こんにちは/こんばんは。
12月24日になりますね、日本は。
というわけでMerry Christmas! です。教会関係者の中では、もっと丁寧に「主のご降誕のお喜びを申し上げます」というような挨拶もあります。
アイスランドではGledileg jolグレージィレーグ ヨウルが決まった挨拶言葉になります。「喜びのある」「嬉しい」プラス「クリスマス」で「喜びに満ちたクリスマスを」という意味になります。
ただ実際の挨拶としては、発音が崩れに崩れて「グレリヨウ」みたいになります。アイスランド語はかなりスペルに忠実に発音していく言語だと思いますし、ここまで慣用的な発音になりきっている言葉は他にちょっと思い当たりません。
さて、今日はちょっとクリスマス的なお話しになります。このブログはキリスト教の布教が目的ではありませんので、あまりに宗教的な内容に傾かないようにしているのですが、私が牧師であるということも事実ですので、たまにはそっちの方向に入り込むこともあります。気になさる方は、ここでストップしてくださいね。
昨日の日曜礼拝で話したのですが、聖書のクリスマスの物語りの中に、イエスの母となるマリアが、遠い親戚のエリサベトを訪ねる、というエピソードがあります。話しの順序としては、まず天使がエリサベトの夫のザカリアに現われ、エリサベトが子を宿すことを告げます。実はこの夫婦はもう老齢になった夫婦で、子供は諦めていました。
次に当時まだ15、6歳だったろうと推定される処女マリアに天使が現れ、彼女がイエスを宿すことを告げるのです。その際に「あなたの叔母さんのエリサべトも(神の力により)子を宿している」ことも教えてくれます。
クリスマス前のレイキャビクスナップ1 写真は去年のもの
Pic by me
それを聞いたマリアはエリサベトに会おうと3、4日はかかる徒歩での旅路に着くのです。マリアがエリサベトの家に到着し挨拶すると、エリサベトのお腹の胎児が喜びのため踊りあがったと記されています。
そしてエリサベトは自分の孫のような年齢の少女マリアを「私の主のお母様」と叫んで自らも敬意と喜びを表し、それを聞いたマリアも神に感謝を捧げる唄を奉じるのです。
エリサベトにしても、マリアにしても、非常に特異な状況に突然放り込まれていました。子宝に恵まれなかったエリサベトは、一方で喜びを感じながら、反面、超高齢出産という現実的な危機に直面しています。
マリアはと言うと、彼女はすでにヨセフと婚約していたのですが、この神的な懐妊により婚約解消の危機と、さらに言えば夫婦間外での妊娠を罪とする当時のユダヤ律法により石打ちの刑に処される可能性さえありました。
マリアは天使のお告げに畏怖とありがたさを感じたでしょうが、人間的な視点からすれば、踏んだり蹴ったりの状況に陥ってしまったのです。幸い天使はヨセフにも現れ、恐れずにマリアを娶るよう諭し、婚約解消は回避され、のちにヨセフとマリアは結婚します。
このようにエリサベト、マリア共に「想定外」の状況に見舞われていたのです。
クリスマス前のレイキャビクスナップ2 写真は去年のもの
Pic by me
私たち自身を振り返るとわかるのですが、何かがマニュアル通りに行かないとパニックに陥ったりしますよね。例えば、アプリをダウンロードしたのに開くことができない。なぜ?
