3/28(日)前回ゴール地のJR深江駅へ。
唐津街道も最初の予定では6日間でゴールするつもりでしたが、福岡市内に入り
寄り道が多く、7日目になってしまいました。
今日を逃すと4月からは殆ど毎週ウオーキング大会にエントリーしていますので
どうしても今日、唐津まで歩きたい。
深江駅は、自宅から車で30分ぐらいの距離ですので、乗り換えの手間を省くため
車で深江駅までいきました。駅前の駐車場に車を止め、前回行けなかった
深江の中津藩船着場、境界石を訪ね、いよいよ今日の街道歩きの始まりです。
深江神社の前を通り、猿田彦を右折、深江小学校へ。
深江小学校の桜は、今が見ごろなんでしょうか、ほぼ満開の状態です。
マルキョウの所の国道を横断し、踏み切りを渡って右へ。
しばらく歩くと【鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)】が左手に
見えてきます。
「鎮懐石八幡宮」は、その昔、神功皇后は、応神天皇を懐妊しながらこの地を通って
朝鮮半島に兵を出された時に卵形の美しい二個の意思を求めて肌身に抱き、鎮懐として
出産の延期を祈られたのであった。願いは叶って、帰国後宇美の里で応神帝を
ご安産された。そこで神功皇后が経尺の璧石(へきいし)を子負ヶ原の丘上にお手前から
排納されてより、世人は鎮懐石としてその奇魂を崇拝するようになった。(由来文から)
また、ここには、九州最古の万葉歌詞があります。
726年筑前国主(今の知事かな?)に任じられた山上憶良が
筑前の住人「建部牛麿」からこの伝説を聞いて詠んだものです。
歌碑は、安政6年(1859)6月に建てられました。
街道はこの八幡宮の上を通ります。
ちょうど、その時、水を汲みに行かれるご婦人から話しかけられた。
そのご婦人は、山登りが好きで今は足を悪くされており、山には登ってないが
よくなればまた登りたいと話された。そのご婦人がいい景色があるということで
眺めのよい所に案内された。そこは、玄界灘が良く見え、姫島(幕末、勤皇の母といわれた
野村望東尼が流罪で島流しになった所)の横には、微かではありますが、壱岐島が
見えます。また、海岸の方に眼をやれば、富士山のさった峠を思わせるようです。
(私のひとつ前のブログ「風光明媚な糸島海岸」で紹介してます)
街道はこれから下に降り国道に合流します。
ここも歩道がなく、車道の端を歩いていきます。
海からは、磯の香りが・・・・
しばらく歩くと海岸に大きな石(岩?)が見えてきます。
これが「わくどう石」です。わくどうとは、方言でヒキガエルのことを意味するそうです。
(私の所では、わくどうとは言わないけど・・・)江戸時代の旅は、病気、盗難など
不安が付きまとっており、旅を終えて無事帰れることをこのヒキガエルに託したのでしょう。
磯辺に下りてこの石を計ってみると約10mぐらいはあります。
道路標識を見ると唐津まであと20km。
街道は、大入(だいにゅう)校区に入ってきました。
JR筑肥線の駅は次の駅が「福吉」です。
「大入から福吉」とても縁起のいい駅名です。(笑)
一時はブームになりました。
大入の旧道を通り、再び国道に合流します。
福吉校区に入ってきました。ここは、福井校区と吉井校区が一緒になり「福吉」に
なりました。国道を抜け旧道に入ると旧道と平行して水路があります。
その水路の上には、各家庭用に橋が架かっています。昔はここまで船で来て
いたんでしょうか?橋の横には石の階段もあります。
昨年ウオーキングで行った玉名・高瀬川にもこんな石の階段がありました。
福吉を抜け、国道の西縄手踏切を横断すると、この街道の難所「立花峠」に
差し掛かります。最初はなだらかな道、急な峠と聞いていたけど急じゃなかったんだ
と思いながら鶯も気持ちよさそうに鳴いて、こちらも口笛で鶯に答える。
このくらいの峠だったら・・・・気分はルンルン気分。
ところが、ところが、まむし温泉の方から来た道と合流するところあたりから急勾配に
なる。上り坂が得意の私でもちょっときつい。
汗を拭き拭き、ゼエゼエいいながらの山登り。
町民グラウンドを過ぎたところあたりか、民家で甘夏、八朔、蕨などを売っている所が
あった。聞くと全部1袋100円とのこと。甘夏なんか4個ぐらい入っていたでしょうか、
買いたかったけどこれ以上荷物は多くしたくないし、蕨だったら・・・・と思い蕨を
ゲット。国産でこれだけ入って100円とは、いい買い物ですね。(笑)
そこのおばさん、おまけにと言って甘夏1個くれた。
ちょうど小腹も空いており、この甘夏は峠の見晴らしのいい所でいただきました。
