「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「平等院」(びょうどういん)

2006年10月12日 10時56分36秒 | 古都逍遥「京都篇」
 平等院は、長徳4年(998)関白藤原道長が左大臣源重信の夫人から譲り受けた別業「宇治殿」で、万寿4年(1027)道長没後に、その子頼道が伝領した。永承7年(1052)3月、仏寺に改め大日如来を本尊とする五間四面の本堂を建立し、平等院と号した。
 阿弥陀堂は、建物の屋根に鳳凰が飾られていることと、建物が羽根を広げた鳳凰の姿に似ていることから「鳳凰堂」と呼ばれ信仰を集めている。
 天喜元年(1053)には、平等院の阿弥陀堂が落成し、堂内には平安時代の最高の仏師定朝によって天喜元年(1053)に作成された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、極楽浄土を再現した。その構造技法は日本独自の寄木造りの完成した技法をみることができる。また表現の上でも和様式で、頬がまるく張った円満な顔、そして伏目がちながら大きな眼で静かに見つめ、かぎりない優しさにあふれている。
 雲中供養菩薩像は、鳳凰堂中堂母屋内側の長押(なげし)上の小壁(こかべ)に懸けならべられている52躯の菩薩像で、定朝工房で天喜元年に作られた。南北2つのコの字形に南北半数ずつに分けて懸けられ、本尊阿弥陀如来坐像を囲んでいる。各像には北側分は1から26までの、南側分は1から25までの番号を、背面壁からはじまり側面壁をへて正面壁にいたる順につけている。南側の最後にある1躯は、他の51躯が国宝指定を受けた後に堂外から発見されたことから番外とされている。各像はいずれも頭光(輪光)を負い、飛雲上に乗ってさまざまの変化にとんだ姿勢をとり、5躯は比丘形(僧形)で、他は菩薩形。比丘形の5躯はいずれも坐像で、3躯は合掌し、2躯は印を結んでいる。菩薩形の像は多くが坐像で、それらはいろいろな楽器を演奏したり、あるいは持物をとったり、合掌したりしている。菩薩形像のうち6躯は舞い姿の立像。ゆったりとしたやわらかな肉どりや、穏やかな顔だち、自然な衣文などは本尊阿弥陀如来像に共通している。

 藤原氏氏寺として大伽藍が造営整備され興隆を極めたが、その後3度の戦乱に巻き込まれ、阿弥陀堂(鳳凰堂)観音堂、鐘楼のみが残った。
 治承4年(1180)源平の争乱勃発、源頼政父子が宇治川の合戦で平家に敗れ、頼政は等院境内の扇芝で自害。その子仲綱も阿弥陀堂内で切腹する。

四季折々に美しい景観を表わすが、初夏のころの藤の花は見事なもので、多くの観光客がこの藤をお目当てに訪れるともいう。秋の紅葉、春は梅に桜、とくに桜は宇治川の中之島の桜とあわせて爛漫と咲き誇る。

 所在地:京都府宇治市宇治蓮華116
 交通:JR奈良線「宇治駅」南出口から北東へ徒歩10分
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