という時にすることは、だいたいみなさん同じだろうと思うのですが、Googleで同じ問題を経験した人からの解答を探します。大概の問題は、どこかの誰かが体験していて、ご親切にも解決をネットに載せてくれたりします。ありがたい限りです。
マリアがエリサベトを訪ねたのにも、同じような理由があったのではないかと推察されます。マリアは天使の告げたことを跳ね返すような態度はとりませんでしたが、すべてを理解したわけでもありません。多分、エリサベトが自分の理解を助けてくれることを期待していたのでしょう。
エリサベトにしても、状況は似たようなもので、彼女の場合はメッセージははっきりとしていたものの、実際に無事に子供が生まれるのかどうか、つまりは神がそこまでちゃんとケアしてくれるのかどうか、信じきれない部分があったことでしょう。
そしてふたりが出会った時、エリサベト、マリア共、確かにそこに神の意志が働いていることを実感し、神の救いがそこにあることを信じることができました。「救い」とは彼女たちふたりのため以上の意味のあるものだったのですが。
このエピソードは、何か「固有の」困難の中にある者が、まったく同じではないとしても類似の困難を持つものと共にあることで、互いを支え合い、また高めあうことができることを示しています。
私のいる教会 今年の家族クリスマスからのスナップ
Pic by me
先にエリサベト、マリアの状況を「非常に特異なもの」と述べましたが、考えてみれば程度の差こそあれ、私たちひとりひとりの人生も「固有で特異なもの」です。平凡なように見えて、普段は意識していなくとも、深いところではそれぞれに「特別なこと」「唯一無二」の部分があります。
それが逆に、何かの問題に巻き込まれて「特異な状況」がバンと前に押し出されるようなことになってしまうと、私たちはパニックに陥り「どうしよう、誰もこんな状況を理解してはくれない」と勝手に孤立化してしまったりもします。
問題がある時こそ、私たちは孤立を避け、まずは同じような困難を抱えている人が他にいないかどうかを尋ねてみるべきでしょう。そのような人を見つけることができれば、助け合う機会も与えられます。
私がお世話をさせていただいている教会の集会には、難民の経験がある人や、現在難民申請をして、移民局からの解答を待っている人が多く集っています。別に特にそのような人向けの宣伝をしているわけでもないのですが、間断なくそのような人たちが新たに加わってきます。
それで「難民」「難民申請者」という「特異な状況」について、情報を交換したり励ましあったりして、互いを支え合っているわけです。良いことだと思います、それは。
ただ、私は牧師ですのでその方達に「もう一歩」進むように勧めます。私たちの人生がそれぞれに固有のものであり、「唯一無二」のものであるとすれば、その私たちの生活に現れる神の恵みもまた固有の仕方、独自の仕方で現れるはずです。
聖書という書物は家電のマニュアルのようなものではありません。家電のマニュアルは、誰に対しても均等に同じ情報を提供します。対して聖書というものは一見、誰に対しても同じ内容であるように見えますが、実は読む人それぞれに対して、特有のメッセージを与えてくれるものなのです。
ですから、例えば同じ教会の同じ集会に集っていても、それぞれが体験する神の恵み、キリストとの出会い、救いの体験というものは様々ですし、それぞれに固有のものであるわけです。
クリスマス前のレイキャビクスナップ3 写真は去年のもの
Pic by me
そこで大事になってくることが、そのような自分の「神体験(?すごい言葉かも) を、口に出し周りの人たちとシェアすることです。だって本人がそれについて語ってくれない限り、他の人たちはそのことを知り得ませんから。そしてそのようにして分かち合われた体験が、今度は別の人をインスパイアし、困難な状況に耐えたり乗り越える力となり得るのです。
今回のエリサベトとマリアのエピソードでも、彼女たちは –エリサベトのお腹の赤ちゃんも含めて– 自らの体験と感情を表しています。それが互いを支え合う力となったのです。
神は私たちを、私たちの兄弟姉妹、隣人たち共に創造しました。私たちをひとりきりで地上に残すようなことはしませんでした。だから、私たちは自分のことだけではなく、周囲にいる人々のことも考えるべきなのです。
