よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「筑後川河川敷を散策(篠山城址)」(福岡県久留米市)

2024-09-28 19:41:01 | ふくおかウォーキング協会

9/25(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「筑後川河川敷を散策(篠山城址)」でした。

集合場所は、JR久留米駅。参加者は、26名。

 

コースマップ

9:30 JR久留米駅をスタート

 

先ずは水天宮へ。真下には、筑後川

 

 

久留米城址(篠山神社)

江戸時代の久留米藩、約250年間を治めた有馬氏の居城跡で、その昔は笹原城の名で呼ばれていました。
今は平山城づくりの本丸跡が残され、見事な石垣や正面側の内濠に往時の雄姿をしのぶことができます。
また城内には藩祖豊氏を祀る篠山神社や歴代藩主の武具、工芸品などの有馬家資料を中心とした久留米藩政資料を主に展示する有馬記念館があります。
久留米城は、筑後川沿いの小高い山に築かれた平山城で、天正15年、豊臣秀吉の「九州国割」により、毛利秀包が入城しました。
これが近世大名の居城としての始まりです。 慶長6(1601)年、田中吉政が関ヶ原の戦いの功績で毛利家の後をうけ、筑後一国の大名となり、久留米城には二男則政が藩主となりました。
元和7(1621)年、有馬豊氏が田中家の断絶をうけて筑後五郡の大名となり、久留米城は幕末まで治世の中心となりました。
豊氏は入国間もなく久留米城の大改修を行いました。
毛利・田中代には東面していた大手を南面に作り替え、その前面に二ノ丸・三ノ丸・外郭を南北に配置した連輪式の構造をもつ城を建設しています。 大まかな範囲を示すと東限は久留米市役所北側付近、この地区に城郭と城下町を区切る外濠が走り、南限は裁判所裏手の森と溝です。 昭和58年3月19日県指定文化財となっています。 春には、見事な石垣とお濠の落ち着いたたたずまいに約49本の桜が彩りを添え、小高い城跡一帯が淡い桃色に染まります。(久留米の観光スポットより)

 

その久留米城跡に建てられたのが「篠山神社」です。

1877年(明治10年)に本丸御殿跡地に旧藩士・領民によって有馬家への追慕・感謝のために篠山神社が建立され、現在も篠山神社の神殿・拝殿が置かれています。

 

 

篠山神社で休憩し再スタート

久留米大学医学部です。病院の屋上には、ドクターヘリが待機しています。

 

 

くるめウスでトイレ休憩。休憩後百年公園に向かいます。

 

 

中央公園は、4月に行われる「くるめツツジマーチ」の会場です。

 

12:00 西鉄久留米にゴールしました。

今日のGPSです。

 

 

 

 

 


サタデーウォーク「宝満川上流を散策(彼岸花)」(福岡県筑紫野市)

2024-09-24 17:37:37 | ふくおかウォーキング協会

9/21(土)ふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、「宝満川上流を散策(彼岸花)」でした。

集合場所は、西鉄太宰府駅。大宰府は、この夏、62日間猛暑日の日本記録を記録しており、一躍「暑い街」に名乗りをあげました。

「暑さ寒さも彼岸まで」ということわざがありますが、この記録いつまで続くやら・・・

ただ、今日は朝から曇っており、昼から雨の予想。今日は猛暑日はなさそうです。

参加者は、26人。

 

今日のコース

九州国立博物館

 

筑紫女学園大学

 

西吉木公民館でトイレ休憩

休憩後再スタート。宝満川に向かいます。

 

吉木橋を渡ると、平年は、一面に彼岸花が広がっているのですが・・・・・

 

今年は、暑かったせいか、どうも彼岸花の咲き方が遅い気がします。まだ蕾が多い。

 

 

 

御笠運動場でトイレ休憩

御笠運動場には、万葉歌碑があります。

「月夜よし 河音さやけしい いざここに 行くも去かぬも 遊びてゆがむ」

大宰府の防備にあたっていた大伴四綱の作。

太宰府の長官だった大伴旅人が大納言に昇進して奈良の都へ帰る際に別々の宴で詠まれた歌の一つです。

宴の舞台となった蘆城駅家と推定される遺跡は、今も田の下に残されています。(説明文より)

