こんにちは/こんばんは。

清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Bailey_Zindel@unsplash_com
このブログを始めたのは2012年の夏だったのですが、平均して言えば「週一」のペースで更新するリズムを保っていました。それがブログ開始十年を超えた2023年になって、三ヶ月ほどの急死、じゃない「休止」期間を作ってしまいました。
その後も一ヶ月間(ま)が空いたり、二週間空いたりということが頻繁となっていました。こうなってくると、ブログを訪ねてくださる奇特な皆さんからも「もうやる気がないんじゃないの〜?」と言われても仕方ないですよねぇ。
今年はできるだけ間が空いてしまわないように継続していきたいと考えています。サイバー攻撃がなければ... (^-^;
2023年の休止期間は、ちょっと自分の今の在り方を振り返りたいなあ、というような心持ちになったことが底辺にあったのですが、再開後のブログを読み返してみてひとつ気付くことがあります。
それは自分が高齢者になってきた、ということが割りと頻繁に言葉となって現れてきている、ということです。「自分の在り方を振り返る」なんていう心持ちになるということ自体が「老い」と関連したものなのでしょう。
それは決して「老け込む」ことと同義ではないですよ。「高齢者になってきている」という事実をどのように認識し、そのことと付き合っていくか?を考えることが、その時の自分の「在り方を考える」ことの中心にあったと思います。
そしてそれはまだ続きています。そこで今回は「老いを生きるー中間レポート」です。なんの科学的根拠にも依らない、ワタシの独断と偏見に満ち満ちた報告となります。

礼拝中に撮った写真 集中してない証拠(^-^;
Pic by me
報告その1: 年寄りは自分を年寄りとは思っていない
若い頃よりいつもこういう事例を周囲から、あるいはメディアを通して見聞きしてきました。「この間電車で座ってたら、僕の前にお爺さんが立つ状況になっちゃって、『どうぞ』って席を譲ったら『年寄り扱いするな』みたいな顔をされた」
正直言って、その頃はそういう時の「お爺さん」の気持ちは察しようがなかったです。「何だ、頑固ジジイが」という感じ。それが、今自分が六十六歳という時期を迎えて、ようやくわかり始めてきました。
これはかなりの数の同年代の皆さんに共通していることではないかと想像するのですが、私たちは「自分の頭の中では四十代の頃のマンマ」ということです。主観と客観という考え方は一般的ですが、私はここでは「主観と周囲観」という言い方をしたいと思います。
つまり、その個人が自分ではどう思っているかということと、その個人の周囲がどのようにその個人について考えているか、という視点の違いです。
今さっき書きましたように、私は(そして多くの同輩は)、自分が高齢者などとは自覚していないのです。これは強がりとかツッパリとかではなくて、単に頭の中にそういう概念がないだけなのです。だってまだ若いんだもん。

毎日教会へ詣で出てパンをねだる三匹のアヒル ドアを「カツカツ」します
Pic by me
報告その2: 高齢者は周囲が作る定義だ!
その一方で、私を取り巻く環境は別の視点を持っています。それは「だけど、オマエは事実66歳だろ!」という視点です。
昨年の11月に札幌へ帰省した際、JALのチケットにはToma,Toshikiという私の氏名の脇に「age 65(当時)」と年齢が記載されていました。ギョギョ! ですよ、まさに。私の内面的事実(まだ四十代)を冷たく否定した生物学的事実の記載です。
だからその記載を見るJALの天女様たちは、私をそういう前期高齢者の一味として(のみ)接してくれるわけです。JALのプラチナカードやらダイヤモンドカードやら他に見せる特典がないから。
これが「主観」に対しての「周囲観」です。で、世の中には「周囲観」を育てる要因が山のようにころがっています。例えば「老眼鏡」です。多くの人が歳を重ねる中で自覚する肉体的変化である「老眼」をお助けするメガネ。
アイスランドではLesglerauguレースグレールオイグと言います。直訳すると「読書メガネ」そうなんです。ここではこのメガネの必要は「老い」とは関連づけられていません。ただ単に「読書のための視力の調整」をするメガネなのです。だから誰も照れなく使えます。
最近、私がひしひしと感じさせらていることは、年齢は(特に高齢は)自分が認識することであるよりは、周囲から押し付けられる観念だ、ということです。いや「押し付けられる」は違うな。そんな悪意があるわけではないから。
「押し付けられる」と受け取ると、電車で席を譲られて怒るようなことになってしまうのでしょう。ここは単純に自分と周囲との「認識の違い」としておきましょう。悪意のないものとしても、その違いで自分の周りに心理的な柵を巡らされてしまうような気が...

