よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く(須磨~三ノ宮)35日目

2014-04-14 11:19:55 | 山陽道(西国街道)を歩く

4/06 JR三ノ宮駅から昨日のゴール須磨駅へ。JR須磨駅8:17到着。

昨日は山陽電鉄で帰ったのですが、運賃は@330。これに対しJRは@180 距離にもよりますが運賃があまりにも違いすぎます。

さて、今日も街道を歩きます。2号線を千守の信号に向かっていくと左側に「村上帝社」があります。

平安期の末期、太政大臣藤原師長は、琵琶の名人だったが、さらに奥義を極めたいと入唐の忠をもってこの須磨の地にきました。

ところが村上天皇と梨壺御女の神霊が現れ琵琶の奥義を伝えたので入唐を思いとどまり帰京した。

一説に龍宮から師長に捧げた琵琶の明記を埋めた所であると伝えられている。

街道は、千守の信号から斜め左に行かなくてはならなかったが、道を間違え「綱敷天満宮」まで来てしまいました。

綱敷天満宮は、大宰府へ左遷された菅原道真が風波を避けて須磨に上陸した時、美しい松の木の下に地元の漁師たちが作った漁網の大綱を巻いた円座で休息された。

道真の死後、このことに因んで創建された。須磨の天神さんとも呼ばれている。春には境内の梅林で綺麗な梅が咲く。

   

天満宮を見て、「千守」の信号まで戻ります。山陽電鉄のガードを潜り、「現光寺」に着きました。

「現光寺」は源氏物語の主人公光源氏の住居跡と伝えられ、昔は「源氏寺」と呼ばれていた。境内には、松尾芭蕉や正岡子規の句碑がある。寺の近くには、「藩架(ませがき)」とかヤグラという

字名が残されたことにより、古代の須磨の関跡とも言われている。

   

街道へ戻ります。山陽電鉄「須磨寺駅」には、「平 重衡(しげひら)とらわれの松跡」があります。

「平重衡」(平清盛の五男)は、生田の森の副将軍だったが、敗走の途中追われて、味方の船にも乗れず、馬も失い、自害を覚悟しようとしたところ、此の地で捕まった。

源氏の捕虜となり、土地の人が哀れに思い名物の濁り酒をすすめたところ、重衡はたいそう喜んで「ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁り酒なれ」の句を詠んだ。

のち、鎌倉へ送られ処刑された。

  

ここで街道から離れ「須磨寺」へ寄り道します。

須磨寺は、福祥寺が正式な名称です。真言宗須磨寺派の大本山。和田岬の海中から引き上げられ会下山の寺に祀られていた「聖観音像」が仁和2年(886)現在の場所に

祀ったのが始まりです。それよりも源平ゆかりの寺として有名です。ちょうど桜が満開でした。

  

   

境内には、源平合戦のものが祀られています。「源平の庭」では、平敦盛と熊谷次郎直実 戦いの場面が再現されていました。

  

本堂に行くと、「敦盛首洗い池」や「源義経腰掛の松」「敦盛首塚」などがあります。

  

一の谷の戦いで悲哀として歌われているのが「青葉の笛」。

一番は、平 敦盛のこと。二番は、平 忠度のことです。

      一   一の谷の軍(いくさ)破れ  討たれし平家の  公達あわれ

          暁寒き  須磨の嵐に 聞こえしはこれか  青葉の笛

 

     二    更くる夜半に  門を敲(たた)き  我が師に託せし 言の葉あわれ

          今わの際まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは 「花や今宵」の歌    

一、  平敦盛は、清盛の弟経盛の末子。

 一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が

「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、

我が子直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、

敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。

首をとって身分を調べると兜の裏から出てきたのが「小枝」という笛。夜毎嵐のように聞こえていた笛の音は、この方のものだったのか!!