周囲の人たちと一緒にいるということはどんな意味を持っているのか?自分はきちんとその意義を捉えているだろうか?それを進めていくならば、ひとりでいるよりも共にあることが大切であると思えてくるかもしれません。
あるいは周囲との「持ちつ持たれつ」という関係が、ダラダラしたしがらみなどではなく、創造的で互いを高めあう関係に変わっていくかもしれません。「しれません」というよりは「そうなる」とワタシ的には確信していますが。
というわけで今回は、ちょっとキリスト教的な気配の強い内容になりました。そういうこともあります。宗教的な云々が好きでない方はご容赦ください。毎回、そうではありませんから。
それでは、皆さんが和やかで平和なクリスマスを過ごされますようお祈りしています。
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Church home page: Breidholtskirkja/ International Congregation
Facebook: Toma Toshiki
12月24日になりますね、日本は。
というわけでMerry Christmas! です。教会関係者の中では、もっと丁寧に「主のご降誕のお喜びを申し上げます」というような挨拶もあります。
アイスランドではGledileg jolグレージィレーグ ヨウルが決まった挨拶言葉になります。「喜びのある」「嬉しい」プラス「クリスマス」で「喜びに満ちたクリスマスを」という意味になります。
ただ実際の挨拶としては、発音が崩れに崩れて「グレリヨウ」みたいになります。アイスランド語はかなりスペルに忠実に発音していく言語だと思いますし、ここまで慣用的な発音になりきっている言葉は他にちょっと思い当たりません。
さて、今日はちょっとクリスマス的なお話しになります。このブログはキリスト教の布教が目的ではありませんので、あまりに宗教的な内容に傾かないようにしているのですが、私が牧師であるということも事実ですので、たまにはそっちの方向に入り込むこともあります。気になさる方は、ここでストップしてくださいね。
昨日の日曜礼拝で話したのですが、聖書のクリスマスの物語りの中に、イエスの母となるマリアが、遠い親戚のエリサベトを訪ねる、というエピソードがあります。話しの順序としては、まず天使がエリサベトの夫のザカリアに現われ、エリサベトが子を宿すことを告げます。実はこの夫婦はもう老齢になった夫婦で、子供は諦めていました。
次に当時まだ15、6歳だったろうと推定される処女マリアに天使が現れ、彼女がイエスを宿すことを告げるのです。その際に「あなたの叔母さんのエリサべトも(神の力により)子を宿している」ことも教えてくれます。
クリスマス前のレイキャビクスナップ1 写真は去年のもの
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それを聞いたマリアはエリサベトに会おうと3、4日はかかる徒歩での旅路に着くのです。マリアがエリサベトの家に到着し挨拶すると、エリサベトのお腹の胎児が喜びのため踊りあがったと記されています。
そしてエリサベトは自分の孫のような年齢の少女マリアを「私の主のお母様」と叫んで自らも敬意と喜びを表し、それを聞いたマリアも神に感謝を捧げる唄を奉じるのです。
エリサベトにしても、マリアにしても、非常に特異な状況に突然放り込まれていました。子宝に恵まれなかったエリサベトは、一方で喜びを感じながら、反面、超高齢出産という現実的な危機に直面しています。
マリアはと言うと、彼女はすでにヨセフと婚約していたのですが、この神的な懐妊により婚約解消の危機と、さらに言えば夫婦間外での妊娠を罪とする当時のユダヤ律法により石打ちの刑に処される可能性さえありました。
マリアは天使のお告げに畏怖とありがたさを感じたでしょうが、人間的な視点からすれば、踏んだり蹴ったりの状況に陥ってしまったのです。幸い天使はヨセフにも現れ、恐れずにマリアを娶るよう諭し、婚約解消は回避され、のちにヨセフとマリアは結婚します。
このようにエリサベト、マリア共に「想定外」の状況に見舞われていたのです。
クリスマス前のレイキャビクスナップ2 写真は去年のもの
Pic by me
私たち自身を振り返るとわかるのですが、何かがマニュアル通りに行かないとパニックに陥ったりしますよね。例えば、アプリをダウンロードしたのに開くことができない。なぜ?