立花峠は、二丈カントリークラブの所が頂上です。
そういえば、こんな山道なのに車の往来が多いなあと思ってましたが、ゴルフ場に
来られているんですね。私も若い頃ゴルフに熱中していた時期がありました。
然し、野球をやっていたからか、すぐ野球のスイングになってしまい、3回ぐらい
コースに出た後、スコアが上がらず止めてしまいました。
立花峠を降りてしばらく歩くと鹿家(しかか)に出ます。旧道は鹿家駅の裏の方を
通るんですが、トイレに」行きたくなり、このあたりはコンビ二もないし、駅だったら
トイレがあるのではないかと思い、街道からちょっとそれて駅の方に行きましたが、
この駅無人駅でトイレがなく、仕方なく公民館の方に行きますがここは、日曜日で
お休み。男だったら最悪の場合その辺でできますが、女性の場合、
そうは、いけませんね。時計を見るともうお昼に近い。
食堂かレストランを探してそこでお昼とトイレタイムにすることにします。
旧街道は、山道ですので食堂もレストランもありません。
仕方なく、国道を歩いていきます。
こんな時、ないんですよね。
2kmぐらい歩いたでしょうか、左側に「ラーどん」という食堂の看板が・・・・
地図を見ると、旧街道もこのあたりで合流しています。
ここでお昼にすることにします。
私は、ラーどんというのを食べたくラーどんと小ご飯を注文。
「ラーどん」というのは、うどんの中にうどん玉とラーメン玉が入っているものです。
スープもうどん出汁がメインなんでしょうか、思っていたよりも美味しい。
家内は、よほどお腹がすいていたんでしょうか、「ブタキムチ定食」を注文。
勿論、完食です。私もブタキムチを少し食べましたがブタの味がして美味しかったです。
30分ぐらい昼食休憩をして再びスタートです。
やはり、30分でも体が冷えているんでしょうか、すぐ立ち上がると足腰が悲鳴を
あげます。少し体をほぐしスタートしました。
街道はもうすぐ佐賀県との県境です。
思えば、今年の1月2日に北九州の若松を西に西に歩いてやっと県境まで
来ることが出来ました。ここからゴールの唐津城まではあと10kmぐらいです。
佐賀との県境は、海岸側にある「包石(つつみいし)」です。
街道は、ここから線路を渡って行くようになってますが、その道がない。
あわてて、かっちゃんさんのブログを読むとどうも道幅が1mぐらいの細い道
みたいだ。遮断機もない線路を渡ると一面畑。
えっ、これって旧街道?どっちに行くんだろう?
ここでまたまたかっちゃんさんのブログ、「坂を上る」となっている。
その坂を上ると車道に出た。
この街道歩き、河島さんの地図とかっちゃんさんのHPのブログをコピーして
持っているんですが、かっちゃんさんのブログは実に解りやすい。
今まで何回助けられたことか。
山道を超え、再び国道に合流。玉島橋を渡ると「浜崎宿」です。
浜崎も何年か前の平成の大合併で唐津市に編入になりましたが、
その昔「対州領(つしま)」だったのです。
対馬藩が朝鮮通信史を接待したからこの領地が与えられたそうです。
浜崎宿は、宿場のものが何も残っておりませんが、旧家がかなり多く見られます。
白壁、奥に長い家・・・・・
諏訪神社を抜け、再び国道へ。
このあたりが日本三大松原の「虹の松原」になります。
虹ノ松原は「総延長4781m、横幅平均448mあり、大正15年わが国最初の
史跡名勝天然記念物と防風保安林を兼ねた特別保護林に指定されました。
ここは玄界灘に面し潮風による農作物の被害がひどかったので、初代唐津藩主
寺沢志摩守広高はこの地に松を植えさせ保護育成した。その際、この松原には
自分が愛する松が7本ある。これを傷つけたものは死刑に処する。と言って
その松がどれであるかも明示しなかった。そのため松林は盗伐から守られたという。
(説明文より)
昔は「二里の松原」と呼ばれていましたがいつの間にか「虹の松原」になりました。
国道が松林の中を通っています。
唐津の名物は「松露饅頭」ですが、松露は松林の中にあるのですが、最近
松林の手入れを怠り、松露ができない状態です。
そこで唐津の方は再び松露をということで松林の管理をおこなっております。
私も子供のころは、5月ごろ松林に行って松露を採ったことがあります。
香りがよくてお吸い物には最高でした。
もうだいぶん食べていません。
松林の中には、唐津バーガーや松原おこしのお店があります。
松林の終点には唐津シーサイドホテルがあります。
ここで休憩をすることにします。
唐津城はもうすぐそこです。
唐津シーサイドホテルで休憩後、再び街道を歩き出します。
