2月2日東京芸術劇場 シアターイーストで、ソーントン・ワイルダー作「わが町」を見た(東京演劇道場公演、構成・演出・翻訳:柴幸男)。
<1幕>
大勢の白服の男女が、登場人物たちの人形を操ってストーリーを進めるが、何人もの人が説明しながらなので、いつまでたっても物語の中に入り込めない。
しかも、同じ人形をいろんな人が交代で操るので、非常に違和感がある。
これは、意図的に感情移入させないようにしているのだろう。
舞台は1901年の米国の、とある田舎町。
当時、こののどかな町では玄関に鍵をかける人などいなかった。まだ車も走っていない。
町のあちこちに教会がたくさんある。メソジスト派、長老派、カトリック・・・。それぞれ少し離れたところに位置している。
医者ギブスとその妻ジュリアには息子ジョージがいる。
ジョージは、同級生で勉強好きなエミリーに宿題を教えてもらっている。
彼は野球が大好きで、伯父さんに可愛がられており、伯父さんは自分の農場を彼に継がせようと言ってくれている。
ジョージもその気でいる。
<2幕>
「3年後」と字幕が出る。つまり1904年。ところが白い幕が張られ、そこには「2023年東京」と出る。何?
画面にエミリーとジョージの人形登場。2人が結婚に至る経緯がほのぼのと描かれる。
そして結婚式の朝。いろいろあるが、皆に祝福されて無事に結婚式を挙げる。
~ここで休憩~
<3幕>
9年後、つまり1913年。
町を見下ろす墓地に新しい墓が掘られている。それはエミリーの墓だった。
彼女は2人目のお産で命を落とした。
彼女の義母ジュリアは3年前に死去したという。
墓地で死者たちが語り合っていると、町の人々がやって来る。
新しく死者の仲間となったエミリーも来て、死者たちに懐かしそうに声をかける。
義母にも話しかけるが、義母は、もう生きていた時のことをだいぶ忘れている。
死者は死んでしばらくすると、生きていた頃のことを次第に忘れていくらしい。
最後にエミリーが、もう一度、人生の中の一日だけを、あっち(現世)に行って見てみたい、と言う。
望めばそれが可能らしい。
彼女は自分の12歳の誕生日の日を選び、その日の自分の家の中を覗き見る。
朝、母がキッチンで朝食の用意をしながら子供たちを呼ぶ。
父は講演に行った先から帰って来る。娘へのプレゼントを持って。
だがエミリーは、途中で、もう見ていられない。
「やっぱりお墓に帰ります」
「生きてる人たちって、狭い箱の中にいるよう。せかせかして・・」
「永遠なるもの」という言葉が繰り返し口にされる。
原作より多いかも知れない。
死者の心の中から、現世の出来事や思いが少しずつ消えていき、代わりにそこに永遠なるものが入って来る・・。
こういう台本を書いた人の気持ちには深い共感を覚えるが。
役者たちは滑舌がよくて演技もうまい人が多い。
しかも若い人が多い。
そこに希望がある。
「東京を舞台に」とあるので翻案かと身構えたが、そうではなくてホッとした。
東京タワーとスカイツリーが出てきて、2幕で使われる映像が現代の東京の風景だっただけ。
2幕の結婚式のシーンで、新郎新婦役の人が次々と変わるのが、非常にわかりにくい。
話に集中するのがメチャメチャ難しい。
3幕の墓地のシーンでもエミリー役が次々と代わり、数えたら全部で10人!目まぐるしいったらない。
観客を混乱させたいのか。
それほどまでに感情移入させたくないのか。
結局、この芝居の印象は「混乱と困惑」。
今回の演出には、とても賛同できない。
この作品は、2011年1月に、新国立劇場中劇場で見たことがある。
宮田慶子の演出で、小堺一機が舞台監督(語り手)の役だった。
あの時も感情移入は難しかったし、役者たちがあまりよくなかったが、演出はとてもよかった。
今回とは逆(笑)。
これまで、宮田慶子の演出で嫌な思いをしたことは一度もない。
彼女は評者が最も信頼する演出家です。
原作の戯曲も、大学時代に少し読んだ記憶がある。
風変わりだが、心に沁みる優れた作品だと思う。
<1幕>
大勢の白服の男女が、登場人物たちの人形を操ってストーリーを進めるが、何人もの人が説明しながらなので、いつまでたっても物語の中に入り込めない。
しかも、同じ人形をいろんな人が交代で操るので、非常に違和感がある。
これは、意図的に感情移入させないようにしているのだろう。
舞台は1901年の米国の、とある田舎町。
当時、こののどかな町では玄関に鍵をかける人などいなかった。まだ車も走っていない。
町のあちこちに教会がたくさんある。メソジスト派、長老派、カトリック・・・。それぞれ少し離れたところに位置している。
医者ギブスとその妻ジュリアには息子ジョージがいる。
ジョージは、同級生で勉強好きなエミリーに宿題を教えてもらっている。
彼は野球が大好きで、伯父さんに可愛がられており、伯父さんは自分の農場を彼に継がせようと言ってくれている。
ジョージもその気でいる。
<2幕>
「3年後」と字幕が出る。つまり1904年。ところが白い幕が張られ、そこには「2023年東京」と出る。何?
