6/16(水)昨晩から雨が降っていたが、天気予報によれば、8時ぐらいから雨が止むそうで、6時15分福岡の自宅を車で出発。
途中の高速では、大雨に遭い、このまま引き返そうかと思いましたが、雨が止むということを前提に山鹿に向かいました。山鹿着7:40。
山鹿から産交バスで前回ゴール地南関に向かいます。このバス途中の乗降客はなく、始発から私たち夫婦の貸し切り状態です。
産交バス南関バスターミナルには、9:02到着。山鹿から約40分です。この距離を今日歩きます。
南関でも雨が降っています。バックからポンチョを出して被り、傘をさしてのウォーキングです。豊前街道の南関~植木は、坂の多いコースです。上り坂が苦手は私には少し気が重いです。
雨が少し小降りになりましたのでウォーキング開始します。
南関町関下の信号から旧道に進みます。
途中「八塚」があります。説明文を見ると「文禄の役(文禄元年1592年)の際、南関城代の加藤清兵衛は、息子の大助と家人石九里吉内を八人の家来によって救われた。八人の霊を祭るため
築かれた塚である」
「姫塚」 「城を逃れていた城主の娘が小原城が焼け落ちるのを見て、自害した場所といわれる。」塚は、この案内板の上10mの所にあるそうです。
「追分石」ここ南関町の追分は、豊前街道と高瀬往還(玉名市)の分岐点にあたり、街道を南に下る旅人の為に道標が建てられました。石柱に「ひだりやまか道」「右たかせ道」と
彫りこまれています。
熊本城内と城下町を結ぶ接点であった新一丁目御門の前には、肥後(熊本)藩の種々の政令を掲示する「札辻」(ふだつじ)と呼ばれる広場がありました。
この「札の辻」が里程元標にあたり、ここを起点として、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、薩摩(さつま)、日向街道(ひゅうがかいどう)の里数が測られました。その際に、一里、二里、
三里・・・と進むごとに、街道の両側に榎(えのき)を植えてこれを里数木と称していました。
ここは、「十里木」熊本城から約40kmの地点です。私たちが歩いている豊後街道も熊本城ゴールまであと約40kmです。
坂を下りると大きな道に合流しました。九州道のガードを潜ります。雨も止んできたみたいです。ポンチョを着ていると暑くて暑くて・・・交流センターバス停でポンチョを脱ぎます。
少しホッとしました。
南関町小原の信号から旧道に向かいます。信号の近くが「小原茶屋跡」です。茶屋跡には豊後街道の案内板が建っていました。それによると、旧豊前街道は、熊本・細川藩のみでなく、
人吉藩相良家、薩摩藩島津家なども参勤交代のたびたびに利用し、宿泊や昼休みで南関お茶屋を使っていることが知られていますが、一般の旅人もこの道を大いに行き来しました。
著名な人物としては、長州藩吉田松陰、越後長岡藩河井継之助、それから島津斉彬の養女でのちに十三代将軍家定の正室となる篤姫などもいました。
第三小学校の所で国道443号に合流します。相谷バス停より右折し、肥猪(こえい)町に向かいます。
八幡宮の横には、西南の役の際、薩軍と交戦して死亡した政府軍の将兵180柱を埋葬した「官軍墓地」があります。この墓地には、明治10年(1877)3月12~13日鍋田、平山(山鹿市)の戦闘で
戦死した、熊本、広島、大阪、名古屋の各鎮台及び近衛所属の将兵が埋葬されています。
官軍墓地を過ぎたあたりから「肥猪町北構口」です。
「肥猪(こえい)宿」は、山鹿と南関の中間に位置し、間(あい)の宿と呼ばれていました。「肥前国誌」には、肥猪宿の北の構口から南の構口までの長さは、二町二十七間、カマド(家)数は、
四十軒程で、二枚掛けの御高札場があったと書かれています。一直線の町筋の両側には、テン屋(食堂)、くり屋(木製のお盆やお椀を作る)、木賃宿、麹屋、鬢付屋、造酒屋などが
軒を連ね行き交う旅人で大いに賑わっていました。「玉名郡誌」によれば、細川の大殿様には、御茶を、若殿様には、蕎麦を御馳走したと伝えられています。
明治8年には、郵便局もあり、賑やかな町でしたが、現在では、国道が別な場所を通っていますので静かな町になっています。
九里木跡の道標に書いてある「左山鹿、熊本」の通り左折する。然しどうもおかしい、マイマップでは、国道443号線に合流しないのですが、国道に合流してしまった。
マイマップの間違いかな?と思ってそのまま歩きますが、和水(なごみ)町(菊水町と三加和町が合併して和水町になった)に入ってしまいました。
誰かに聞こうと思いますが、このあたりは、人通りも少なく行き交うのは車だけ。そのまま歩くと三加和温泉街に入ってしまいました。
近くで農作業をされている方に聞くと、全然違う方向を歩いていました。豊前街道に戻るには、スカイドームの先を2kmぐらい直進すればいいと教えてもらいました。
スカイドームを目指して歩きます。スカイドームは、現在コロナの集団接種会場です。
やっと、窪園の豊前街道説明板まで来ました。ここから間違ったところまで戻ればいいのですが、あまりにも距離がありますので、「白坂口」まで行ってみます。
「肥後隈本軍記」によると、戦国末期の天正15年(1587)肥後で起こった国衆一揆の際、山鹿の城村城において隈部氏と戦いを繰り広げていた佐々軍に対し、食料物資を届けた立花宗成軍の
帰路を和仁(わに)、辺春(へばる)、大津山軍がここ白坂で襲ったという。この襲撃をきっかけに和仁、辺春氏も一気に加担し、田中城(三加和町)に立て籠もるようになったと伝えられています。
池田右京邸跡は、薩摩藩主島津家久公が宿泊した所です。平野橋の上流には、眼鏡橋が架かっていたそうですが、昭和57年7月の洪水で流出したそうです。
窪園に戻ってきました。この窪園には、数件の旅人宿があったそうですが、平成2年をもって姿を消しました。残った1軒は、西南戦争の時、繃帯所(ほうたいしょ)とされ、戦傷者の
手当を行ったことから「赤十字社発祥の地」の一つといわれています。
再び山道に入ります。
坂を下った所には、「ヒジ曲がり」という急な下りがあります。雨で路面が濡れていますので滑らないようゆっくり下りていきます。
下りた所が「八里木跡」です。熊本城迄あと約32kmです。
八里木跡から広い道を歩くと「歴史の道」の看板が立っています。遠くには「光行寺」が見えます。
「光行寺」は、参勤交代の際、肥後藩主細川家のお茶所で、門の軒瓦には、細川家の家紋「九曜紋」が残っています。本堂には、肥後初代藩主細川忠利、二代光尚親子の位牌が置かれています。
明治10年の西南の役には、一時、官軍の本営が置かれ、三浦軍司令官や旅団参謀の軍議宿泊の場所になっていました。
光行寺の横には、「下岩官軍墓地」があります。
今日は、ここまで全然休憩していなかったのでここで休憩します。
このあとは、(その2)に続きます。