「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「円山公園」(まるやまこうえん)

2006年06月10日 19時00分19秒 | 古都逍遥「京都篇」
 円山公園は、明治19年(1886)に造成された京都市で最も古い公園で、 当時、西洋の公園では噴水が必須の設備となっていたところ、日本では必要な水圧と水量を継続的に確保することが技術的に困難であった。
 京都市では、疏水工事の技術責任者として活躍し、完工後東京の工科大学(東大の前身)に移っていた田辺朔郎教授に疏水の水を利用した噴水工事の可能性の検討を依頼し、明治24年に現地調査を実施した結果、第一疏水の第3トンネル西口から円山公園の枝垂桜までの25m落差を利用し、1.6kmの距離を鉄製配管でつなぐ設計を行い、明治43年(1910)疏水を活用した近代庭園の造園家として注目されていた小川冶兵衛に造園設計を依頼した。そして、大正2年の大改修工事で、明治44年に完成した第二疏水を水源とした池泉回遊式庭園を造園した。

 祇園祭のときに特に賑わう「八坂神社」の西楼門(四条通りの東端)から入り、右手の参道を少し進むと「本殿」があり、その奥の「斉殿」横を抜けると、円山公園の枝垂桜の巨木が出迎えてくれる。この枝垂桜は2代目で、初代は樹齢200余年、根廻り約4m、高さ約12mにも及び、明治中頃には盛観を極めたという。昭和22年(1947)に枯死し、現在は、15代佐野藤右衛門が昭和初年に初代の種子から育て、昭和24年(1949)に寄贈したもので、正式な名は「一重白彼岸枝垂桜」という。
 そのすぐ裏手に有名な瓢箪池があり、右側の小さい池に前述の噴水がある。左手にある大きい池には、水鳥が遊んでいる。両池のつなぎ目に架かる橋を渡り、東に向かう散策道には桜や楓の木が適当な間隔で植えられており、その道の左側を幅広い渓川がゆるやかな傾斜を持って瓢箪池に向かって流れている。さりげなく流れる渓川は川幅4~5mあり、大小の石が川底に配置されており、せせらぎの音を楽しめるようになっている。

 渓川の流れに逆行して東に進むと滝口に出合う。このあたりは、円山六坊址といわれるところで、南北朝時代に国阿上人によって再興された時宗安養寺の塔頂があり、古くから風雅を愛する遊客が多く、明治維新後は洋風旅館や温泉で賑わったが明治末年に消失、今は数軒の料亭が点在しており、歴史を刻んだ遺物も多く残っている。

 京都市では2003年から、春の風物詩を演出する行事として「京都・花灯路」と題する、東山の夜の散策コースを新たに作り、寺院・商店等とも協力し清水寺・高台寺・円山公園・知恩院・青蓮寺を結ぶ約2kmの散策路を数多くの花の一輪挿しと路地行灯で飾った。円山公園では、小川のせせらぎ一面を約2000本の青竹の灯篭で満たし、石畳に映る灯火に古都の情緒があふれている。

所在地:京都市東山区円山公園
 交通:京阪電車四条駅より徒歩5分、阪急電車河原町駅より徒歩10分。
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「祇園新橋」(ぎおんしんばし)

2006年06月09日 21時34分35秒 | 古都逍遥「京都篇」
 花街祇園の北に位置する新橋は、祇園社(現八坂神社)の門前町として開け、江戸時代には芝居や人形浄瑠璃の小屋が建ち並んだという。茶屋町として開発された祇園新橋界隈には、江戸末期から明治初期にかけての高級な町家が、柳並木の石畳の道沿いに洗練されたたたずまいを見せている。新橋通に面した区画は、紅殻格子が美しい茶屋様式の町家の表側の町並み。一方、白川に面した区画は、簾のかかった川端座敷など茶屋の裏側ともいえる町並みが続き、並木や石畳と調和して風情がある。

