今朝の新聞折り込みで『ながらにし』が入ってきた。
発行元は長良西まちづくり協議会とのこと。長良西でそれらしい組織というと自治会連合会だ。
『ながらにし』の記事でも表面は「二十歳のつどい」。都ホテル岐阜長良川で行われたもので、私がご町内の自治会長を務めさせてもらったときもコロナ過のなか細々と行われたし、その年は中止になった自治会連合会の新年互例会も行われたとの記事が載っているので自治会連合会が発行元だろう。
今までこのチラシは記憶にないが、第9号とのこと。それならバックナンバーはと思ってネット検索しても出てこない。発行元の長良西まちづくり協議会すらヒットしない。岐阜市役所の『まちづくり協議会設置状況』を見ても存在じたい不明という有様だ(-_-;)
そんな情けない『ながらにし』であるが、今回注目したのは下の記事である。
両方とも齢70のジジイにとっては懐かしく嬉しい記事である(^^;
長良西校区は昭和30年に長良から分離して成立。私の弟の生年と一緒だ。
そして災害として伊勢湾台風、水防団結成、その後の2つの水害。長良立閘の完成などが書かれている。
伊勢湾台風のとき私ゃ6歳だったから保育所に行ってた。夜中に叩き起こされて小学校に避難した。家は床上浸水。上記の『ながらにし』の記事の中にも濁流が長良西校区に流れ込むとある(校区内の地形など高低差の記事)。
そのあともう一度学校に避難した覚えがあるが、翌年のことだったろうか?ウチの母が避難した小学校の2階渡り廊下で(飛んできた瓦により)割れたガラスでケガをした。避難した教室の窓側に机でバリケードをして割れるガラスを防いだという記憶が鮮明に残っている。
また昭和51年の安八災害時には夜中に鳥羽川の洪水を見に行ったり、増水で閉められた長良立閘で川下に迂回したため始業時間に遅刻したという苦い思い出が残っている。
蛇足だが、昭和36年梅雨前線の停滞による水害のところ。線状降水帯が『線上降水帯』になっている。
線上と記するのは『G線上のアリア』くらいしか思い浮かばないが・・・記事を書いた人はバイオリニストだったりして。
だけです。でも岐阜では意味のあるところですね。
道三塚は『麒麟がくる』関連の記事で紹介させてもらいました。
https://blog.goo.ne.jp/tougeoyaji/e/25fe5f9f0a7dad6573813226a7b59734
崇福寺は小学校の授業がてら、お邪魔した覚えです。
どちらも大河ドラマ関連のところですね。