という時にすることは、だいたいみなさん同じだろうと思うのですが、Googleで同じ問題を経験した人からの解答を探します。大概の問題は、どこかの誰かが体験していて、ご親切にも解決をネットに載せてくれたりします。ありがたい限りです。
マリアがエリサベトを訪ねたのにも、同じような理由があったのではないかと推察されます。マリアは天使の告げたことを跳ね返すような態度はとりませんでしたが、すべてを理解したわけでもありません。多分、エリサベトが自分の理解を助けてくれることを期待していたのでしょう。
エリサベトにしても、状況は似たようなもので、彼女の場合はメッセージははっきりとしていたものの、実際に無事に子供が生まれるのかどうか、つまりは神がそこまでちゃんとケアしてくれるのかどうか、信じきれない部分があったことでしょう。
そしてふたりが出会った時、エリサベト、マリア共、確かにそこに神の意志が働いていることを実感し、神の救いがそこにあることを信じることができました。「救い」とは彼女たちふたりのため以上の意味のあるものだったのですが。
このエピソードは、何か「固有の」困難の中にある者が、まったく同じではないとしても類似の困難を持つものと共にあることで、互いを支え合い、また高めあうことができることを示しています。
私のいる教会 今年の家族クリスマスからのスナップ
Pic by me
先にエリサベト、マリアの状況を「非常に特異なもの」と述べましたが、考えてみれば程度の差こそあれ、私たちひとりひとりの人生も「固有で特異なもの」です。平凡なように見えて、普段は意識していなくとも、深いところではそれぞれに「特別なこと」「唯一無二」の部分があります。
それが逆に、何かの問題に巻き込まれて「特異な状況」がバンと前に押し出されるようなことになってしまうと、私たちはパニックに陥り「どうしよう、誰もこんな状況を理解してはくれない」と勝手に孤立化してしまったりもします。
問題がある時こそ、私たちは孤立を避け、まずは同じような困難を抱えている人が他にいないかどうかを尋ねてみるべきでしょう。そのような人を見つけることができれば、助け合う機会も与えられます。
私がお世話をさせていただいている教会の集会には、難民の経験がある人や、現在難民申請をして、移民局からの解答を待っている人が多く集っています。別に特にそのような人向けの宣伝をしているわけでもないのですが、間断なくそのような人たちが新たに加わってきます。
それで「難民」「難民申請者」という「特異な状況」について、情報を交換したり励ましあったりして、互いを支え合っているわけです。良いことだと思います、それは。
ただ、私は牧師ですのでその方達に「もう一歩」進むように勧めます。私たちの人生がそれぞれに固有のものであり、「唯一無二」のものであるとすれば、その私たちの生活に現れる神の恵みもまた固有の仕方、独自の仕方で現れるはずです。
聖書という書物は家電のマニュアルのようなものではありません。家電のマニュアルは、誰に対しても均等に同じ情報を提供します。対して聖書というものは一見、誰に対しても同じ内容であるように見えますが、実は読む人それぞれに対して、特有のメッセージを与えてくれるものなのです。
ですから、例えば同じ教会の同じ集会に集っていても、それぞれが体験する神の恵み、キリストとの出会い、救いの体験というものは様々ですし、それぞれに固有のものであるわけです。
クリスマス前のレイキャビクスナップ3 写真は去年のもの
Pic by me
そこで大事になってくることが、そのような自分の「神体験(?すごい言葉かも) を、口に出し周りの人たちとシェアすることです。だって本人がそれについて語ってくれない限り、他の人たちはそのことを知り得ませんから。そしてそのようにして分かち合われた体験が、今度は別の人をインスパイアし、困難な状況に耐えたり乗り越える力となり得るのです。
今回のエリサベトとマリアのエピソードでも、彼女たちは –エリサベトのお腹の赤ちゃんも含めて– 自らの体験と感情を表しています。それが互いを支え合う力となったのです。
神は私たちを、私たちの兄弟姉妹、隣人たち共に創造しました。私たちをひとりきりで地上に残すようなことはしませんでした。だから、私たちは自分のことだけではなく、周囲にいる人々のことも考えるべきなのです。
周囲の人たちと一緒にいるということはどんな意味を持っているのか?自分はきちんとその意義を捉えているだろうか?それを進めていくならば、ひとりでいるよりも共にあることが大切であると思えてくるかもしれません。
あるいは周囲との「持ちつ持たれつ」という関係が、ダラダラしたしがらみなどではなく、創造的で互いを高めあう関係に変わっていくかもしれません。「しれません」というよりは「そうなる」とワタシ的には確信していますが。
というわけで今回は、ちょっとキリスト教的な気配の強い内容になりました。そういうこともあります。宗教的な云々が好きでない方はご容赦ください。毎回、そうではありませんから。
それでは、皆さんが和やかで平和なクリスマスを過ごされますようお祈りしています。
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
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