 歴史は290年ほどさかのぼるが、江戸時代の正徳3年、知恩院の山門から西へ縄手通りまで道が作られ、このとき白川の下流に橋をかけ、新橋と呼ぶようになる。道筋には祇園六町がつくられ、以来、江戸時代の町民文化の浮世草子、浄瑠璃、歌舞伎、音曲の舞台となった。
 祇園地区は茶屋町として形成され、祇園六町のうち新橋通りを中心とした東西約160メートル、南北約100メートルの範囲が「伝統的建造物保存地区」に指定されている。
 建物は切妻造・桟瓦葺・平入、2階建で、元治2年(1865)の大火直後に建てられたものである。1階に格子をつけ、2階は座敷となって正面に縁を張り出して「すだれ」を掛け、いわゆる京都らしい景観をみせている。
 石畳の道の北側に柳の木、南側に桜や梅、牡丹、紫陽花、芙蓉などが植えてあり、四季折々の花を楽しむことができる。春には夜桜の下、舞妓さんが観桜・桜まつりの初日にサービスで姿を見せてくれて、気さくに写真撮影に応じてくれる。

 明治期の歌人、吉井勇は人生の大半を京都ですごし、特に祇園を愛でていたようで、「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕のしたを 水のながるる」と自分の古稀を祝って詠んだとされる歌が碑に刻まれている。
 映画やテレビドラマでよく登場する巽橋(たつみばし)は、白川通りから切り通し通りに入れるように架かっている。この橋の周辺は祇園の中の祇園と言ってもいいほど情緒がある。滑らかな小川のせせらぎに柳のしなやかな枝が水面をなでるように清めている。この橋を渡ると辰巳神社(たつみじんじゃ)がある。辰巳の方角(南東)を守るために作られた社であるが、大阪ミナミの「水かけ不動」と同様に、祇園町にかかわる人たちのシンボル的な神社となり、芸子さんや舞妓さんたちを中心にした祇園芸能に関連する人たちから親しまれている。春には枝垂れ桜が、御茶屋の簾、白川のせせらぎ、秋には紅葉が舞う祇園町の小社・辰巳神社には、いつもお参りの人が絶えない。 

 所在地:京都市東山区新橋花見小路西入る元吉町。
 交通:市バス・祇園停留所、徒歩5分、京阪電車・四条駅、徒歩10分。
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「西芳寺(苔寺)」(さいほうじ・こけでら)

2006年06月08日 12時42分33秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都には名勝と称される庭園が数多く、そのほとんどが古刹寺院に存在する。
京都御所から西に位置する西山から嵐山方面を洛西と呼称するが、その洛西で桂離宮と並び賞される名庭が西芳寺、人呼んで「苔寺」がある。
 向日市から物集街道をたどり嵐山へと向かう途中の奥まった所に、一面苔に覆われた浄土の庭。足利将軍・義満、義政が当寺の瑠璃殿を模して、それぞれ金閣寺、銀閣寺を建てたことは余りにも知られている。
 当寺は、天平年間(729~49)法相宗の寺として、聖徳太子の別荘跡と伝わる地に聖武天皇が行基に命じて建立され、暦応2年(1339)に夢窓疎石を迎えて禅の道場(臨済宗)として再興した。平成6年(1994)12月、世界文化遺産に登録されている。

 当寺を訪れると、最初に目につくのは総門であるが、ここは通常開けられることはない。総門の西側に衆妙門があり、ここが入り口になる。門を入り左手に見える屋根の建物が、本堂の西来堂で、昭和44年(1969年)に、500年ぶりに再建された。
 足利義満の頃は現在のような苔は生えていなかったといわれているが、庭園の美しさは広く知られていたようで、義政は東山山荘の作庭に際し、当寺の庭園を模したとされている。その後、応仁の乱でほとんど全ての建物は焼失し、荒れ果てたが、後に、蓮如上人が庭園の復興につとめたといわれている。

