地方普通校・高校球児の理想的な引退は

 今から40年前の私は高2だったのだが先日も記したように所属
していた西田川は門司工に1-9のコールド負けを喫し、Sさん組
の1年は終わった。

 正直言ってプレーした3年間の夏の大会では最も勝てそうな相手
(ただし翌年の門司工は県ベスト4)だっただけに凄く悔しく残念
な結果となったわけだが、それだけでなく会場が地元の市民球場
だったという事が無念さに拍車をかけた。

 福岡県北部の夏の予選は当時北九州市民球場(当時は小倉球場)、
大谷、桃園という北九州市内の3球場で行われており最も人気が
あったのはプロ野球の公式戦も行われている北九州市民で新日鉄
八幡のホームグランドの大谷に広くはあるものの外野に芝がない
桃園の順番だったが80年は雨天中止が続き遂に地元の田川市民球
場を使うハメになった。

 田川市民球場はこの年にジャイアンツとライオンズのイースタ
ンリーグの試合が行われたのだが、いかんせん本来なら夏の大会
の会場ではなく市長杯をはじめとしたローカルな大会の球場とい
うイメージだったので小倉から大谷に変更になっただけでなく田
川になった時は本当に‘まさか’だった。

 正直言って我々のようなチームは甲子園といっても現実的では
ないわけだし、どんなチームでも1校を除きいつかは負ける。

 ならば甲子園に行くようなチーム相手に然るべき球場で戦って
力を出し切って終わるというのが理想的になるわけで、当時の我
々ならば3回戦、できればベスト16ぐらいで甲子園に出場する相
手に負けて終わるというもの。

 1年の時の会場は桃園だったし相手は準シードの筑豊工でベスト
16に残れてはないものの、この年は年間2勝しかできず筑豊工も
4月にウチがコールド負けした飯塚にコールド勝ちをしているの
だから格上でコールド負けをしなければのレベル。

 そんな相手にサヨナラ負けしたものの1-6で迎えた9回表に一
挙5点を挙げて追い付いているのだから、持てる力を出し切れた
という事で帰りの電車やバスの中では晴れやかな楽しい雰囲気
だった。

 我々の代は会場が北九州市民で開幕戦という事で始球式まで
見る事ができたし、相手は翌年春夏連続で甲子園出場する八幡
大付だから7回コールド負けしたところで地力の差だし何度か
見せ場はあっただけでなく17年後に福岡ドームの開幕戦です
ら来なかったブラスバンドが応援に来てくれたのも嬉しいも
のだった。

 悔いが残るとすれば もう少し上手くいけば9回まで戦えたの
と、3年間では最も成績はよかったので同じパートには他に強
いチームがなかったのだから3回戦で対戦したかったという思
いぐらい。

 こうして見ると翌年門司工がベスト4に進んだとはいえ2年の
時のSさん達のチームが、いかに不運か分かるのだ。

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