ホテルを出て国道に入ると遠くに唐津城が見えてきました。
もう少しでゴール。少し早足になってきます。
唐津城に続く道路は、唐津城の花見でしょうか、渋滞しています。
舞鶴橋、この橋を渡ると唐津城です。
唐津城は、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸の満島山に位置します。
山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城です。
松浦川の右側には虹ノ松原が広がり、満島山を中心に鶴が翼を広げたように見える
から「舞鶴城」とも呼ばれています。築城には、秀吉が朝鮮征伐で造った
名護屋城の解体資材も使われています。
唐津城の石段から上がっていくと石垣で新郎・新婦が写真を撮っています。
特に、新婦さんはドレス姿、寒くないんだろうかと心配しますが、
そこは、熱々のカップル寒さなんか関係ないですね。(笑)
4時25分唐津城に到着しました。唐津城は今、桜が満開。
いかにも私達のゴールを歓迎してくれているみたいです。
すぐ、近くの人にゴールの写真をお願いします。
JRでは、北九州・若松~唐津まで約3時間で行けますが、私達はテクテク旅、
7日間かかりました。
たった133kmぐらいで大きなことを言いそうですが、
唐津街道をテクテク歩いていろんなものが見えました。
今まで知らなかったことなどこの街道旅で発見することができました。
ただ、この街道歩き、私一人では途中で放棄していたかもしれません。
一緒に歩いてくれた家内に感謝します。(途中喧嘩もしましたが)
また、この唐津街道の地図を作ってくれた河島先生、参考にさせてもらった
かっちゃんさんのブログ、改めてお礼申し上げます。有難うございました。
ゴールのあと、家内が記念に唐津焼の湯飲みかコーヒーカップが欲しい
ということで唐津市内に出かけました。
本当は、ビールで乾杯したかったのですが、深江駅まで車で来ているため
乾杯は家に帰ってからすることにしました。
この唐津街道を応援していただきました皆様本当に有難うございました。
また、機会があれば、どこかの街道に挑戦したいと思ってます。
唐津街道も最初の予定では6日間でゴールするつもりでしたが、福岡市内に入り
寄り道が多く、7日目になってしまいました。
今日を逃すと4月からは殆ど毎週ウオーキング大会にエントリーしていますので
どうしても今日、唐津まで歩きたい。
深江駅は、自宅から車で30分ぐらいの距離ですので、乗り換えの手間を省くため
車で深江駅までいきました。駅前の駐車場に車を止め、前回行けなかった
深江の中津藩船着場、境界石を訪ね、いよいよ今日の街道歩きの始まりです。
深江神社の前を通り、猿田彦を右折、深江小学校へ。
深江小学校の桜は、今が見ごろなんでしょうか、ほぼ満開の状態です。
マルキョウの所の国道を横断し、踏み切りを渡って右へ。
しばらく歩くと【鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)】が左手に
見えてきます。
「鎮懐石八幡宮」は、その昔、神功皇后は、応神天皇を懐妊しながらこの地を通って
朝鮮半島に兵を出された時に卵形の美しい二個の意思を求めて肌身に抱き、鎮懐として
出産の延期を祈られたのであった。願いは叶って、帰国後宇美の里で応神帝を
ご安産された。そこで神功皇后が経尺の璧石(へきいし)を子負ヶ原の丘上にお手前から
排納されてより、世人は鎮懐石としてその奇魂を崇拝するようになった。(由来文から)
また、ここには、九州最古の万葉歌詞があります。
726年筑前国主(今の知事かな?)に任じられた山上憶良が
筑前の住人「建部牛麿」からこの伝説を聞いて詠んだものです。
歌碑は、安政6年(1859)6月に建てられました。
街道はこの八幡宮の上を通ります。
ちょうど、その時、水を汲みに行かれるご婦人から話しかけられた。
そのご婦人は、山登りが好きで今は足を悪くされており、山には登ってないが
よくなればまた登りたいと話された。そのご婦人がいい景色があるということで
眺めのよい所に案内された。そこは、玄界灘が良く見え、姫島(幕末、勤皇の母といわれた
野村望東尼が流罪で島流しになった所)の横には、微かではありますが、壱岐島が
見えます。また、海岸の方に眼をやれば、富士山のさった峠を思わせるようです。
(私のひとつ前のブログ「風光明媚な糸島海岸」で紹介してます)
街道はこれから下に降り国道に合流します。
ここも歩道がなく、車道の端を歩いていきます。
海からは、磯の香りが・・・・
