金城哲夫が沖縄に帰って40年

 今から40年前の昨日69年3月9日にOAされたのが怪奇大作戦 26話・
ゆきおんな。
 これが怪奇大作戦の最終回で、TBSが日曜19:00からOAしていたタケダ
アワー最後の円谷作品となった。
 それからほどなくしてウルトラマン生みの親の1人である脚本家の金城
哲夫が竹芝桟橋から故郷の沖縄に旅立っている。

 円谷英二をはじめとした仲間達が見送る中、自らを鼓舞するようにラッパ
を吹きながらの出発だったらしい。
 円谷の1つの時代と終焉に思えるシーンではないか。

  66年1月2日にタケダアワーの中でウルトラQがOAされ絶大な人気を
得てウルトラマン、ウルトラセブンと立て続けにヒットを飛ばした円谷作品を
支えた1人が金城哲夫だった。
 3作品のメインライターとして独特の世界を築いただけでなく、本来なら
作風が違う佐々木守を実相寺昭雄監督と組ませて起用しアクセントを
つけるなど視野の広いプロデューサー的な才能も併せ持っていたようだ。

 ところが鳴り物入りで製作された初の特撮1時間ドラマのマイティジャックが
意外な不振で1クールで打ち切られ、30分枠に変更した続編も裏番組の
巨人の星に完敗。
‘円谷作品は必ずヒットする’という円谷神話に翳りが見えた。

 更にポスト・ウルトラとしてスタートした怪奇大作戦は、いわゆる金城ワール
ドとはかけ離れた作風になっていて26話中3話を担当したのみで終わって
しまったのだ。

 あらゆる媒体で帰郷理由については語られているので、ここでは記さ
ないが心に深い傷を負ったまま故郷の沖縄に帰ったのだと思う。 

 沖縄に戻って7年目の76年2月に不幸な転落事故で亡くなったが、当時
まだ37歳の若さだった。

 結果的に第1期ウルトラの3作品で燃え尽きたという事なのだろうが、
やはり金城ワールドを見て育った世代の我々にしてみると少しでも長生き
して欲しかったし、平成での氏の作品も見てみたかった。   

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