 

コースは県道53号線に合流します。

 

宝満山

 

 

筑紫野市カミーリヤで休憩

 

休憩後再スタート。

12:10 西鉄筑紫駅へゴールしました。ゴールした後すぐ雨が降ってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


楽しいウォーク「秋の西陵地区と十郎川沿い(野方遺跡)を歩く(福岡市西区)

2024-09-23 05:35:37 | ふくおかウォーキング協会

9/18(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「秋の西陵地区と十郎川沿いを歩く」でした。

「暑さ寒さも彼岸まで」という諺がありますが、福岡地方ここのところ連日気温が36度超えで秋どころかまだまだ残暑です。

集合場所は、下山門駅から100mぐらいの壱岐神社。参加者は、37名でした。

9:30 スタート

生の松原の中を歩きます。この時期のウォーキングには、日陰がありがたいです。

 

斜ヶ浦池公園で休憩

斜ヶ浦池公園は、昔の農業用ため池を整備して公園として利用されています。また、平安時代の瓦窯跡があり、鴻臚館の瓦を焼いたといわれています。

 

 

この一帯、1960年代に生の松原ゴルフ場が建設されましたが、平成4年(1992)閉鎖になり、跡地には、住宅地が開発されました。

ビックモーターでは、社名の書き換えが行われています。新しい社名は「WECARS」。

3Rステーションで休憩。

 

休憩後再スタート

 

 

野方遺跡公園で休憩。この暑さだと、休憩回数が増えてきます。

野方遺跡は、 弥生時代後期から古墳時代前期にかけての集落跡です。
住居、倉庫、墳墓、環濠などの遺構が確認され、大小二つの環濠からは、土器、石器、鉄器に交じって、サメ、タイなどの魚や鳥、動物の骨や貝類などが出土しています。大きい環濠は

直径約100mの楕円形で住居跡があり、小さい環濠は一辺約30mの四角形で高床式建物跡が2棟で、倉庫として食料を保存していたと思われます。墳墓には、銅鏡、勾玉、管玉、刀子などを副葬した墓があり、この辺り一帯に王国があったと考えられています。
現在は史跡公園として整備され、園内の住居跡展示館では発掘された状態で保存された竪穴式住居や土器、生活用品などを見ることができます。

休憩後再々スタート。十郎川沿いを歩きます。

 

 

ゴールの姪浜駅が見えてきました。12:00 姪浜駅にゴールしました。

今日も暑いウォークでした。今日のGPSです。

 

 

 

 

 


楽しいウォーク「博多三大祭り 放生会(ほうじょうや)ウォーク(福岡市博多区)

2024-09-17 11:58:27 | ふくおかウォーキング協会

9/11(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「博多三大祭り 放生会(ほうじょうや)ウォーク」でした。

残念ながら、筥崎宮放生会は、9/12~9/18までで9/11はまだ始まっていません。

筥崎宮の放生会とは、

年9月12日から18日までの7日間、本殿から海に向かって真っ直ぐのびる約1kmの参道の両脇には500軒を超える露店が立ち並び、圧巻の光景を築く九州随一の秋祭り、放生会(ほうじょうや)。

あらゆる生き物の霊を慰め、感謝の気持ちを捧げるとともに、さらなる商売繁盛、家内安全を祈る筥崎宮の1100年以上続く神事を起源にもち、春の博多どんたく、夏の博多祇園山笠と並ぶ福岡の

三大祭りに数えられます。祭り屋台の定番、りんご飴やイカ焼きなどの食べ物に加え、金魚すくいや射的など娯楽屋台も充実しているのが、放生会の露天の特徴。お化け屋敷や見世物小屋など、

他ではほとんど見られなくなったレトロな雰囲気漂う、もはや名物的存在の露店も出店します。また、昔は近隣に生姜畑が広がっていたことから、筥崎宮を参拝した際には「新生姜」を土産に

