よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

薩摩街道(豊前街道)6日目(その1)「山鹿市内を歩く」

2021-06-29 11:58:32 | 薩摩街道(豊前街道)

6/26(土)薩摩街道(豊前街道)6日目。

朝起きると、小雨が降っています。すぐ熊本県山鹿市の天気予報を見ると、午前8時頃には止むとのこと。すぐ出発の準備をして車で山鹿に出かけます。

今日は、土曜日なので高速のETC割引があると思っていましたが、まん延防止の為、7/11までは、割引がありませんでした。

8時半、まだ小雨が降っていますが、山鹿市の豊前街道駐車場に車を止めて薩摩街道(豊前街道)6日目スタート。今日は山鹿から味取(熊本市北区植木)まで予定します。

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山鹿」という地名は、保元の乱(1156)で京都から敗走した宇野(源)親治が山狩りの途中で、鹿が湯に浸かり、傷を癒しているのを見たことにより、名付けられたという伝説があります。

山鹿は、菊池川沿いに「方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき) | 熊本県山鹿市 (city.yamaga.kumamoto.jp)」など古代からの遺跡が点在しております。また、

装飾古墳で有名な「チブサン古墳 | 熊本県山鹿市 (city.yamaga.kumamoto.jp)」など古墳時代の古墳が多い所です。

中世には、菊池川を利用した物資輸送の拠点だった地です。近世では、温泉街や豊前街道によって賑わいを見せていました。

先ず、街道を歩く前に、装飾古墳で有名な「チブサン古墳」へ。

チブサン古墳は、古墳時代後期(6世紀)に造られたお墓です。古墳は前方後円墳で、その後円部の内部に割り石を積み上げて作られた部屋(石室-せきしつ)が造られています。

その石室の奥に石の棺おけ(石棺-せっかん)が置かれてあります。石棺の壁には赤、白、黒の三色で、丸や三角、菱形などの図が描かれていています。正面の二つ並んだ円が女性の乳房に

見えることから「チブサン」という名がついたと言われています。

装飾古墳は、福岡県、熊本県に多く、他には福岡県の王塚古墳、熊本県江田船山古墳などが有名です。

 

  

チブサン古墳から山鹿市街地に戻ってきました。ここから豊前街道を歩きます。

  

  

 

国重要文化財の八千代座です。

八千代座は、明治43年に建築の江戸時代の伝統的な芝居小屋の様式を今に伝える芝居小屋です。山鹿の商工会が劇場組合を作り、1株30円の株を募って建てたものです。

八千代座を設計し、工事監督をしたのは、回船問屋の主人で灯籠師でもあった木村亀太郎です。建築には素人でしたが、研究熱心で東京の歌舞伎座や各地を見学、さらには上海に渡り洋式工法の

長所も取り入れました。

昭和40年代になると庶民の娯楽が多様化し、八千代座は時の流れの中に取り残されていきます。閉鎖状態が続き老朽化が進む芝居小屋。朽ちかけていく八千代座に一番心を痛めたのは、

華やかだった頃を知るお年寄りでした。老人会は、「瓦一枚運動」で募金を募り、屋根瓦を修復。この運動に刺激を受けた若者も、復興へ向けての様々な活動を始めました。

その後昭和63年国重要文化財に指定されました。

平成2年から市民の手づくりで行われた「坂東玉三郎舞踊公演」では、明治の芝居小屋:八千代座が創り出す空間のなかで、華麗に舞う玉三郎丈の舞台のすばらしさに観客は魅せられ、

この公演が復興への大きな追い風となり、八千代座の名前を全国に広めることになりました。平成8年より平成の大修復・復原が始まり平成13年完了。

 

現在、コロナで館内は、立ち入り禁止になっています。

  

  

