数字や統計は不可欠の要素だと思います。

「旧日本帝国海軍」の士官教育に関する本を何冊か読んだことがあるのですが、その中にも「数字を愛し、これを活用せよ」という教えがありました。

旧海軍は精神主義のシンボルのような機関と思っていましたので、ちょっと意外な感がしました。実際は海軍はずいぶん進歩的だったようで、それがために今でも「ファン」がいるようです。

今回のコロナですが、「数」に注目して状況を見てみると、気が付かされることがあります。例えば単純に犠牲になって生命を落とされた方の数だけを取り上げてみましょう。

以前 ご紹介したことのあるWorldOMeters.com からの数字で、5月8日現在のものです。

世界のコロナの状況一覧はこちら


それによると、日本での義勢者の数は590人。三十五年前の御巣鷹山での日航機墜落の大惨事で亡くなった方が520人でしたから、590人の犠牲というのは相当に大きなものです。



日本のコロナ状況
Myndin er ur worldometers.info/coronavirus


ところが、それを外国と比較すると事情が変わってきます。

アメリカでは78616人の犠牲。イギリスでは31241人。イタリア30201人。スペイン26478人、フランス26230人と続きます。

ウィキペディアによりますと、アメリカの人口は3億3千万人ありますので、日本の1億3千万弱の約2,5倍あります。その点を考慮しても、アメリカでの犠牲者数は日本の53倍強となります。

イギリス、イタリア、スペイン、フランスはいずれも日本よりも人口は少ないのですが、それを無視して単純比較しても45倍から52倍あたりの計算となります。




世界のコロナ状況


ですから、この点から見ると...

日本でのコロナ禍は世界の最悪国から比べると、まだまだ小さいものだと言えるでしょう。これは亡くなった方の数だけについてです。医療活動や経済活動への影響等など、波及している被害はまた別のこととして、という条件でです。

ニュースでも時折話題になりますが、私個人でも「なんでだろう?」という好奇心は抑えられません。

東京、大阪だけでもNYやパリ、ロンドンと同等規模の都市ですから、同規模の被害が予想されていたでしょうし、懸念もされたと思うのです。にもかかわらず、現実には今のところそうはなっていない、という嬉しい方向でのびっくりだと思うのです。

中央の政府閣僚のトロさを鑑みれば、びっくり度はさらにアップします。少なくともワタシ的には。

何かきちんとした理由があるはずですし、できるならその理由を知りたいものだと思います。




夏っぽくなったこの土曜日の朝 ホーム教会の前


で、ここに、今回私が感じていたことがあります。数の比較では、日本の状況はアメリカやイギリスに比べると「まだまだ軽症だ」ということになり、多少の安心感のようなものを得られる気がします。

ですが、亡くなった方の絶対数は、それでも満員のジャンボ機事故以上のものになっています。とてもではないですが「軽症」などという言葉は罰当たりなものになります。

あの御巣鷹山の事故があった時、私は教会の青年の仲間と千葉県の海の家へ行っていました。事故の翌日か翌々日、帰りの列車の中で新聞を開くと、事故で亡くなった方々の顔写真とお名前が掲載されていました。

それが何ページもあるのです。それだけで別冊の新聞になりそうなくらい。五百人以上の方が亡くなったんだ、ということをそんな仕方で実感しました。バカバカしいと思われるかもしれませんが、今でも覚えているくらい重い気持ちになりました。

今回、コロナで犠牲になった方々の、顔写真とお名前を掲載するとしたら、同じような新聞の別冊が必要になることでしょう。六百人弱というのは大きな犠牲です。

そして、そこに掲載される人たちのすべてが、誰かの息子、娘であり、あるいは父親、母親なのです。身近にいた人たちにとっては、そのひとりのロスは決して「六百分の一」ですまされるものではないのです。

「数」っていうものは、それだけではなにもしないですね。それを解釈し、利用するのは私たち人間の方です。そしてその人間というのは、数の比較の仕方や数の桁数の「慣れ」によって感じ方がコロコロ変わるような不安定さを持っているようです。

ですが、人の生命に関わる事柄に関しては、そのような不安定さがあってはいけないと思います。人は決して「数」に還元され切ってしまう存在ではありませんから、そのことは常にしっかりと意識しておく必要があるでしょう。

コロナについての議論や意見交換はまだまだ当分続くことでしょうが、「数」が「人」になりかわってしまうことがないことを願います。


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is














コメント (1)
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