持ち帰った名残で、放生会では緑の葉がついたままの新生姜も販売されています。(FUKUOKA NOWより)

他地区では、放生会を「ほうじょうえ」と呼びますが、ここ博多筥崎宮では、「ほうじょうや」と呼んでいます。

集合場所は、千早駅。

 

今日のマップ

 

9:30スタート

 

流通センターへ

 

 

 

宇美川を通り、箱崎へ。箱崎駅で仮ゴール。数名の方がこのあと筥崎宮に向かいましたが、放生会前の為露店も準備中でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

9/16(月)改めて個人で放生会に行きました。

 

参道には、露店が約500店出店しています。先ずは、筥崎宮に参拝。

本殿には、お詣りする人の長い行列です。

 

 

放生会は大分県宇佐市にある、八幡宮総本宮の宇佐神宮で720年に初めて行われました。
起源は、同年に起きた「隼人の反乱(はやとのはんらん)」に由来します。朝廷軍と共に八幡神が反乱を鎮圧して以降、宇佐に疫病や凶作などが続き、隼人の霊の祟りだと信じられていました。

その霊を慰めるために、仏教の殺生戒に基づいて、生き物(蜷貝)を放って供養する放生会(ほうじょうえ)がはじまり、全国各地に広まったと言われています。
福岡では、古くから神聖な場所であるとされていた現在の筥崎宮の場所で、919年から行われるようになったとか。

 

さて、博多の人ならこの放生会の時に「梨も柿も放生会」という言葉が浮かんできます。

文字通り、この放生会の頃から梨や柿が出回り美味しくなる意味ですが、明治の頃、子供たちが言い争いになって「なしや なしや」(どうしてどうして)と問い詰められたときに

「ナーシもカーキも放生会」といってスルリと逃げたそうです。また、博多のごりょんさん(商家の奥様)が朝から掃除やら洗濯やらお客さんが来たりして ようやく一息ついた時、

「あ~あ今日は梨も柿も放生会のごとあった」

このように盆と正月が一緒に来るという言い方もあります。(博多に強くなろうより)

 

放生会が終わると、博多に本格的な「秋」が訪れます。

 

 

 

 


9月例会「赤米田んぼアート」観賞ウォーク(福岡県糸島市二丈町吉井)

2024-09-15 18:18:28 | ふくおかウォーキング協会

9/14(土) ふくおかウォーキング協会9月例会は、福岡県糸島市の「赤米田んぼアート」観賞ウォークでした。

当協会の9月の例会は、3年前からこの赤米田んぼアートを行っております。

昨年と違った点は、JR九州が春のダイヤ改正で福吉駅着の電車が9時台は、9時50分着です。昨年は、9時半までに着く電車があったのですが、今年は減便になっています。

集合場所は、JR九州筑肥線の福吉駅。参加者は32名。

今日のマップ

  

スタート前のミーティング

9:30スタート

 

 

白山宮

 

 

円通寺址と吉井岳城

この辺りは、「福吉」という地名です。昔、福井村と吉井村が合併し、それぞれの「福」と「吉」をとって福吉となりました。

昭和の時代だったか、鉄道の切符がブームになったことがあります。福吉駅の一つ前の駅が「大入(だいにゅう)」です。

ここでも「大入→福吉」(おおいり~ふくよし)が縁起のいい切符として有名になりました。

赤米の高台に登ると、「小呂島(おろのしま)」が見えます。この島は、福岡市の一番北の島です。西区姪浜から定期船が運行しています。

 

今年の赤米田んぼアートは、「おむすび食べて めざせ百しょう」です。

今年の福岡ソフトバンクホークスは、田植え頃快進撃を続けており、この状態だったら百勝も夢ではないから「百しょう」、また、農家の「百しょう」をも掛けています。

何せ広い田んぼですのでデジカメのパノラマで撮っても全部入りません。

 

 