その時、直実は世の儚さを怨み敦盛の菩提を弔うため出家した。(一部ウィキペディアより引用)

二、 平忠度は平忠盛の六男。

歌人としても優れており藤原俊成に師事した。平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き、門を敲いて師匠に面会を求め、自分の歌が百余首おさめられた巻物を俊成に託した。

『千載和歌集』に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している。

『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集。なお、『新勅撰和歌集』以後は晴れて薩摩守忠度として掲載されている。

源頼朝討伐の富士川の戦い、源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣。一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。平家物語によると源氏に紛れる作戦をとっていたが、

源氏の多くが付けていないお歯黒を付けていたので見破られて討たれた。その時箙(えびら)に結びつけられたふみを解いてみると、「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれていた。

         行(ゆき)くれて 木(こ)の下かげをやどとせば 花や今宵のあるじならまし

千載和歌集に、詠み人知らずとして掲載されている歌は、

         さざ波や 志賀の都は 荒れにし 昔ながらの山桜かな

 

     

この「青葉の笛」は明治39年に尋常小学校の唱歌として教科書に載せられました。

私が学生の頃はこの歌は、教科書には載っていませんでしたが、初めてこの歌を聞いたのは中学の歴史の時間ちょうどこの「一の谷戦い」で

歴史の先生が歌ってくれました。何か悲しい歌で心に浸みこみました。(女の先生だったからかな?)

尚、この「青葉の笛」はこの須磨寺にあるそうです。

 

再び街道に戻ります。

天神町に「菅の井」があります。大宰府へ左遷された菅原道真が須磨で休息されたとき際に、須磨の旧家「前田家」から井戸の水を汲んで差し上げた。

道真公は、たいそう喜び自画像を前田家に与えたそうです。

前田家ではその井戸を「菅の井」と名付けた。その水で銘酒「菅の井」を造り毎年太宰府天満宮に献上したと伝えられています。

  

今日の天気予報では、10時ごろから雨が降り出し、午前中は雨。昼からは上がるとのこと。その雨が降ってきました。

ガード下に行き、Dバックから合羽を取り出します。

妙法寺川にやってきました。ここには川沿いに桜が植えられています。雨でなければお花見の方でいっぱいでしょう。

    

長田区に入りました。

平成7年(1995)1月17日5時46分淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生しました。この長田区では火災が発生し多くの方が亡くなられました。

あれから19年、町を見るとモダンな家が立ち並び、また道路も整備され一見新しい住宅地みたいな感じです。

歩いていると私のDバックの「博多から旧山陽道を京に向けて歩いています」を見て、自転車で来られた70代の男性の方が声をかけてきました。

「僕もリタイアしたら、あなたたちみたいに歩いて全国を廻りたかった・・・・・。しかしあの地震がね・・・・・・いまだに借金を背負っているからそれもできない・・・・でも君たちを見ていると元気が出てきた」

その言葉を聞いた時、何かグッとくるものがありました。定年後の楽しみとして始めたこの「街道歩き」。歩きたくても歩けない方もいらっしゃいます。

生意気な言い方ですが、そういう方に「元気」を与えていればいいのですが・・・・・・・

「元気」といえば、やはりこれでしょう。鉄人28号です。

ビルのまちに ガオー  夜のハイウエーにガオー  ダダダダダーンとたまがくる  バババババーンと破裂する  ビューンと飛んでく鉄人28号

阪神淡路大震災の復興シンボルとして2009年(平成21年)9月30日に完成しました。鉄人28号の高さは15.6mです。自転車の方と比べてください。

 

  

新長田駅に来ると雨が強くなりました。しばし商業施設に入り雨宿りをします。

雨も小降りになった所で再び街道に合流します。

西代の交差点から高架橋の下を通ると左側に「蓮の池跡」があります。

昭和6年まで、ここには「蓮の池」という四町二反(約4ha)の大きな池がありました。奈良時代に周辺の田に農業用水を供給する「ため池」として作られ、僧「行基」が作ったと

言い伝えがあります。池が完成したとき「蓮の花が美しく咲いているという極楽浄土の池のようにこの池にも蓮の花が咲き乱れ、この水で人々が豊かになるように」と願って

行基は一株の蓮の花を池に投げ入れたといわれています。

また、この辺りは西国街道にあたり、南北両側に「大路通」という町名があります。この町名の由来は西国街道だといわれています。

古代(律令時代)には、街道の重要性、利用頻度などから大路、中路、小路に分けられ、そのうち山陽道は唯一大路でした。

山陽道は、道幅が9~12mだったといわれ、西国街道と呼ばれる頃には、幅3~6mぐらいだったそうです。

現在の中央幹線は、道幅50mです。昔ながらの言い方をすれば「超大路」ですね。

    

