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「平野神社」(ひらのじんじゃ)

2006年10月17日 22時05分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
「平野神社」(ひらのじんじゃ)
 平野神社は、絹をかけたようなやわらかな衣笠山(きぬがさやま)の近く、西大路通りに面し、毎年8月16日に行なわれる京都の風物詩、京都五山の送り火、通称「大文字焼き」の「左大文字」が見通せるところにある。
 染め織りの街、西陣に接する由緒ある古社である。当社が最も賑わいを見せる季節は春、それもそのはず、神社をすっぽりと覆い尽くす爛漫の桜が人々を酔わせるからだ。ここの桜は種類が多いことでも有名で約45種、50本の花が春のはじめから晩春まで咲きついでいく。緋毛氈(ひもうせん)を敷いた床机(しょうぎ)で桜を見上げる風情は、千年もの王朝時代にタイムスリップしたかのように、妙にしっとりとした雅を漂わせている。

 当社は、延歴13年(794年)桓武天皇平安遷都の時、大和の国より四神を勧請したのが始まりで、延喜式内社の名神大社である。平安中期以後は22社中の5位として、伊勢・賀茂(上・下)石清水・松尾につぐ名社であった。また、源氏・平氏・高階・大枝・清原氏・中原氏・菅原氏・秋篠氏等の祖神として崇められてきた。明治四年官幣大社に列し、洛西の総氏神と仰がれている。

 本殿は東向きに建てられており、本殿、拝殿、楼門、境内東側の鳥居は直線上に配置されている。本殿は慶長3年(1598年)と慶長9年(1604年)に再建されたものとされ、「平野造り」又は「比翼春日造り」と称せられており、重要文化財に指定されている。
 拝殿内には寛文年間(1661~73年)に海北友雪が描いたとされている三十六歌仙の絵が掲げられている。「三十六人撰」は、柿本人麿から中務まで、三十六人の歌仙の歌150首を撰出して結番した、歌合形式の秀歌撰である。藤原公任(966-1041)撰。
「三十六人歌合」とも。人麿・貫之・躬恒・伊勢の巻頭4人、および平兼盛・中務の巻末2人は各10首、その他30人は各3首を選抜している。これ以前に公任は「前15番歌合」を編んでいたが、これを発展させた「三十六人撰」(散逸)を具平親王に贈り、親王はこれを改撰した「三十六人撰」(現存)を編んで公任に贈り返した。まもなく親王は没し、公任は自撰の「三十人撰」を改訂増補して「三十六人撰」を完成させたと伝えられている。従って成立は、具平親王が亡くなった寛弘6年(1009)7月以後、まもなくかと推測されている。その後盛んに作られた三十六歌仙形式の秀歌撰の祖にあたる。
 柿本人麿、紀貫之、凡河内躬恒、伊勢、大伴家持、山辺赤人、在原業平、僧正遍昭、素性法師、紀友則、猿丸大夫、小野小町、藤原兼輔、、藤原朝忠、藤原敦忠、藤原高光、源公忠、壬生忠岑、斎宮女御、大中臣頼基、藤原敏行、源重之、源宗于、源信明、藤原清正、源順、藤原興風、清原元輔、坂上是則、藤原元真、小大君、藤原仲文、大中臣能宣、壬生忠見、平兼盛、中務。

 当社が衣笠山の麓にあった頃、花山天皇が84方の境内に数千本の桜をお植えになったのが名所となり、寛和元年の花盛りに臨時の勅祭を執り行ったのが4月10日の今の桜祭りの起因となったともある。

 いくつかの名木を紹介しておくと、
「平野妹背桜」:花は淡紅色で、撒房形花序。妹背(仲の良い恋人)のように花柄の先に2つのかわいい実が寄り添うようにく。

「突葉根桜」:花は小さく花弁62~3枚で、一見菊桜のようで、紅色の花が咲く過程によりさまざまな表情を見せ、最後には大輪になる。

「胡蝶桜」:花は淡紅色の大輪で満開時には、あたかも蝶が飛んでいるようだ。

 所在地:京都市北区平野宮本町。
 交通:JR京都駅から市バス 205・50系、衣笠校前下車徒歩1分。京阪三条から 市バス15、衣笠校前下車徒歩1分。
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