よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く(三原~尾道)

2013-09-24 20:14:11 | 山陽道(西国街道)を歩く
9/16昨日の雨は上がり気持ち良い快晴の天気です。
JR西条発7:40岡山行で前日ゴールの三原駅へ 三原着8:18。



三原駅を降りると構内に「三原城天守跡」の看板があり順路にしたがって歩いていきます。

三原城は瀬戸内海の水軍を掌握していた毛利輝元の三男の小早川隆景が永禄10年(1567)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島、小島とつないで
天正10年(1582)前後と慶長元年(1596)の頃偉容を整えたといわれる。
城は海に向かって舟入を開き城郭兼軍港としての機能を備えた多城で満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えることから浮城とも呼ばれた。
小早川氏のあと福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが沼田川の堆積作用などを理由に変更され建物、樹木などが競売に付された。
その後鉄道が本丸を貫き明治27年(1894)には三原駅が開業した。
今では市街化が進み天守台とそれを巡る濠、船入跡、輸入櫓跡及び本丸中門跡を残すのみである。(案内板より)

昨日は雨のため廻れなかったので「三原八幡宮」まで戻り街道歩き再開です。
三原八幡宮は、永正7年(1510年)に比大神・応神天皇・神功皇后をまつり、西町・西野村一帯の総氏神として建てられたと伝えられておりますが、
天正3年(1575年)小早川隆景によってこの地に移され、浅野時代、この南側に広がっている宮沖新開築造の際に新田が寄進されています。
  
近くには「西之宮一里塚」や「西惣門跡」があります。

順勝寺山門
 
三原城内にあった御作事奉行所門を明治10年(1877)順勝寺に移したもの。
築城当時の建築物が当時の状況を保存して現存するものは非常に少なく貴重な遺構で永禄から天正年間(1558~72)の作と推定される。

宗光寺山門 宗光寺塔婆
 
宗光寺山門は、小早川隆景が新高山城から移築したとされるが規模、細部意匠などから福島氏が現在地に新築した可能性が高い。
宗光寺塔婆は高さ250,3cm 花崗岩製
相輪を欠失しているほかは各部を完備しているが背面が火に罹ったため基礎や塔身の剥離がひどく相輪がそろっていれば総高300cmの十尺塔であろう。
年代は鎌倉後期の永仁(1293~99)ごろで大工心阿の作。 (以上案内板より)

三原の街道を歩くと昔ながらの家が立ち並んでいる。現役のお医者さんの家だったり、もう営業されていないかもしれないが乳母車屋さんなどがあります。
 


開明橋跡、東大手門跡を通り再び三原城跡へ。
 

和久原川の差し掛かると橋の手前に「和久原川水刎(みずばね)」という案内板が・・・・・
水刎(みずばね)という言葉は聞いたことがなかったので覗いてみると
 
川岸から川中に向けて三角形に石垣を築き出して川の流れを弱める役と流れの方向を変えて三原城の東築出の用地を確保するために造られた石垣と考えられています。

橋を渡って右側に「三原宿本陣跡」(山科屋)があります。そのすぐ近くには日本画の巨匠、横山大観が愛飲したお酒「酔心 山根本店」です。
 

更に先に進むと左側に三重塔が建っています。「松寿寺」です。松寿寺は「三原に寺は数々あれど古きが一の松寿寺」と童歌に歌われた通り三原城築城以前の
貞治元年(1365)に創立された。寺の中に入ってみますが三重塔には行けずやむなく引き返しました。
童歌の通りこの辺りも専福寺、観音寺、極楽寺、浄楽寺と三原はお寺の数が多い町です。
 

新幹線のガードの手前に小さな祠があります。覗いてみますと「大神宮」と書いてあります。
この神社、伊勢神宮を祀っています。小早川家は伊勢神宮を信仰した家で伊勢から村上太夫という御師が来ていました。
毎年2月中旬に行われる「神明祭」は日本一のダルマが奉納されます。(ダルマの写真は三原市観光協会HPより)
 

