レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

サッポロ発 48年越しのミステリー

2020-05-31 00:00:00 | 日記
5月31日です。ということは明日は6月1日です。ハヤッ!

もうコロナには飽き飽きしましたので、今回はまったく関係のないことを書きます。ただ、それがチョー個人的なことであり、かつ、またチョーノスタルジックなことでもありますので、皆さんから「こんなつまらないことを書きやがって」とお叱りを受けるかもしれません。

ただこのブログを続けていると、なんというか「これは書いておきたい」と思うトピックが時折あるのです。もちろんいつだって書きたいトピックを書いているわけですが、ここで言うのは「公共の益」がまったくないような、「個人の楽しみ」のみに還元されてしまうようなトピックのことです。

「いつものことだろが!」確かに〜。すみません。そのつもりで読んでやってください。m(_ _)m




日本選手が金銀銅を独占したサッポロ五輪の70M級ジャンプ


今を遡ること四十八年の1972年。なにがあったでしょうか?日本で初の冬季五輪、札幌オリンピックが開催されたのです。実際は1940年開催が決定されていたのですが、戦争のため中止されたのだそうです。この1972年を通して言えば、その直後に浅間山荘事件や、夏のミュンヘンオリンピックでのテロ事件等もありましたね。

当時の私は十三歳の中学一年生でした。私は1968年のメキシコオリンピックはかすかに思い出があります。体操女子のナタリヤ・クチンスカヤは可愛かったです。九歳の私でもそう思うくらい。

ですが、同じ年の冬に開催されたグルノーブル冬季五輪はまったく見た覚えがありません。ちなみにこの頃はまだ、冬季五輪と夏季五輪が同じ年に行われていました。

グルノーブルを覚えている方は、皆さんの中にも少ないだろうと想像しますが、地元フランスのジャン・クロード・キリーがアルペンの三冠を初めて達成した大会です。加えて公式記録映画のテーマをフランシスレイが作曲。「白い恋人たち」ですが、これは聞いたことがある方も多いのではないでしょうか?

白い恋人たち/フランシス・レイ 13 Jours en France/Francis Lai


さて、サッポロに戻ります。私は冬季五輪の種目そのものに馴染みがなかったので、開幕当初はそれほど熱狂していなかったと思います。それが風邪で学校を休み、自宅に缶詰状態なって退屈し、テレビで見始めたわけです。

当時でも、テレビはどのチャンネルでも朝から晩までオリンピックを流していました。すると結構面白いではないか! ビデオなんかもちろんない時代でしたから、何度も繰り返して見ましたよ、面白い競技は。目に焼き付けるために。




これも日本中にブームを呼んだフィギュアのジャネット・リン


俄然興味が出てきた私は、母に頼んで「冬季五輪特集号」の週刊誌を買ってきてもらいました。「サンデー毎日」とか、ああいう雑誌の特別号です。馴染みのない競技の説明や、人気種目の予想などが掲載されていました。

その中で、超人気種目が男女アルペン種目だったのは今と同じ。そして女子アルペンの予想のパートに、とても可愛く、艶やかで、かつチョイミステリアスな女子の笑顔の写真が載っていました。

フランスのエース、フランソワーズ・マッキ、と記されていました。なんでも五輪直前のワールド杯の金メダルを総舐めしていたようで、サッポロでも少なくとも金ひとつは硬い、という予想でした。

滑降というのは、やはり選手でも恐怖を感じる種目のようなのですが、その雑誌によると「滑降の恐怖に顔を青ざめるフランスのチームメイトのゼッケンに、マッキはマジックでいたずら書きをしてからかうような度胸がある」とかなんとか書いてあります。かっこいい!

ところが、そのアルペン滑降にマッキさんは登場しませんでした。どこから情報を得たのか覚えていないのですが、サッポロでの練習中に事故に遭い、両膝を怪我して参加不可能になった、とのことでした。

後になってわかったのですが、実際はこの怪我のために、マッキさんは世界の頂点の競技会から退かざるを得なかったのです。この時、マッキさんはまだ二十歳か二十一歳くらいだったはず。まだまだ若かったんですよね。

それで、当時十三歳の男の子だった私は、雑誌に載っていたマッキさんの笑顔に魅せられてしまい、五輪終了後も大事にその雑誌をキープしておいただけではなく、もっとマッキさんのことを知りたい、と思ったわけです。




サッポロでは悲劇のヒロインとなったフランソワーズ・マッキ
Myndin er ur Wikimedia.org


歳の差、国境、身分の違いを超えた純愛恋物語りです。まあ、片思いだけど。もうその頃からストーカー気質があったんですよねー。怖っ!

でも1972年の日本。もちろんGoogleやFacebookもありませんから、情報を得るには、市販のスキー雑誌を漁るくらいしか手がないのです。ですが、月刊のスキー雑誌でも、国際の大会に関する情報はごくわずか。マッキさんについては何もわかりませんでした。

これも今なら、フランスからスキー雑誌をAmazonで買って、フランス語をアプリで翻訳しながら探す、なんていうことも可能だったでしょう。フランスでは有名なことは間違いない方ですから。でも、そんなことは想像の中にも存在しなかった時代でした。

こうして、マッキさんは私の心の中で「悲劇のヒロインのミステリー」として女神化していったのでした。持っているのは雑誌の中の写真一枚でしたが。

ストーカー気質の私は、その後もマッキさんのことを忘れ去ることはなく、なにか機会があれば情報はないか?と思って探し続けていました。しかし、なーーーーーんにもなし.... ....

.... この間までは。

そうなんです。やっと情報を得られたのです。つい十日ほど前に。

このあいだ、また天が開けて「フランソワーズ・マッキ」という名前が心に降りてきました。そしてGoogleしたのです。当たりがありました。何年か前にはGoogleでもヒットしなかったのですが。

写真やビデオまで出てきました。もちろん1972年前後のものが多いですから、「いにしえの写真、ビデオ」です。ビデオなどは、わりとつい最近アップされたもののようで、何年か前の検索にヒットしなかったわけがわかりました。




ミステリアス女子はやっぱり素敵だった
Myndin er ur Facebook/Fan du Corbier


週刊誌の増刊号に出た一枚の笑顔しか知らなかったのが、ビデオではマッキさんが話している様子や、声も聞けますし、笑う様子もわかります。1972年、十三歳の私は「素敵」と思ったのですが、今、当時の写真やビデオを見てみると、やはり「素敵」でした。(*^^*) 話していることはフランス語なので、まったくわかりませんが。

新たに得られた情報によると、マッキさんは1951年生まれ。ということは、やはりサッポロでは二十歳か二十一歳でしたね。1975年にフランスのスキーチームの仲間で、これも世界のトップに立ったこともある男性スキーヤーと結婚したそうです。

現在の様子もわかりました。最近の写真として見ることができたのは去年のもの、つまりマッキさん六十八歳の時のもの。サンモリッツのスキー場隣接のレストランのマネージャーをされているようで、長かった髪は短めになり白くなっていますがお元気そうです。




サンモリッツのレストランのマネージャーを務める現在のマッキさん
Myndin er ur le-corbier.com


..... で、とても不思議な気持ちがしました。十三歳の時、雑誌による一枚の笑顔と、わずかな情報しかわからなかった女性のミステリーが、四十八年を経て、やっと解けたような気がするのです。

だから、なんだ、ということは何もないのですが、それでも感慨深いなあ。四十八年は、やっぱりハンパないと思う。


やっぱり素敵なマッキさん。サッポロ当時の写真を、携帯の待ち受けにしようかと思案しています。おいら、やっぱりストーカーだな...


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is
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