直売所では、搗き立ての赤米の餅が販売されていました。餡餅みたいでしたけど普通の餅でした。

 

まむしの湯で休憩。

ここでは、今日のリーダーさんが、まむしの湯天然アルカリイオン水を用意されました。喉が渇いていたので美味しかったです。

休憩後再スタート

 

所々で彼岸花も咲きだしました。

 

コースは、吉井浜へ。

今日は天気も良く、海は波も穏やかでホント気持ちいいです。

以前のブログでも紹介しましたが、大正12年(1917)旧制佐賀高校(現佐賀大学)の水泳部の合宿が吉井町で行われました。

水泳部員の吉原正俊さんが、吉井浜の美しさと福吉の人々の温かさ・優しさに感動して作詞、同じく水泳部員の山口正之さんが作曲しました。

現在の80代以上のお年寄り達にとっては、若き日にみんなで口ずさんだ「青春の歌」。 しかし近年、徐々に歌う機会が減り、その存在が忘れられていきました。 そんななか、平成10年、

歌の存在を知った当時福吉中学校音楽教諭だった坂本美紀子先生が、「地域の歌を大事に歌い継ごう」と発案。 生徒たちは、地域や旧制佐賀高などのゆかりの人々に接して歌のルーツを

調べるなど精力的に活動するなかで、人々の熱い思いに触れ、「自分たちが、この歌を後世に伝えよう」との強い信念と責任感を抱きました。 この若き純粋な思いと情熱的な志に地域が共鳴。

平成16年、生徒たちの活動を地域が支援する「吉井浜思ひ出の歌」愛する会が発足し、歌碑の建立、福吉駅でのメロディ放送など、地元所縁の歌をとおした文化交流が広がりました。(福吉中HP)

 

パノラマで撮りました。

記念写真です。

ボニージャックスの吉井浜思ひ出の歌 (youtube.com) 

 

このしおさい公園の中にも歌碑があります。

二丈コミュニティセンターには、昭和20~30年ごろの吉井町の地図があります。

見てみると、映画館・劇場・旅館などがあり、多くの人が住んでいたみたいです。また、漁港の関係で人の出入りも多かったのかな?

12時 JR福吉駅にゴールしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第12回大阿蘇元気ウォーク1日目10km(熊本県阿蘇市)

2024-09-10 18:32:46 | ウォーキング

9/7(土)は、熊本県阿蘇市で行われた「第12回大阿蘇元気ウォーク」に参加しました。

福岡の自宅を4時半に出発し、阿蘇市には、7時20分に到着しました。

私、この大会3回目の参加です。

8:10から出発式。佐藤阿蘇市長から、歌とエールをいただきました。(佐藤市長は、成人式で新成人に持ち歌を披露するので有名です)

 

 

8:35 20kmコーススタート。私は、20kmでエントリーしていますが、日ごろ20kmは歩いてなくまたこの暑さ、一応歩けるところまで歩こうとスタートしました。

阿蘇市を歩いていると「水基巡りの道」というのがあり、いろんなところから湧水があります。

「九州の水がめ、阿蘇」。高岳の麓に位置する阿蘇神社、その境内から湧く「神の泉」は不老長寿の水と崇められている。
 門前町商店街では同じ伏流水が湧いており、古くから地元の人はその豊かな水を生活に利用してきた。この美しい水を観光客にも味わってもらいたいと、町づくりの一環として「水基」と呼ぶ水飲み場を設置しその数は現在28箇所になる。観光客はそれぞれの水で喉を潤しながら散策する「水基巡り」を楽しむ。まさに自然と町づくりがうまく融合した姿と言える。(熊本県観光スポットより)

 

阿蘇山は、朝靄に覆われています。

 

 

コースは、馬場八幡宮へ

 

馬場八幡宮は、由緒の正確な記録はないが八幡宮は古来、源家の氏神として尊崇せられていた神であるので源平の争乱の頃源家の流れを汲む鎮西八郎為朝がこの地に城を築き居住した記録が