新湊川を渡ります。今回は、行きませんでしたが、長田神社はこの左の奥にあります。

新湊川橋を渡った所に「平知章之碑」があります。寿永3年(1184)源平一の谷合戦で討ち死にした「平通盛」、源氏の「木村源吾重章」、同じく「猪俣小平太則綱」らの碑が

この西国街道に面してあった。

   

国道28号線一番町交差点が、長田区と兵庫区の区境です。街道はこの交差点から斜め右に入ります。

「兵庫」という地名の意味は、天智天皇の治世に、兵の武器の倉庫(つわものの蔵)があったことが由来。

因みに「神戸」は、生田神社の神戸(かんべ)(神社に所属してその経済を支えた)が由来だそうです。

兵庫駅前を通り、柳原の信号を斜め左に入ると蛭子(ひるこ)神社の北側に「柳原惣門跡」があります。

西国街道を通って兵庫の町に出入りする場所、即ち西の柳原口と東の港口には惣門が設けられました。門前には高札所があり番所が置かれていました。

周辺には旅籠が立ち並び駕籠屋が列をなすほどでした。当時の人口は2万人ほどだったそうです。 

   

兵庫宿」はその昔「福原京」。江戸時代には西宮と大蔵谷(明石)の間の宿場町として賑わいました。神明町には、本陣(井筒屋)があり、その南側には、脇本陣など4軒ありました。

その本陣を探しますが、分らず、街道を歩いた先輩方のブログの写真を見ると確かこの辺りだと思います。

  

本陣跡から少し脇道にそれると能福寺に「兵庫大仏」、「平清盛公墓所」「滝善三郎正信碑」があります。

    

  

平清盛公墓所」は、平清盛が京都で荼毘にふされたときこの寺の住職円実法眼が遺骨を持ち帰り、寺領内に葬りました。

兵庫大仏」は、日本三大大仏(奈良の大仏、鎌倉の大仏)の一つで身丈11m、重量60t、蓮台高3m、台座高4m、総高18mあります。

兵庫開港以来、急速に増えたキリスト教信者に危機感を抱いた仏教徒らが仏教のシンボルと言われる大仏を建立したといわれています。

明治23年(1891)豪商南条荘兵衛の寄進により建立されました。当時の大仏は、座高が8.5m。

昭和19年(1944)太平洋戦争下、金属回収令で国に」供出されましたが、平成3年(1991)再建されました。

滝善三郎正信碑」は、開港間もない神戸で起きた外国との紛争で発足後最初の外交問題で苦境に立たされた明治新政府を救い、

日本が外国に植民化されるのを未然に防いだのが神戸事件の滝善三郎正信の切腹であった。
 慶応4年(1868年)1月11日、三宮神社付近で西宮警備の命を受けた備前藩士の行列を横切った外国人を傷つけたのが発端となり、

衝突が起こり、神戸事件として国際問題になったのである。  備前藩では滝善三郎正信(32歳)を責任者として同年2月9日、各国代表者立ち会いのもと永福寺で

切腹させ事件の解決を図ったとされている。これで一応の解決をみたのであるが、市民は滝善三郎を事件の犠牲者として哀れみ、永福寺に慰霊碑を建てた。

永福寺は、昭和20年の神戸大空襲で焼失したが、昭和44年百回忌にあたり、慰霊碑が能福寺に移された。

   

岡方惣会所」は、

徳川時代、兵庫津の行政機構は全域を三分し、岡方、南浜、北浜とした。 これを三方(みかた)と称し、大阪奉行支配であった。三方には、それぞれ惣会所があり、

名主が総代や年寄などを指揮して行政を行っていた。岡方は浜に接しない町々を含めて総称し、 岡方惣会所をここに設けていた。

札場の辻跡」(又は、高札場)  

幕府の布達等を掲示する場所で、兵庫には、ここ(南仲町)と東西の惣門、来迎寺の4ヶ所にありました。

写真の左側には、道標がありますが、半分以上土に埋っていて読めません。

古代大輪田泊の石椋(いわくら)」 

大輪田泊は平安時代の初めに律令国家の管理のもと造営された泊(港)です。承知3年(831)には、当時の中国や東アジアの最新情報を取り入れるための

遣唐使船が暴風雨を避けるため入港していました。「石椋(いわくら)」は、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられます。

 