画面にエミリーとジョージの人形登場。2人が結婚に至る経緯がほのぼのと描かれる。
そして結婚式の朝。いろいろあるが、皆に祝福されて無事に結婚式を挙げる。
~ここで休憩~
<3幕>
9年後、つまり1913年。
町を見下ろす墓地に新しい墓が掘られている。それはエミリーの墓だった。
彼女は2人目のお産で命を落とした。
彼女の義母ジュリアは3年前に死去したという。
墓地で死者たちが語り合っていると、町の人々がやって来る。
新しく死者の仲間となったエミリーも来て、死者たちに懐かしそうに声をかける。
義母にも話しかけるが、義母は、もう生きていた時のことをだいぶ忘れている。
死者は死んでしばらくすると、生きていた頃のことを次第に忘れていくらしい。
最後にエミリーが、もう一度、人生の中の一日だけを、あっち(現世)に行って見てみたい、と言う。
望めばそれが可能らしい。
彼女は自分の12歳の誕生日の日を選び、その日の自分の家の中を覗き見る。
朝、母がキッチンで朝食の用意をしながら子供たちを呼ぶ。
父は講演に行った先から帰って来る。娘へのプレゼントを持って。
だがエミリーは、途中で、もう見ていられない。
「やっぱりお墓に帰ります」
「生きてる人たちって、狭い箱の中にいるよう。せかせかして・・」
「永遠なるもの」という言葉が繰り返し口にされる。
原作より多いかも知れない。
死者の心の中から、現世の出来事や思いが少しずつ消えていき、代わりにそこに永遠なるものが入って来る・・。
こういう台本を書いた人の気持ちには深い共感を覚えるが。
役者たちは滑舌がよくて演技もうまい人が多い。
しかも若い人が多い。
そこに希望がある。
「東京を舞台に」とあるので翻案かと身構えたが、そうではなくてホッとした。
東京タワーとスカイツリーが出てきて、2幕で使われる映像が現代の東京の風景だっただけ。
2幕の結婚式のシーンで、新郎新婦役の人が次々と変わるのが、非常にわかりにくい。
話に集中するのがメチャメチャ難しい。
3幕の墓地のシーンでもエミリー役が次々と代わり、数えたら全部で10人!目まぐるしいったらない。
観客を混乱させたいのか。
それほどまでに感情移入させたくないのか。
結局、この芝居の印象は「混乱と困惑」。
今回の演出には、とても賛同できない。
この作品は、2011年1月に、新国立劇場中劇場で見たことがある。
宮田慶子の演出で、小堺一機が舞台監督(語り手)の役だった。
あの時も感情移入は難しかったし、役者たちがあまりよくなかったが、演出はとてもよかった。
今回とは逆(笑)。
これまで、宮田慶子の演出で嫌な思いをしたことは一度もない。
彼女は評者が最も信頼する演出家です。
原作の戯曲も、大学時代に少し読んだ記憶がある。
風変わりだが、心に沁みる優れた作品だと思う。
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