3月8日紀伊國屋ホールで、蓬莱竜太作「母と惑星について、および自転する女たちの記録」を見た(演出:栗山民也)。
突然の母の死からひと月。私たちは何と決別すればいいのか。
徹底的に放任され、父親を知らずに育った三姉妹は、遺骨を持ったまま長崎からあてのない旅に出る。
「私には重石が三つ必要たい」毎日のように聞かされた母の口癖が頭をめぐる。次第に蘇る三姉妹それぞれの母の記憶。
奔放に生き、突然消え去った母。母は、何を欲していたのか。
自分はこれからどこに向かえばいいのか・・・。三姉妹の自問の旅は続く(チラシより)。
鶴屋南北戯曲賞(蓬莱竜太)受賞、読売演劇大賞最優秀女優賞(鈴木杏)受賞という輝かしい記録を持つ作品。
母(キムラ緑子)が心筋梗塞で突然亡くなり、三姉妹はトルコのイスタンブールに遺骨をまきに来ている。
なぜまたはるばるイスタンブールへ?
母が「飛んでイスタンブール」をいつも歌っていたから。
どこかに散骨しようと街を歩きながらも、彼らは土産物屋をのぞいたり、適当に観光もしている。帰る日も決めていない。
長女(田畑智子)はフリーライター。
次女(鈴木杏)は専業主婦で、夫はバンドが趣味の派遣社員。
三女(芳根京子)は23歳で長崎市内で働いている。
次女は日本にいる夫に毎日スマホでメールする。その都度、舞台上方に文面が映し出される趣向が面白い。
長女が高校3年生で東京の大学入学を目指して受験勉強している時、母がやって来て「出て行きたいのは私だ、あさって出て行く。〇〇さんと二人だけで暮らしたい。
私には今しかないの。おばあちゃんと家の面倒はあんたが見てほしい。東京には行かんで、この家におってほしい」とめちゃくちゃなことを言い出す。
当時三女はまだ小学生。長女は驚いて妹たちを呼び、「育児放棄でしょ!?」と叫ぶ。
高校生の頃の次女が、好きなバンドマンに宛てたラブレターを母に添削してもらうシーンが面白い。
ここは唯一、母が母らしい場面だ。
三女の思い出は一番重い。小さい頃、山の中で置き去りにされた恐怖。母が亡くなる少し前、帰宅すると風呂場に男がいて・・・。
次第に三人の性格と現状が浮かび上がる。
長女はしっかり者だが、母に似たのか恋多き女。自分のそういうところをよく知っているため、相手がいないわけではないのに結婚には消極的。
次女は、母みたいになりたくない、私は専業主婦になる!と宣言していたが、けっこう純情なため、好きなバンドマンと結婚。夫は趣味のバンド活動に
打ち込み、仕事は派遣で収入は少ない。そういう場合、普通自分が働きに出るものだが、彼女は憧れの「専業主婦」という地位を捨てたくない。そのため借金に
苦しんでいる。
三女は父親を知らず、普通の家族の暮らしを知らないので、やはり結婚に二の足を踏んでいる。
始めと終わりに三女の語りがあり、ラストの「この長い手紙を」というセリフから、この芝居全体が彼氏への手紙だと分かる仕掛け。
脚本について難を言えば、三人共、お金に余裕があるわけではないのに、はるばるトルコまで旅行する、というのが、ちょっと無理がある。
しかもその動機というのが、ちと弱いし。
それと、子供好きとはとても思えない母が「孫が欲しい」と言っていた、というのも、いささか解せない。
役者について。
次女役の鈴木杏には驚いた。とにかく今まで見てきた彼女とはまったくの別人で、何度も目を凝らして本当に彼女なのか確認する始末。
これまで、どちらかと言うと女性らしい役が多かったように思うが、今回の役はまるで男子高校生みたいな感じ。
声は低いし体格はがっしりしているし化粧っけはないし丸顔だし。
まあこういう役が元々向いていたとも言えるが。
とにかく役者ってすごい、と改めて思った。
だが母役のキムラ緑子もすごい。この人がうまいのは知っていたが、これほどとは。
とにかく役になり切っている。
もちろん脚本もいいが、彼女がうまいから、このとんでもない母親の心情が理解可能なのだ。
我々観客は、この母の気持ちに寄り添って、彼女の人生を追体験するような感覚を味わうことができる。
ところで、ここで長崎弁はかなりマイルドになっている。
例えば、「あたし、かわいくないから」は、もっとディープな長崎弁だと「うち、かわゆうなかけん」となるのではないだろうか。
それから、何度も出てくるので気になったのは、「何?」と尋ねる時の「なん?」。
これは聞いたことがない。
長崎では普通「なんね?」と言う。
この公演は長崎でもやるらしいが、現地での観客の反応はどうだろうか。
女だけの芝居、長崎、妊娠、と来れば、いやでも名作「まほろば」を思い出す。
2008年に彼の芝居を初めて見たのが「まほろば」だった。
才能ある若い劇作家の登場に胸躍らせたものだった。
この作品も素晴らしい。
突然の母の死からひと月。私たちは何と決別すればいいのか。
徹底的に放任され、父親を知らずに育った三姉妹は、遺骨を持ったまま長崎からあてのない旅に出る。
「私には重石が三つ必要たい」毎日のように聞かされた母の口癖が頭をめぐる。次第に蘇る三姉妹それぞれの母の記憶。
奔放に生き、突然消え去った母。母は、何を欲していたのか。
自分はこれからどこに向かえばいいのか・・・。三姉妹の自問の旅は続く(チラシより)。
鶴屋南北戯曲賞(蓬莱竜太)受賞、読売演劇大賞最優秀女優賞(鈴木杏)受賞という輝かしい記録を持つ作品。
母(キムラ緑子)が心筋梗塞で突然亡くなり、三姉妹はトルコのイスタンブールに遺骨をまきに来ている。
なぜまたはるばるイスタンブールへ?