港の方にやってきました。ここが旧兵庫津です。その昔、廻船問屋の高田嘉兵衛」がここで活躍していました。

嘉兵衛は、津名郡志本村(現:兵庫県洲本市五色町)に生まれ、22歳の時、西出町廻船問屋「堺屋嘉兵衛」のもとに身を寄せ、持ち前の勇気と努力によって、わずか4年後には

千五百石の辰悦丸を建造し、船持ち船頭となった。やがて廻船問屋として独立し、蝦夷地(北海道)の開発、日露間の紛争の解決などに活躍し、兵庫津の繁栄に尽くしました。

竹尾稲荷神社には、「顕彰碑」が、西出町には、「高田嘉兵衛本店の地」があります。

    

街道に戻ります。この辺りは阪神高速道があり、横断歩道は、七宮の信号から渡ります。

信号の手前、「えびす八幡神社」の所に「湊口惣門所跡」があります。

案内板によれば、「西国往還に設けた兵庫の出入り口の惣門」とあります。
また、「兵庫の惣門は天正年間、池田信輝が織田信長の命によって花隈城を攻略し、その功によって兵庫を直し城を築く」とも書かれています。

   

街道は、湊町公園から右折。しばらく歩くとJR神戸駅が見えてきます。神戸駅は東海道本線の終点、山陽本線の起点です。

相生町の古い瓦煎餅屋さんの向い側には「湊川神社」があります。折角ですのでここに立ち寄ります。

  

 湊川神社は湊川の戦いで敗れた楠木正成を祀った神社である。門を入って右に正成の墓があり、本殿の西側付近は正成自害の場とされる。元々は小さな塚だったものを、

江戸時代の初めに尼崎藩主青山幸利(あおやまよしとし)が墓標とし、17世紀末には徳川光圀(水戸黄門)が「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」と

刻んだ石碑を立てました。幕末には倒幕志士の尊王のシンボルとなり、王政復古後、伊藤博文らの請願によって1872(明治5)年に神社が創建されました。

地元では、「楠公さん(なんこうさん)」の名で親しまれています。

再び街道へ。神戸駅のガードを潜ると、右側にD51のSLが展示されています。そして元町商店街の前には、「兵庫県里程元標」があります。

    

案内板によれば

旅は道づれ世は情けというが昔の旅人たちにとって唯一の道しるべは里程標でありこれによって明日への旅の希望を抱かせる心の糧ともなったのである。
兵庫県の里程元標は元相生橋の西詰に在ったが昭和6年10月国鉄高架線の完成により相生橋の撤去と共に取り除かれ保存されていたのであり

往時を偲ぶよすがとしてここに移転復活したものである。    文:及川英雄
(元の所在地より西へ約150米移す)
昭和35年年5月吉日

街道は、元町商店街に入っていきます。途中、右側に走人(はしうど)神社」があります。境内には「筆塚」がありました。

   

ちょっと回り道して南京町の中華街へ。中国か台湾の人でしょうか、周りには中国語があふれていました。

豚饅頭の「老祥記」には長い行列ができていました。他にもユーハイム「ミートパイ」やコロッケの「森谷商店」などにも行列です。

並んで買いましたけど、やはり美味しいですね。

   

街道は、大丸の前も通ります。ここに来ると人が多く、急に立ち止まったりされますので普段のスピードでは歩けません。

  

三宮神社」、祭神は、湍津姫命(たきつひめのみこと)。旧神戸村の氏神様です。境内には、神戸事件(滝善三郎正信)の碑が建っています。

生田神社」は創建は3世紀頃と伝えられる長い歴史がある神社で、祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)。西暦201年に神功皇后が三韓外征の帰途に神戸港で船が進まなくなったため、

神占を行ったところ、稚日女尊が現れたと日本書紀に記されている。境内の松尾神社にある杉の木に向かい、恋愛成就の願い事をすると願いが叶うとのいい伝えから「縁結びの神様」としても親しまれています。

生田の神を守る家、神戸(かんべ)が由来となって神戸という地名が生まれました。生田は元々は活田であり、活き活きとした生命力溢れる場所という意味です。

近年はアスリートやアーティストの参拝も多く、神戸中心市街地に位置することから訪れる参拝客も多数です。

 

  

三宮駅のガードを越えると「西国街道」の石碑が建っています。時間は15:25。山陽道・西宮までは、あと約18km。

次回は山陽道のゴールです。

 

  

今日のGPS