新幹線のガードを潜りしばらく歩くと「糸崎」の町に出ました。
私事ではありますがこの街道歩き初めのころは博多から電車で山口に来ていました。その時乗った電車が「糸崎行」でした。
糸崎駅は明治25年(1892)山陽鉄道延伸に伴い「三原駅」として開業。その後広島まで伸び、三原市街地に「三原駅」が開業されたため、糸崎駅に変更された。

糸崎駅の付近を歩くとやたら「お地蔵様」が多い。
 

糸碕(いとざき)神社」に着きました。この神社の「さき」は石偏のさき(碕)」です。
糸碕神社は、天正元年(729)神功皇后が西行のみぎり船をこの地に寄せられたとき水を献じたという事によってこの水を「御調井(みつぎい)」といい
のちに長井浦、または井戸崎(糸崎)というようになったという。
 

糸碕神社の神門は三原城内にあった侍屋敷門の一つで明治8年に旧浅野家奉行 生駒氏より寄進されたものです。
 

御調井
 

糸碕神社のクスノキ
NHK街道てくてく旅でシンクロの原田早穂さんも立ち寄られた場所です。
幹回り約13m、高さ20mの大きな楠です。三原市の天然記念物に指定されています。
 


糸碕神社を出て2号線と合流する所に「六本松 一里塚」が建っています。


ここからしばらくは2号線沿いを歩きます。左側には山陽本線そして右側には瀬戸内海です。
今回の街道歩きは険しい峠が多かったので海を見ると気持ちが和んできます。



街道は木原の町に入ってきました。
  
「鉢ヶ峯 虚空蔵」


更に進むと大人峠に入ります。
面白いことに右側は尾道市福地、左側が三原市木原でこの道路が市の境界となっています。
  
大人峠の先の橋梁を右折すると尾道市吉和の町に入ってきます。
 

古い家などを見ているととても落ち着いた街並みです。

街道は日比崎小学校のグラウンド横を通ります。前方を見ると山の上にお城が・・・・・
 
市内には戦国期の城跡はあるが、隣りの福山市の福山城天守(戦災で焼失、昭和41年復元)の影響を受け、昭和39年(1964年)に尾道商工会が観光事業の一環として外観の一部を弘前城天守に模した施設「全国城の博物館尾道城」を建設した。建築は鉄筋コンクリートの三層三階、望楼型の体裁を取っている。尾道駅の北側の丘陵上に立地し、目立つこともあり尾道市のシンボル的な存在ともなったが、歴史的な背景が全くないためにむしろ景観を汚すものであるという意見もあり、建築当初から厳しい論争にさらされた。現在は廃城になっている。(Wikipediaより)

日比崎小学校の坂を超えると大型カメラ屋、ショッピングセンターがあり、その先を右折すると尾道の酒「寿齢」の吉源酒蔵所があります。
安政元年(1854)の創業です。
 
吉源酒造所の先を左折すると尾道駅北口です。

その先の踏切を渡ると「林芙美子像」が建っています。

「海が見える 海が見えた 五年ぶりに見る尾道の海は懐かしい。」彼女のベストセラー「放浪記」の一説です。
彼女は幼年期時代この尾道で過ごしました。
商店街の一角には「芙美子記念館」もあります。
 

奉行所跡
 

尾道は寺の町です。ここから千光寺に行けますが、千光寺に行くにはあの急な坂を上っていかなくてはいけません。
今日はもうスタミナ切れで次回登ることにします。
 

本陣跡


一応ここで今回の街道歩きを終了します。次回はここから始めることにします。

広島駅では台風の影響で新幹線が大幅に遅れていました。


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私事ではありますが、尾道に行くとどうしても行きたい所があります。
何年か前初めて尾道を訪れたときある方に紹介していただいた「尾道焼」。
この商店街の終点の所にその店があります。
店に入りますと相変わらずの行列。だいたい一時間待ちかな?現在時計は2時を指しています。
予想通り約1時間待って私たちの番になりました。


4回目の来店ですが、いつ食べてもおいしいです。

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