残されている(肥後国誌)ことを考慮すると、為朝が鎮守社とした(1151)と推察しても不自然ではない。約860年前の事である。
石灯篭の古いものに享保14年(1730)の刻銘が残っている。後世阿蘇三宮より八宮まで六座の神が併祀されている。これは阿蘇開拓の祖神を尊び合祀されたものと思われるが年代は不詳である。
明治6年(1874)白川県(熊本県)より当社を第266区の郷社として指定を受けている。
明治27年(1894)に旧坂梨村の村社となった。

ここで少し休憩します。

 

休憩後再スタート。コースは豊後街道「坂梨宿」へ

 

豊後街道は、熊本市新町1丁目御門前「札の辻」を起点とし、大分市鶴崎に至る全長31里(124km)に及ぶ参勤交代路です。
坂梨町はこの「札の辻」から東へ13里(52km)に位置します。
天正16年(1588)熊本城に入り、のちに肥後一国の藩主となった加藤清正はこの街道を「鶴崎路」と称し豊後の国「鶴崎港」から瀬戸内海を経て、大阪、江戸に参勤しました。
清正は肥後4大街道(豊前、豊後、薩摩、日向)のうちこの鶴崎路を最も重要視して道路の確保、保全に万全を期したといわれています。
寛永9年(1632)加藤氏のあと藩主となった細川忠利もこの道路に大きな関心を寄せ改良整備に力を入れました。
寛永12年、徳川幕府が定めた「武家諸法度」により参勤交代が法制化された為、忠利以降の藩主も更に道路の整備改良維持に意をそそぎ、江戸への参勤、熊本への下国と街道を利用しました。
また、街道のこうした整備保護により庶民の旅の世界が拡大され商取引が盛んになり寺社参詣が流行し、単に参勤路としてでなく産業、信仰の道としても大きく発展していきました。
坂梨の町はこうした時代背景の中で豊後の国境にも近く野尻日向往還、南郷矢部に至る火野尾峠越えの交通の接点となり宿場町として栄えました。
交通の要衝としてだけではなく行政、経済、文化の中心地として、細川藩独特の手永政治の坂梨手永会所(役所)や、女性の出入りには特にきびしかった街道の坂梨番所には女改の部屋があったと伝えられています。
藩主が参勤、下国の時、宿泊休憩をされる坂梨御茶屋を始め、旅人宿、酒造業、呉服、雑貨、問屋、薬屋、医者、諸儲けなど屋号持ちの店が軒を連ね大変な賑わいであったといわれています。
参勤交代制度は藩主を始め多数の共侍、沿道の住民それぞれに大きな労苦と負担をあたえましたが、文化伝達の極めて困難な時代に阿蘇地方の文化発展に多大の貢献と影響をもたらしました。
毎年藩主の参勤、下国は数百千の共侍の上がり下がりの移動により江戸、京都、大阪や瀬戸内の文化、風俗ならびに産業、殖産を伝え中央政治の一緊一緩をも知ることができました。
旅人の往来もさかんで、その中には日本初の実測地図を作成した伊能忠敬、勤王の志士高山彦九郎、儒者で詩人の頼山陽、藩校時習館教授高本紫溟など多くの文人も訪れ歌や漢詩を残しています。
街道には坂梨手永会所跡、霊台橋で有名な石工卯助が架けたアーチ型の天神橋、木喰上人作子安観音像などの文化財、藩主の避難場所円通寺や浄土寺、浄行寺、妙法寺、馬場八幡宮などの

寺社もみられます。「大阪に坂なく、坂梨に坂あり」の里言で名高い滝室坂は街道一の難所として坂梨町の東端から高低差200m、全長3kmの峻坂ですべて石畳でした。頂の坂の上から

笹倉へと通じています。街道の周辺には阿蘇谷の七鼻八石の内、妻子ヶ鼻、卯の鼻、箱石、いぼ石や古閑の滝など自然の景観にも恵まれています。
大政奉還により明治維新となり参勤交代制度が廃止され明治、大正、昭和、平成と時代は移りましたが坂梨の町並みは歴史の道「豊後街道」の宿場町として今も往時の面影とたたずまいを

