よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

薩埵(さった)峠の富士山(静岡市清水区)

2015-01-18 21:38:36 | ウォーキング

1/12 いつか行ってみたいと思っていた薩埵(さった)峠からの「富士山」。ここは、広重の東海道五十三次の絵にもあるように、江戸時代から富士山見学のビューポイントでした。

九州に住んでいるのでなかなか富士山には、行けませんが、ちょうど下田へウオーキングに行ったついでに登ることにしました。

沼津に泊まり、翌日の朝7:30の電車で興津へ。広重の絵では、沼津からも富士山が見えているのですが、現在は、富士山の方向にビルが建ち、見えません。

  

沼津を過ぎると車窓から富士山が見えてきます。その富士山に私は、興奮気味。車窓から写真を撮ろうとシャッターを押し続けます。

然し、電車の中のお客さんは、そんな富士山なんか無視。私だけがはしゃぎまわっています。

  

興津駅に着きました。駅で薩埵峠への案内図を手に入れ、案内図を見てみると、興津駅から薩埵峠は、旧東海道になっています。

昨年11月に山陽道、西国道を踏破しましたので、街道歩きとなるとワクワクしてきます。8:24ウオーキング開始。

  

   

薩埵峠越えは、時代と共に移り変わりました。

≪下道≫ 親知らず子知らずの道で海岸の波打ち際を道路として利用していました。安政元年(1854)の地震で海岸が隆起し、それ以降再び道路として利用されるようになりました。

≪中道≫ 慶長年間から明暦年間まで主として利用されました。慶長6年(1601)、家康が伝馬制度(使者や物資を馬で運ぶ交通制度)を設けました。慶長9年(1604)五十三次宿場制度確立。

       承応3年(1654)峠道を開いた。

≪上道≫ 参勤交代で諸大名も通った道です。明暦元年(1655)9月、江戸幕府は、朝鮮使節の一行を迎えるにあたり開いた道で幕末まで利用されました。

≪脇道≫ 通称「じぞう道」といい、上古から通行に利用されていました。

今回は、「上道」を通って行きます。興津川を渡り、人形屋さんの所から左折します。東海道線のガードを潜ると、興津川の案内板があります。広重の絵にも興津川の川渡りの様子が描かれています。

  

  

薩埵峠へは、各所に道案内の標識があり、私達みたいに初めて登る人にやさしい配慮がなされています。

薩埵峠は、万葉の時代から磐城山と呼ばれていましたが、文治元年(1185)、近くの海岸から地蔵菩薩の石像が引き上げられ、人々はこれを山に祀りました。山の名も菩薩と同じ意味を持つ「薩埵」と

呼びかえられたと伝えられています。

  

急な坂道を登りきるとお墓が見えてきます。案内板では、お墓の真ん中を通るようになっています。先を見ると急こう配の坂道が・・・・・・・・

そのために、お墓の入口には、「杖」が置いてあります。私達もこの杖をお借りして登って行きます。

   

急な坂道を登りきると視界が開けてきました。右側には、駿河湾が見えます。湾の向こう側には、昨日までいた伊豆半島です。

9:10やっと「薩埵峠」に着きました。興津駅から登り始めて45分です。

広重の薩埵峠(嶺)の絵には、崖から見入っている旅人の姿が描かれています。(左側上部)

   

薩埵山は、京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点でたびたび古戦場になりました。南北朝時代の1351年には、足利尊氏と弟の足利直義、戦国時代1568年には、武田信玄が駿河進攻の際、今川氏真・北条氏政の合戦が行われました。

薩埵峠からの富士山です。この日は、天気は快晴で雲一つない富士山を見ることができました。

一昨年、富士山を見に河口湖ウオークに参加しましたが、雨にたたられ見ることができませんでした。このような綺麗な富士山は、初めて見ました。もう感激!