 庭園は国史跡・国特別名勝に指定されており、下段の心の字を象る「心字池」を中心とし、4つの島で形成されている池泉廻遊式の庭園と、上段の枯山水の庭園の2つに分かれている。下段の庭園には苔で覆われており、緑の絨毯を敷き詰めたようである。苔の種類は120種余りあるといわれており、池、木立と一体となって、池の周囲を巡ると趣が刻々と変化し、木々の間から差し込む射光に映える一面の苔は、まるで黒澤明監督の映画「夢」の如く、幻想の世界に引き込まれる。時折、間をおいて、シシおどしの「コーン」という音が静寂の中に響き、幽玄の世界を醸し出している。下段の池泉廻遊式庭園に比べ、上段の枯山水庭園は比較的狭いが、日本最古の枯山水。枯山水石組、須弥岩組、座禅石など石と木立による庭園である。

庭園の南側、総門近くに国指定重要文化財の「湘南亭茶室」が建っている。
 創建時代の建物で残っているのはこの湘南亭だけであるといわれており、千利久の次男である千少庵が再建し、茶室としたとされている。湘南亭は当寺で最も古い建物であろう。幕末に岩倉具視がここに潜伏していたという。

 参拝は事前に往復葉書で申し込みが必要で、2ヶ月前からの申し込み順で、参拝七日前必着としており、希望日、人数、代表者の住所・氏名・電話番号などを記載し、京都市西京区松尾町 西芳寺参拝係宛に申し込む。
 庭園の拝観は本堂において「写経」すませなければ入庭できず、拝観は、志納料として3、000円を納める。
 通りがかりでは入れず、また修学旅行などでも拝観する人もいないことからほとんど人影を見ることが無く、ゆつくりと「浄土」の世界を散策することができる寺でもある。そんなことから、ホスピタリティーな癒し系の名庭かも知れない。 

 交通:交通:JR京都駅から京都バス73番で約50分、苔寺バス停下車、徒歩5分。  
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「即宗院」(そくそういん)

2006年06月02日 17時17分09秒 | 古都逍遥「京都篇」
 秋が深まりゆくころ、全山燃えるような紅葉で覆いつくされる名刹・東福寺を訪ねる人は多い。ところが、一歩、裏手に回るとぐっと人の数が減る。そこは室町庭園を誇る名勝・即宗院なのだが知る人は少ない。 東福寺境内に流れる渓流「洗玉澗」にかかる重要文化財「偃月橋」(えんげつ)を渡ると左右に石造の仁王像を配した山門がある。山門の左の隅にひっそりと芳しい山茶花が白い花をつけ、当院の静けさをかもし出している。石踏みの参道を進むと朽ち果てそうな門が侘びを形成している。静々と奥に進めばさほど広くない庭に山茶花が一本、利休好みに植えられている。 当院は南北時代、6代目・薩摩藩主島津氏久の菩提寺として創建されたもので、庭園は約800年ほど前、関白藤原忠通が御所の東御堂として創庭した。法然上人がこの地を訪れ、その行状絵巻に優美な寝殿造りの邸宅と池庭が描かれている。現在は月輪殿の滝跡の石組みだけが残っており、雅な時代を偲ばせている。

 明治維新の際、西郷隆盛が勤王の僧月照(清水寺の住職で歌人)とともに境内の茶室採薪亭に隠れ住み維新回天をはかった。境内裏山・慧日山上に、鳥羽伏見の戦いから会津東征の戦歿者424柱の顕彰碑と西郷隆盛直筆の銘文碑がある。
 当院後方には東山連峰につながり、水源清く奥深く、四季おりおりの野鳥たちが華麗な声を競い、初夏の頃は、夜蛙の声が静けさに低く響く。「東福寺かえる」の愛称で天然記念物に指定されている。清素閑寂、幽玄なる院庭に坐して心身洗うによきかな。

 交通:京阪電鉄東福寺下車徒歩10分。   
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