護國山金剛乗寺は、天長年間(824~834)に空海によって開かれ、かつては建物が大きく西の高野山と云われました。一時は途絶えましたが後鳥羽天皇の勅願で再建され、

宝徳年間(1449~1452)に宥明法印住職によって復興されました。

宥明法印住職は、文明5年(1473)3月温泉が突然枯れてしまったとき、薬師堂を建て祈願をして温泉を復活させた山鹿温泉の大恩人と云われています。その後、宥明法印が遷化したとき、

紙細工の名人・山口兵衛が数百の紙灯籠を作り、霊前に供えたのが山鹿灯籠の起こりとも言われています。
ご本尊は薬師如来。本堂には大日如来、宥明法印像、聖天・不動明王が祀られています。また、境内には修復された如意輪観音堂があり、見事な仏像を見ることができます。

石門は、文化元年(1804)に石工・甚吉によって造られたもので、凝灰岩の切石を使った円形の門です。昭和50年2月、市の別文化財に指定されました。異国を思わせるようなデザインは

町の人々に親しまれています。(山鹿探訪ナビより)

   

山鹿灯籠民芸館の建物は、旧安田銀行山鹿支店(現みずほ銀行)でした。山鹿における洋館建ての第1号として大正4年(1925)建設されました。

木や金具を使わず、和紙と少量ののりだけで作られる伝統工芸品「山鹿灯籠」の歴史は古く室町時代の金灯籠に始まり、大宮神社への奉納のために作られ受け継がれてきました。

その後長い歴史の中で神殿造り・座敷造り・城造りなどと多様化してきました。 その山鹿灯籠が館内に展示され、多彩な灯籠師たちの匠の技を見ることができます。

山鹿灯籠祭りは、毎年8月15日~16日に大宮神社で行われます。(今年2021年はコロナで中止)

その起源は、深い霧に行く手を阻まれた第12代景行天皇のご巡幸を、山鹿の里人たちが松明を掲げ無事にお迎えしたことに由来します。

以来、里人たちは行在所跡(現在の大宮神社)に天皇を祀り、毎年灯火を献上するようになったのが始まりとされています。室町時代になると紙製の金灯籠に姿を変え、その後、

金灯籠を頭に掲げた女性が「よへほ節」で舞い踊る「山鹿灯籠踊り」が誕生し、祭りの代名詞ともいえる千人灯籠踊りが生まれました。(山鹿探訪ナビより)

※「よへほ」とは、「あなたも酔ってね」という意味です。

山鹿灯籠踊りスペシャルムービーSITE (yamaga-tanbou.jp)

  

山鹿千軒たらいなし・・と唄われるほど豊富な湯量をたたえる山鹿温泉は、今からおよそ800年ほど昔、手負いの鹿が沼で傷を癒しているのを見て温泉の存在が知られたといわれていますが、

実際の歴史はもっと古く、平安時代に書かれた和名妙の中にも肥後の国山鹿郡の温泉郷として出ており、千年以上の歴史があります。泉質は、アルカリ性単純泉、ラジウムを含み無色透明・

無味無臭であり、まろやかで柔らかい肌触りは、乙女の肌に例えられるほどです。(説明文より)

 

山鹿温泉の中心的な「さくら湯」は、江戸時代肥後細川藩初代藩主細川忠利公が山鹿に建設した御茶屋に始まります。加藤家の改易後、豊前小倉藩から肥後藩へお国替えとなった細川忠利公は、

豊前街道から熊本入りし山鹿で一泊しています。山鹿の温泉を大変気に入った忠利公は、寛永17年(1640)山鹿に御茶屋を新築しました。明治になり参勤交代が無くなると、御茶屋は、

あまり使われることがなくなりました。明治3年(1870)幕末の思想家「横井小楠」に学んだ山鹿の先覚者、江上津直と井上甚十郎の両氏は、湯屋が狭く老朽化していることに心を痛め、