色こく残しています。(ASO Pediaより引用)

 

坂梨宿には、高山彦九郎・・・尊王思想家 「寛政4年(1792年)7月滞在

      伊能忠敬・・・・「文化7年(1810年)12月内牧から小池野まで測量

      勝海舟・坂本龍馬・・・文久4年(1864年) などの方が宿泊されています。

坂梨公民館がチェックポイント

 

チェックポイントでは、キュウリの醤油漬けや辛子漬けが振舞われました。

 

坂梨公民館の横には、豊後街道の説明板が掲示されています。

私ももう15年ほど前でしょうか、大津宿から内牧まで歩いたことがあります。雨が降っていましたので石畳が滑りやすくゆっくりゆっくり歩いた記憶があります。

いつか、内牧から豊後鶴崎まで歩いてみたいと思っていますが、もう歳のせいかなかなか行動に移すことができません。

歩いていると「めがね橋」があります。近くに天神社があるので「天神橋」とも呼ばれています。1847年種山石工(現東陽町)の夘助が建てたといわれています。

 

歩いているとコスモスが咲きだし、また栗の木には栗の実が熟しています。まだまだ暑いけど秋はそこまで来ているのですね。

 

 

なだらかな坂道を登ると10k、20kの分岐点です。

 

暑いので20kをあきらめ10kmコースの方に行きます。

運動公園で少し休憩し再スタート。

JR宮地駅を通過

 

ゴールまであと少し。

 

 

11:00 ゴールしました。

 

ゴール後の楽しみは、「かき氷」です。

 

今日のGPS

明日の2日目は暑いのでパスします。

帰り道、久しぶりに(20年ぶりかな?)「あそ路」に行って「たかな飯」「だご汁」をいただきました。

 

 

 

 


やさしいウォーク「東福間より千鳥ヶ池を経て千鳥駅へ」(福岡県福津市~古賀市)

2024-09-08 13:39:15 | ふくおかウォーキング協会

9/5(木)ふくおかウォーキング協会やさしいウォークは、「東福間より千鳥ヶ池を経て千鳥駅へ」でした。

集合場所は、JR東福間駅、参加者24名。

今日のコースマップ

 

9:30スタート

 

通堂高架橋を通ります。

3号線高架下で休憩。今日も暑い日になりそうです。日陰はありがたいです。

 

休憩後再スタート

 

水光会ウェルネスセンターでトイレ休憩

 

イオンモール福津を通ります。この辺りは、新しい住宅が建ち並んでいます。

 

このあたりが、福津市と古賀市の市境。コースは古賀市に入ります。

 

千鳥ヶ池公園で休憩

千鳥ヶ池公園は、都市公園として整備されており、池の周囲を遊歩道で散策することができます。公園内には、野球場・テニスコートがあります。

千鳥ヶ池で検索していると、千鳥ヶ池の伝説がありました。(いくつかの伝説がありましたがそのうちの一つ)

昔、この池の畔に一軒のささやかな家を構えて、仲睦まじく暮らす若夫婦が住んでいた。
その妻は、神興村字冠(旧福間町)から嫁いで来た者(今、同所に「千鳥様」という祠がある。)で名前を千鳥という。

弁天様の生まれ替わりかとも思われる程の美人といわれる何に一つ非の打ち処のない千鳥は、夫に対して、外から帰って来る時には、必ず咳払いをして家に入ってくれと熱心に願った。

夫も初めのうちは妻の言うままに「えへん」と咳をして帰宅していたが、月日が経つにつれて、妻が熱心に咳払いを求めることを不審に思うようになった。

ある日、夫は外出先から帰ると、日頃の不審を晴らそうと、足音を偲ばせて家に近づき、戸の隙間から中を覗いてみた。

すると、最愛の妻は蛇身となって、焔のような赤い舌でぺろぺろ髪を舐めながら容姿を整えている最中だった。

この様子を見た夫は、気も動転する程驚いたが、やがて気を取り直し、素知らぬように咳をして家へ入った。

夫の唯ならぬ顔色や素振りに素性を知られた事を悟った妻は、夫の留守中に家を倒し屋根を破って側の池に投身し池の主になった。

それからこの池を「千鳥ケ池」と呼ぶようになり、以来幾百年この池に身投げしても不思議に助かるということである。

また、もしこの池を干すと、池の主は自分の姿を見せまいと、必ず大雨を降らすと言われている。(古賀すたいるより引用)