  

周りを見てみると何輪か咲いている「桜」がありました。これは、「薄寒桜」といって、明治の終わりに東京市長「尾崎行雄」がアメリカ・ワシントンに送った桜と兄弟です。今もポトマック河畔に咲いています。

これから2月にかけて満開になるのでしょう。薄寒桜と富士山のコラボもきれいでしょうね。路肩には、「日本水仙」の花も咲いていました。

       

ツバキと富士山もよく似合います。この先に展望台があるそうなのでそちらに向かいます。

   

展望台では、カメラマンの方が三脚を使い薩埵峠からの富士山の撮影をされています。ここから東海道本線の電車を入れて撮影されるみたいです。

たとえば、このように・・・・・・・・

また、富士山は、山梨、静岡両県にまたがっていますが、静岡側からの富士山は、右側に「宝永山」があります。宝永年間に爆発してできた火口「宝永火口」です。

   

もう少しゆっくり富士山を見たかったのですが、今日は16:00の羽田発飛行機で帰る予定ですので、富士山は名残惜しいのですが、由比に向かって峠を下りて行きます。

薩埵峠へは、興津からと由比から登るルートがありますが、興津から由比に向かって下りる方が正面に富士山が見られます。 

  

薩埵峠を下りた所が、由比町西倉沢です。ここ西倉沢は、興津宿と由比宿の間(あい)の宿になっており、10軒ぐらいの休み茶屋があって旅人は、ここでお茶を飲み駿河湾の風景を賞(めで)て旅立ちました。

  

柏屋」は、明治天皇が、ご小休に当てられた所です。

西倉沢本陣跡」は、川島家が江戸時代、慶長から天保年間、凡そ230年間、代々「川島勘兵衛」を名乗り、間の宿の貫目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので、村では、本陣と呼ばれ

西倉沢では、代々村名主も務めた旧家です。

  

由比は、桜えびの町。薩埵峠で地元の方に教えてもらった「桜えびかき揚げ」の店に立ち寄りました。お店の前に立つと11:00から開店とのこと。どうしようかな?と思いましたが、折角ですので開店まで待つことにしました。

11:00暖簾が付けられ、開店です。5分ぐらいすると、出てきました、「桜えび」です。生桜えびと桜えびのかき揚げ。初めての食感です。

「生しらす」も食べたかったのですが、本日は、祭日で漁をやってないから、入ってないとのこと。(写真は、沼津で食べた生しらすです。)

 

   

  

ただ今、11:30食べるとすぐ歩き出しました。

  

【小池邸】 代々小池文右衛門を襲名して寺屋村の名主を務めていました。この建物は、明治時代の建物ですが、大戸、潜り戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、国の登録有形文化財に登録されました。

  

由比の中心部に着きました。駅で時刻表を見ると12:51があります。只今11:55。 本陣跡までは、2km。急いで歩きます。

由比宿は、江戸から16番目の宿場で、町並みは、東西五町(約600m)、宿高は、340石、人口は、707人、戸数は、160軒あり、このうち本陣(大名が宿泊する施設)1軒と脇本陣1軒、旅篭屋が32軒あり、

相当な賑わいを見せていたと伝えられています。

 

   

※「せがい造り」:軒先を長く出した屋根を支えるために平軒桁へ腕木を付けだして出桁とたるきを置いたもの。

 「下がり懸魚(けぎょ)」:平軒桁の両側が風雨による腐食を防ぐための装置で雲版型の板に若葉、花鳥などを彫り込み装飾も兼ねている。

   

  

由井正雪は、江戸で、楠流軍学を講義していました。非常に説得力がある講義だったので、たくさんの浪人を弟子にしました。幕府は、由井正雪を召抱えようとしましたが、拒否されました。

それが余計に人気を集めたといいます。
由井正雪は、丸橋忠弥や金井半兵衛とともに、幕府の浪人を発生させる政治を止めさせることを口実にしていました。それによると、由井正雪は、駿府城から武器を奪い、久能山の霊廟にある

徳川家康の遺産200万両を奪い取る予定でした。また、丸橋忠弥らは江戸小石川の幕府火薬庫を爆破して江戸城を占拠し、次の将軍に予定されている徳川家綱を人質として、自分たちの要求を主張することになっていました。

また、金井半兵衛らは大坂で一揆を起こすことになっていました。 

   

12:45 由比駅に戻ってきました。本当に駆け足の由比宿めぐりでした。

今日は、もう綺麗な富士山を見て、本当に幸せでした。また機会があれば訪ねてみたいですね。