母が「飛んでイスタンブール」をいつも歌っていたから。
どこかに散骨しようと街を歩きながらも、彼らは土産物屋をのぞいたり、適当に観光もしている。帰る日も決めていない。
長女(田畑智子)はフリーライター。
次女(鈴木杏)は専業主婦で、夫はバンドが趣味の派遣社員。
三女(芳根京子)は23歳で長崎市内で働いている。
次女は日本にいる夫に毎日スマホでメールする。その都度、舞台上方に文面が映し出される趣向が面白い。
長女が高校3年生で東京の大学入学を目指して受験勉強している時、母がやって来て「出て行きたいのは私だ、あさって出て行く。〇〇さんと二人だけで暮らしたい。
私には今しかないの。おばあちゃんと家の面倒はあんたが見てほしい。東京には行かんで、この家におってほしい」とめちゃくちゃなことを言い出す。
当時三女はまだ小学生。長女は驚いて妹たちを呼び、「育児放棄でしょ!?」と叫ぶ。
高校生の頃の次女が、好きなバンドマンに宛てたラブレターを母に添削してもらうシーンが面白い。
ここは唯一、母が母らしい場面だ。
三女の思い出は一番重い。小さい頃、山の中で置き去りにされた恐怖。母が亡くなる少し前、帰宅すると風呂場に男がいて・・・。
次第に三人の性格と現状が浮かび上がる。
長女はしっかり者だが、母に似たのか恋多き女。自分のそういうところをよく知っているため、相手がいないわけではないのに結婚には消極的。
次女は、母みたいになりたくない、私は専業主婦になる!と宣言していたが、けっこう純情なため、好きなバンドマンと結婚。夫は趣味のバンド活動に
打ち込み、仕事は派遣で収入は少ない。そういう場合、普通自分が働きに出るものだが、彼女は憧れの「専業主婦」という地位を捨てたくない。そのため借金に
苦しんでいる。
三女は父親を知らず、普通の家族の暮らしを知らないので、やはり結婚に二の足を踏んでいる。
始めと終わりに三女の語りがあり、ラストの「この長い手紙を」というセリフから、この芝居全体が彼氏への手紙だと分かる仕掛け。
脚本について難を言えば、三人共、お金に余裕があるわけではないのに、はるばるトルコまで旅行する、というのが、ちょっと無理がある。
しかもその動機というのが、ちと弱いし。
それと、子供好きとはとても思えない母が「孫が欲しい」と言っていた、というのも、いささか解せない。
役者について。
次女役の鈴木杏には驚いた。とにかく今まで見てきた彼女とはまったくの別人で、何度も目を凝らして本当に彼女なのか確認する始末。
これまで、どちらかと言うと女性らしい役が多かったように思うが、今回の役はまるで男子高校生みたいな感じ。
声は低いし体格はがっしりしているし化粧っけはないし丸顔だし。
まあこういう役が元々向いていたとも言えるが。
とにかく役者ってすごい、と改めて思った。
だが母役のキムラ緑子もすごい。この人がうまいのは知っていたが、これほどとは。
とにかく役になり切っている。
もちろん脚本もいいが、彼女がうまいから、このとんでもない母親の心情が理解可能なのだ。
我々観客は、この母の気持ちに寄り添って、彼女の人生を追体験するような感覚を味わうことができる。
ところで、ここで長崎弁はかなりマイルドになっている。
例えば、「あたし、かわいくないから」は、もっとディープな長崎弁だと「うち、かわゆうなかけん」となるのではないだろうか。
それから、何度も出てくるので気になったのは、「何?」と尋ねる時の「なん?」。
これは聞いたことがない。
長崎では普通「なんね?」と言う。
この公演は長崎でもやるらしいが、現地での観客の反応はどうだろうか。
女だけの芝居、長崎、妊娠、と来れば、いやでも名作「まほろば」を思い出す。
2008年に彼の芝居を初めて見たのが「まほろば」だった。
才能ある若い劇作家の登場に胸躍らせたものだった。
この作品も素晴らしい。
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