私財を投じて山鹿温泉の大改修工事に乗り出しました。藩知事の細川護久公は、私有地から木材や石材の切り出しを許可し、御茶屋などの敷地も無償で与えました。

明治31年(1898)には、四国の道後温泉を造った棟梁「坂本又八郎」氏を招いて大改修が行われました。坂本氏を招いたことで、さくら湯は、どっしりとした唐破風玄関を構えることになり、

新たに「松の湯」が造られ、松の湯(一等)、紅葉湯(二等)、桜湯(三等)とされました。また、同時期には、山鹿町内外の有力者などが会議室や宴会場として利用された「松風館(後の

洗心閣)も造られました。

昭和4年(1929)の改築では、南側にも唐破風の玄関が付けられ、昭和33年(1958)には、浴槽が改修されました。しかし、昭和46年(1971)8月に発生した大火による中心市街地の

再開発により、昭和48年(1973)、さくら湯は惜しまれながらも解体され、昭和50年4月、新しく建設された温泉プラザ山鹿の一角に移りました。そして入口に付けられた唐破風の玄関だけが

往時の雰囲気を残しました。その後、八千代座の復興や豊前街道の整備に繋がった山鹿の歴史や文化を大切にしようという市民の声の高まりによって、山鹿温泉の元湯であり、市民温泉として

愛されたさくら湯を元あった場所に、昔の構造、佇まいで再建することになりました。そして平成24年(2012)11月幾多の変遷を辿ったさくら湯は「湯の町山鹿の歴史と文化を代表する顔」

として甦りました。(館内案内板より)

前回は、峠越えで疲れてしまったのでこのさくら湯には入れませんでしたが、今日の帰りにでも入ろうかと思っています。

 

さくら湯の入り口には、「孝子孫次郎の碑」が建っています。

孫次郎は、湯町上町に住み、鍛冶を業とし、家は貧困であったが、非常に親孝行で母を背負って毎日母の好きなお湯に入浴させた。

寛文6年(1666)藩主細川候から孝子として褒賞せられ、熊本に召し出されて国の鍛冶の総取締を命ぜられた。

 

さくら湯の敷地の中には、「薬師堂」があります。千年以上の歴史がある山鹿温泉が突然枯れてしまったのは、文明5年(1478年)3月のこと。当時の湯主、左近郷近宗がいろいろと手を打って

みましたが効果がありません。そこで、菊池重朝公の祈祷寺だった湯町・九日町の金剛乗寺・第八世宥明法印に、温泉復活の祈祷をお願いしました。
法印は薬師堂を建立し、毎日丑の下刻(午前3時)に起床、身を浄め祈祷に励みました。不眠不休の祈祷により、満願になると湯が以前に勝る勢いで湧き出しました。(山鹿ガイドより)

  

山鹿の市内は、見る所が多く、なかなか先へ進めません。山鹿の町並みは「日本遺産」に認定されているそうです。重い腰を上げ再びスタート。

山鹿市のマンホールは、八千代座、灯籠娘が描かれています。マンホールカードがあるかな?と調べましたが、配布していないそうです。

  

火除け地蔵尊

 

光専寺」楼門は熊本城築城の際、余った材木で作られたもの。 境内には江戸時代、米問屋で豪商の宗方屋が寄進した一切経を納めた経蔵がある。

この寺は西南戦争開戦当初は薩軍の兵站基地であったが、 後に野戦病院に使用された

 

菊池川の手前の所には、「千代の園酒造」があります。明治29年(1896)創業。江戸時代メーンストリートだった豊前街道と穀倉地帯における水運を担っていた菊池川が交わるこの地で

元々は、米問屋を営んでいました。千代の園の由来は、古来より皇室を表すとされる「竹の園」、皇室ひいては日本が千代に八千代に栄えることを祈り「千代の園」と名付けられました。

(千代の園酒造HPより)

  

千代の園の先は、菊池川です。ここ山鹿の玄関口には、「惣門」の番所があり、治安維持の為、夜間は通行が禁止されていました。

 

山鹿大橋には、灯籠や灯籠娘のオブジェが建てられています。

 

  

(その2)に続く