教会前の駐車場からの景色
Pic by me
これに加えてさらに客観的な環境の変化というものもあります。自分の変化そのもの(歳を重ねる)ではなく、周囲の方の変化です。
例えばですねえ。私のいる教会には、地区のサービスセンターのようなものが併設されているために、結構な数の牧師さんが働いています。その中で、私もかつては「そんなに若い方ではないけど、別に上の方でもない」という状況でいました。それが、気が付けば私より年上の牧師さんはもはやひとりだけ。
当たり前のことですが、年月の中で、自分がかつて知っていた同僚の皆さんは順次お辞めになっていっているわけです。自然なことです。ところが後を埋めて入ってくる若い牧師さんたち。あんまり知らない人が多いのです。向こうもこっちを知らないし。
というわけで、ここで「知り合う」プロセスがうまくいかないと、だんだんと自分の知っている部分が少ない職場環境になっていってしまうのです。これもいいことではないですね。
人間、孤立化すると、ああでもないこうでもないと、不平不満や自己憐憫、はたまた被害妄想にまで襲われたりしますから。そうなると「だから年寄りは扱いにくい」みたいなドツボにハマることになりかねません。
ですから、ひとつには自分という存在に対しての、自分自身の認識と周囲の認識の違いがあり、その一方で確実にやってくる環境の変化というものがあります。このどちらにも賢明に対応しないと「上手に歳をとる」ということは難しくなるのでしょう。
いやあ、もう六十六年人間やってますけど、人間ってまだまだ奥が深いもんですねえ。もう一回高田純二さんの「三戒」 −歳取ったらやっちゃいけないこと− を噛み締めておきましょう。
一 自慢話しをするな
二 昔話しをするな
三 説教をするな
これらに引っかからない手段はただひとつ(かどうかは知りませんが、少なくともひとつの有効手段は)、チャレンジし続けることだと思います。仕事でも、趣味でも。まあ、それはまたの機会に。
最後にあがきの一言。だってまだ若いんだもん。(*^^*)
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Church home page: Breidholtskirkja/ International Congregation
Facebook: Toma Toshiki

清涼感アップ用ピック
Myndin er eftir Bailey_Zindel@unsplash_com
このブログを始めたのは2012年の夏だったのですが、平均して言えば「週一」のペースで更新するリズムを保っていました。それがブログ開始十年を超えた2023年になって、三ヶ月ほどの急死、じゃない「休止」期間を作ってしまいました。
その後も一ヶ月間(ま)が空いたり、二週間空いたりということが頻繁となっていました。こうなってくると、ブログを訪ねてくださる奇特な皆さんからも「もうやる気がないんじゃないの〜?」と言われても仕方ないですよねぇ。
今年はできるだけ間が空いてしまわないように継続していきたいと考えています。サイバー攻撃がなければ... (^-^;
2023年の休止期間は、ちょっと自分の今の在り方を振り返りたいなあ、というような心持ちになったことが底辺にあったのですが、再開後のブログを読み返してみてひとつ気付くことがあります。
それは自分が高齢者になってきた、ということが割りと頻繁に言葉となって現れてきている、ということです。「自分の在り方を振り返る」なんていう心持ちになるということ自体が「老い」と関連したものなのでしょう。
それは決して「老け込む」ことと同義ではないですよ。「高齢者になってきている」という事実をどのように認識し、そのことと付き合っていくか?を考えることが、その時の自分の「在り方を考える」ことの中心にあったと思います。
そしてそれはまだ続きています。そこで今回は「老いを生きるー中間レポート」です。なんの科学的根拠にも依らない、ワタシの独断と偏見に満ち満ちた報告となります。

礼拝中に撮った写真 集中してない証拠(^-^;
Pic by me
報告その1: 年寄りは自分を年寄りとは思っていない
若い頃よりいつもこういう事例を周囲から、あるいはメディアを通して見聞きしてきました。「この間電車で座ってたら、僕の前にお爺さんが立つ状況になっちゃって、『どうぞ』って席を譲ったら『年寄り扱いするな』みたいな顔をされた」
正直言って、その頃はそういう時の「お爺さん」の気持ちは察しようがなかったです。「何だ、頑固ジジイが」という感じ。それが、今自分が六十六歳という時期を迎えて、ようやくわかり始めてきました。
これはかなりの数の同年代の皆さんに共通していることではないかと想像するのですが、私たちは「自分の頭の中では四十代の頃のマンマ」ということです。主観と客観という考え方は一般的ですが、私はここでは「主観と周囲観」という言い方をしたいと思います。
つまり、その個人が自分ではどう思っているかということと、その個人の周囲がどのようにその個人について考えているか、という視点の違いです。
今さっき書きましたように、私は(そして多くの同輩は)、自分が高齢者などとは自覚していないのです。これは強がりとかツッパリとかではなくて、単に頭の中にそういう概念がないだけなのです。だってまだ若いんだもん。