しばらく歩くと海岸に大きな石(岩?)が見えてきます。
これが「わくどう石」です。わくどうとは、方言でヒキガエルのことを意味するそうです。
(私の所では、わくどうとは言わないけど・・・)江戸時代の旅は、病気、盗難など
不安が付きまとっており、旅を終えて無事帰れることをこのヒキガエルに託したのでしょう。
磯辺に下りてこの石を計ってみると約10mぐらいはあります。
道路標識を見ると唐津まであと20km。
街道は、大入(だいにゅう)校区に入ってきました。
JR筑肥線の駅は次の駅が「福吉」です。
「大入から福吉」とても縁起のいい駅名です。(笑)
一時はブームになりました。
大入の旧道を通り、再び国道に合流します。
福吉校区に入ってきました。ここは、福井校区と吉井校区が一緒になり「福吉」に
なりました。国道を抜け旧道に入ると旧道と平行して水路があります。
その水路の上には、各家庭用に橋が架かっています。昔はここまで船で来て
いたんでしょうか?橋の横には石の階段もあります。
昨年ウオーキングで行った玉名・高瀬川にもこんな石の階段がありました。
福吉を抜け、国道の西縄手踏切を横断すると、この街道の難所「立花峠」に
差し掛かります。最初はなだらかな道、急な峠と聞いていたけど急じゃなかったんだ
と思いながら鶯も気持ちよさそうに鳴いて、こちらも口笛で鶯に答える。
このくらいの峠だったら・・・・気分はルンルン気分。
ところが、ところが、まむし温泉の方から来た道と合流するところあたりから急勾配に
なる。上り坂が得意の私でもちょっときつい。
汗を拭き拭き、ゼエゼエいいながらの山登り。
町民グラウンドを過ぎたところあたりか、民家で甘夏、八朔、蕨などを売っている所が
あった。聞くと全部1袋100円とのこと。甘夏なんか4個ぐらい入っていたでしょうか、
買いたかったけどこれ以上荷物は多くしたくないし、蕨だったら・・・・と思い蕨を
ゲット。国産でこれだけ入って100円とは、いい買い物ですね。(笑)
そこのおばさん、おまけにと言って甘夏1個くれた。
ちょうど小腹も空いており、この甘夏は峠の見晴らしのいい所でいただきました。
立花峠は、二丈カントリークラブの所が頂上です。
そういえば、こんな山道なのに車の往来が多いなあと思ってましたが、ゴルフ場に
来られているんですね。私も若い頃ゴルフに熱中していた時期がありました。
然し、野球をやっていたからか、すぐ野球のスイングになってしまい、3回ぐらい
コースに出た後、スコアが上がらず止めてしまいました。
立花峠を降りてしばらく歩くと鹿家(しかか)に出ます。旧道は鹿家駅の裏の方を
通るんですが、トイレに」行きたくなり、このあたりはコンビ二もないし、駅だったら
トイレがあるのではないかと思い、街道からちょっとそれて駅の方に行きましたが、
この駅無人駅でトイレがなく、仕方なく公民館の方に行きますがここは、日曜日で
お休み。男だったら最悪の場合その辺でできますが、女性の場合、
そうは、いけませんね。時計を見るともうお昼に近い。
食堂かレストランを探してそこでお昼とトイレタイムにすることにします。
旧街道は、山道ですので食堂もレストランもありません。
仕方なく、国道を歩いていきます。
こんな時、ないんですよね。
2kmぐらい歩いたでしょうか、左側に「ラーどん」という食堂の看板が・・・・
地図を見ると、旧街道もこのあたりで合流しています。
ここでお昼にすることにします。
私は、ラーどんというのを食べたくラーどんと小ご飯を注文。
「ラーどん」というのは、うどんの中にうどん玉とラーメン玉が入っているものです。
スープもうどん出汁がメインなんでしょうか、思っていたよりも美味しい。
家内は、よほどお腹がすいていたんでしょうか、「ブタキムチ定食」を注文。
勿論、完食です。私もブタキムチを少し食べましたがブタの味がして美味しかったです。
30分ぐらい昼食休憩をして再びスタートです。
やはり、30分でも体が冷えているんでしょうか、すぐ立ち上がると足腰が悲鳴を
あげます。少し体をほぐしスタートしました。
街道はもうすぐ佐賀県との県境です。
思えば、今年の1月2日に北九州の若松を西に西に歩いてやっと県境まで
来ることが出来ました。ここからゴールの唐津城まではあと10kmぐらいです。
佐賀との県境は、海岸側にある「包石(つつみいし)」です。
街道は、ここから線路を渡って行くようになってますが、その道がない。
あわてて、かっちゃんさんのブログを読むとどうも道幅が1mぐらいの細い道
みたいだ。遮断機もない線路を渡ると一面畑。
えっ、これって旧街道?どっちに行くんだろう?