 

11:35 千鳥駅にゴール。距離は約7kmでした。

 


楽しいウォーク「鞍手路 歴史と特産物を満喫」(福岡県鞍手郡鞍手町)

2024-09-06 19:48:18 | ふくおかウォーキング協会

9/4(水) ふくおかウォーキング協会は、7月中旬から8月末まで長い夏休みが終え、9月4日の楽しいウォークから再開しました。

夏休み期間中の「酷暑」から9月になると幾分朝晩が過ごしやすくなりましたが、日中はまだ33度ぐらいの暑さです。

夏休み明けの楽しいウォークは、「鞍手路 歴史と特産物を満喫」です。

集合場所は、JR鞍手駅。参加者は26名。

 

私、鞍手町は、車で何回か通ったことがありますが、歩くのは初めてです。

くらて」の発祥については諸説がありますが、伊藤常足の太宰管内誌に日本書紀を引用した鞍手の地名考があり、それによりますと欽明天皇の時、百済を救援に行った筑紫国造が強弓の使い手で、敵の騎馬兵の鞍の骨を射抜くほどであった。その働きにより敵の包囲から脱れた百済の威徳王がその功を称えて鞍橋君の尊称をおくった。鞍橋は矩羅膩(くらじ)と読んで鞍骨のことで、この「くらじ」が訛って「くらで」というようになった、と記されています。長谷の飯盛山にその鞍橋君を祀る鞍橋神社があり、土地の人は「くらじさん」と言っています。(鞍手町HPより)

鞍手町には、国指定重要文化財の「木造十一面観音立像」があります。

大和国(奈良県)長谷寺の僧万賀が背負ってこの地へ至り、堂宇を建てたのが始まりと伝承される。像高187cmの樟を材とする一木造の立像。面長な顔は、伏目で切れ上がった彫眼、くの字に

連なる両眉、鼻筋高く小鼻は張って独特の厳しさを感じさせる。肩から流れる条帛は細くしまった腰部をつつみ、天衣はふくらみを持って垂下している。下半身をつつむ裳は、折り返し部に

巻葉渦文・漣波状に流れる衣文等、平安期独特の様式も見られる。樟の一枚板の挙身光背は彩色で八葉花文や雲気文を描く珍しいものである。(福岡県の文化財より)

今日のコース。9時半スタート

 

鞍手駅から遠賀川に向かいます。

 

河川道を通ります。

 

途中が、直方市との市境。

 

新幹線高架沿いに歩きます。野上養鶏場が運営している「縁屋」で休憩。

 

ここには、「味宝卵」(みほうらん)といってブランドの卵があります。ブランド卵だけにお値段も一級品です。

味宝卵|野上養鶏場 (mihouran.jp)

 

高速のガードを通り分岐点に来ました。

左に行くと「中山不動尊」、右に行くとゴールの鞍手駅。

中山不動尊は、正式名称を「木造不動明王及二童子像」といいます。明治36年高村光雲によって認められた本尊の由来は不明ですが、神仏習合の信仰による、八剣神社との関連が考えられます。

平安時代後期の作と思われる本尊は、虫害や損傷などで痛ましく朽ちて歴史の流れを感じさせますが、力強い怒りの形相(ぎょうそう)に堂々とした迫力があります。両脇の二童子は優雅な曲線の

造形で、本尊と三位一体の調和の美しさがあります。(鞍手町HPより)

 

久しぶりのウォークですので私は、鞍手駅の方を選択しました。

 

11:55 鞍手駅にゴール

今日のGPS