毎日教会へ詣で出てパンをねだる三匹のアヒル ドアを「カツカツ」します
Pic by me
報告その2: 高齢者は周囲が作る定義だ!
その一方で、私を取り巻く環境は別の視点を持っています。それは「だけど、オマエは事実66歳だろ!」という視点です。
昨年の11月に札幌へ帰省した際、JALのチケットにはToma,Toshikiという私の氏名の脇に「age 65(当時)」と年齢が記載されていました。ギョギョ! ですよ、まさに。私の内面的事実(まだ四十代)を冷たく否定した生物学的事実の記載です。
だからその記載を見るJALの天女様たちは、私をそういう前期高齢者の一味として(のみ)接してくれるわけです。JALのプラチナカードやらダイヤモンドカードやら他に見せる特典がないから。
これが「主観」に対しての「周囲観」です。で、世の中には「周囲観」を育てる要因が山のようにころがっています。例えば「老眼鏡」です。多くの人が歳を重ねる中で自覚する肉体的変化である「老眼」をお助けするメガネ。
アイスランドではLesglerauguレースグレールオイグと言います。直訳すると「読書メガネ」そうなんです。ここではこのメガネの必要は「老い」とは関連づけられていません。ただ単に「読書のための視力の調整」をするメガネなのです。だから誰も照れなく使えます。
最近、私がひしひしと感じさせらていることは、年齢は(特に高齢は)自分が認識することであるよりは、周囲から押し付けられる観念だ、ということです。いや「押し付けられる」は違うな。そんな悪意があるわけではないから。
「押し付けられる」と受け取ると、電車で席を譲られて怒るようなことになってしまうのでしょう。ここは単純に自分と周囲との「認識の違い」としておきましょう。悪意のないものとしても、その違いで自分の周りに心理的な柵を巡らされてしまうような気が...

教会前の駐車場からの景色
Pic by me
これに加えてさらに客観的な環境の変化というものもあります。自分の変化そのもの(歳を重ねる)ではなく、周囲の方の変化です。
例えばですねえ。私のいる教会には、地区のサービスセンターのようなものが併設されているために、結構な数の牧師さんが働いています。その中で、私もかつては「そんなに若い方ではないけど、別に上の方でもない」という状況でいました。それが、気が付けば私より年上の牧師さんはもはやひとりだけ。
当たり前のことですが、年月の中で、自分がかつて知っていた同僚の皆さんは順次お辞めになっていっているわけです。自然なことです。ところが後を埋めて入ってくる若い牧師さんたち。あんまり知らない人が多いのです。向こうもこっちを知らないし。
というわけで、ここで「知り合う」プロセスがうまくいかないと、だんだんと自分の知っている部分が少ない職場環境になっていってしまうのです。これもいいことではないですね。
人間、孤立化すると、ああでもないこうでもないと、不平不満や自己憐憫、はたまた被害妄想にまで襲われたりしますから。そうなると「だから年寄りは扱いにくい」みたいなドツボにハマることになりかねません。
ですから、ひとつには自分という存在に対しての、自分自身の認識と周囲の認識の違いがあり、その一方で確実にやってくる環境の変化というものがあります。このどちらにも賢明に対応しないと「上手に歳をとる」ということは難しくなるのでしょう。
いやあ、もう六十六年人間やってますけど、人間ってまだまだ奥が深いもんですねえ。もう一回高田純二さんの「三戒」 −歳取ったらやっちゃいけないこと− を噛み締めておきましょう。
一 自慢話しをするな
二 昔話しをするな
三 説教をするな
これらに引っかからない手段はただひとつ(かどうかは知りませんが、少なくともひとつの有効手段は)、チャレンジし続けることだと思います。仕事でも、趣味でも。まあ、それはまたの機会に。
最後にあがきの一言。だってまだ若いんだもん。(*^^*)
*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。
藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com
Church home page: Breidholtskirkja/ International Congregation
Facebook: Toma Toshiki
>チャレンジし続けること、いいアドバイスもらっちゃいました。焦らないで、チャレンジ... への返信
アジアからの実技研修生の方々や、ミャンマーからのの人々あるいはミャンマーの国自体へのサポート等々、kuwaさんが取り組まれていることは多いと理解しています。
これって、みなチャレンジじゃないですか?今年も続けてください。kuwaさんを頼っている人も多いと信じています。m(_ _)m
>駐車場からの朝焼けでしょうか?良い景色ですね。... への返信
武田さん、コメント、ありがとうございます。
そうです。朝焼けとは言っても、10時過ぎくらいなんですけどね。(^-^;
自慢話をするな:気をつけています。然し気がつかなづ、普通に話していても、聞く人にとって、時に私が自慢しているように聞き取れるかと、時々思います。気をつけます。
昔話をするな:今の話をしていても今の自分と過去の自分は繋がっているので、昔の話も出てしまいますね。しかしそれが自慢話にならないようにふたたびこころがけます。
カナダ在住57年です。ルーテルでしたが訳あって現在は福音系の日本語教会に行っています。しかし心はルーテルです。そしてウエブサイトを通して日本のルーテル教会の礼拝を見ています。
>はじめまして。... への返信
はじめまして。コメントありがとうございます。
84歳!そのような先輩にブログを訪ねていただいているとは驚きつつも感謝です。
もう57年もカナダで暮らしていらっしゃるんですね。二十代後半でカナダへ移られたのですね。私も三十過ぎでこちらにきましたので、似た境遇の大先輩ということになりますね。これからもよろしくお願いいたします。m(_ _)m
教会のこととか、もっとお伺いしたいです。お時間のある時にメイルでも書いていただければ嬉しく思います。
nishimachihitori @gmail.com
*@前のスペースは詰めてください