ここでまたまたかっちゃんさんのブログ、「坂を上る」となっている。
その坂を上ると車道に出た。
この街道歩き、河島さんの地図とかっちゃんさんのHPのブログをコピーして
持っているんですが、かっちゃんさんのブログは実に解りやすい。
今まで何回助けられたことか。
山道を超え、再び国道に合流。玉島橋を渡ると「浜崎宿」です。
浜崎も何年か前の平成の大合併で唐津市に編入になりましたが、
その昔「対州領(つしま)」だったのです。
対馬藩が朝鮮通信史を接待したからこの領地が与えられたそうです。
浜崎宿は、宿場のものが何も残っておりませんが、旧家がかなり多く見られます。
白壁、奥に長い家・・・・・
諏訪神社を抜け、再び国道へ。
このあたりが日本三大松原の「虹の松原」になります。
虹ノ松原は「総延長4781m、横幅平均448mあり、大正15年わが国最初の
史跡名勝天然記念物と防風保安林を兼ねた特別保護林に指定されました。
ここは玄界灘に面し潮風による農作物の被害がひどかったので、初代唐津藩主
寺沢志摩守広高はこの地に松を植えさせ保護育成した。その際、この松原には
自分が愛する松が7本ある。これを傷つけたものは死刑に処する。と言って
その松がどれであるかも明示しなかった。そのため松林は盗伐から守られたという。
(説明文より)
昔は「二里の松原」と呼ばれていましたがいつの間にか「虹の松原」になりました。
国道が松林の中を通っています。
唐津の名物は「松露饅頭」ですが、松露は松林の中にあるのですが、最近
松林の手入れを怠り、松露ができない状態です。
そこで唐津の方は再び松露をということで松林の管理をおこなっております。
私も子供のころは、5月ごろ松林に行って松露を採ったことがあります。
香りがよくてお吸い物には最高でした。
もうだいぶん食べていません。
松林の中には、唐津バーガーや松原おこしのお店があります。
松林の終点には唐津シーサイドホテルがあります。
ここで休憩をすることにします。
唐津城はもうすぐそこです。
唐津シーサイドホテルで休憩後、再び街道を歩き出します。
ホテルを出て国道に入ると遠くに唐津城が見えてきました。
もう少しでゴール。少し早足になってきます。
唐津城に続く道路は、唐津城の花見でしょうか、渋滞しています。
舞鶴橋、この橋を渡ると唐津城です。
唐津城は、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸の満島山に位置します。
山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城です。
松浦川の右側には虹ノ松原が広がり、満島山を中心に鶴が翼を広げたように見える
から「舞鶴城」とも呼ばれています。築城には、秀吉が朝鮮征伐で造った
名護屋城の解体資材も使われています。
唐津城の石段から上がっていくと石垣で新郎・新婦が写真を撮っています。
特に、新婦さんはドレス姿、寒くないんだろうかと心配しますが、
そこは、熱々のカップル寒さなんか関係ないですね。(笑)
4時25分唐津城に到着しました。唐津城は今、桜が満開。
いかにも私達のゴールを歓迎してくれているみたいです。
すぐ、近くの人にゴールの写真をお願いします。
JRでは、北九州・若松~唐津まで約3時間で行けますが、私達はテクテク旅、
7日間かかりました。
たった133kmぐらいで大きなことを言いそうですが、
唐津街道をテクテク歩いていろんなものが見えました。
今まで知らなかったことなどこの街道旅で発見することができました。
ただ、この街道歩き、私一人では途中で放棄していたかもしれません。
一緒に歩いてくれた家内に感謝します。(途中喧嘩もしましたが)
また、この唐津街道の地図を作ってくれた河島先生、参考にさせてもらった
かっちゃんさんのブログ、改めてお礼申し上げます。有難うございました。
ゴールのあと、家内が記念に唐津焼の湯飲みかコーヒーカップが欲しい
ということで唐津市内に出かけました。
本当は、ビールで乾杯したかったのですが、深江駅まで車で来ているため
乾杯は家に帰ってからすることにしました。
この唐津街道を応援していただきました皆様本当に有難うございました。
また、機会があれば、どこかの街道に挑戦したいと思ってます。
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