よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

唐津街道を行く№16(前原~深江)

2010-03-23 09:39:48 | 唐津街道
唐津街道も6日目になりました。本当でしたらもうゴールしていなくては
いけないのですが、私の地元の道 やたらと寄り道が多く、ゆっくりした
街道歩きになっています。尤もこの街道歩き時間の制限がありませんので
ここまで来ましたらゆっくり歩いていこうと思います。

さて、3/22祝日ですが、午前中雑用があり、それも11時ぐらいには
終わりましたので12時ごろから街道歩きに出かけました。

前回ゴールのJR前原駅に到着。
駅前の観光案内所には、平原遺跡から出土した大鏡のレプリカが
展示されていますので先ずその大鏡を見学。
「平原遺跡」は、昭和40年に発掘された遺跡で、遺跡の中からは、
日本製の内行花文鏡4枚、その他中国製の銅鏡など40枚近い鏡が
割れない状態で発掘されました。この内日本製の内行花文鏡は、直径
46,5cmもあり、日本最大の銅鏡だそうです。
観光案内所のレプリカの鏡もその大きさに合わせ46,5cmあります。
この他の出土品としては、ブレスレッド、ネックレス、勾玉などがあり、
魏志倭人伝に出てくる「伊都国」の女王のお墓ではないかとも言われています。
遺跡は、弥生時代から古墳時代のものです。



観光案内所をあとに、街道歩きの出発です。
唐津街道は、丸田池沿いです。
筒井西の信号を左に入り踏切を渡って荻浦に入ります。
荻浦に入ると左手に大きな旧家、何でも昔はお医者さんだったそうです。
その先を右回りに廻ると大きな石碑が見えてきます。
「これより東が福岡領」とかいてあるんでしょうか?
唐津街道を調べていくと、唐津街道の中には中津領、対州領が
あります。ここからは、中津領でしょうか?

街道は国道202号「赤坂」に出てきました。
いつもは車で走るこの国道、歩いてみて歩道の狭さに気づきます。
歩道は、60cmの側溝の上、ちょっと油断すると後から車が歩道すれすれに
近づきます。それでも何とか「赤坂橋」を越え、それから左折しました。
しばらく歩くと二丈町一貴山校区に入ってきます。
川の向こう側はキャベツ畑でしょうか、農家の方がキャベツの収穫をされています。

地図を見ると一貴山には、神社が多い。最初に西宮神社、それから諏訪神社、
奥に入って村社の熊野神社・・・・何か聞いたことのある神社の名前ですね。
街道を通っていて見つけた遺跡の案内、「一貴山銚子塚古墳」
私は、今まで歴史にはあまり興味がなかったのですが、街道歩きに従い、
先人が辿った道、或いは先人たちが造ったものに実際手を触れる見ると
自分が いにしえの昔に引かれていくみたいです。

この一貴山銚子塚古墳は、地元では「金の銚子が埋まっている」という伝説があり、
昭和25年に発掘調査が行われました。調べていくと糸島地区最大の前方後円墳で
古墳の中からは10面もの青銅鏡が出土しました。そのうち8面は卑弥呼の鏡とも
いわれる三角縁神獣鏡、残りの2面は内行花文鏡、方格規矩鏡という中国製です。
築造時期は4世紀後半ぐらいでこの地方を治めていた首長の墓といわれています。
尚、日本各地に銚子塚古墳というのがありますが、この古墳の形が、お酒の
お銚子に似ていたからその名がついたのではないでしょうか?
この銚子塚古墳の横には、江戸時代からの家でしょうか、風格のある家が
建っています。門の入口近くに家人がいらっしゃいましたので写真を撮らせて
くださいと頼みますと快く承諾された。
私達にどこまで行くのかと尋ねられ、深江宿、時間があれば大入まで行くと
伝えるとびっくりされていた。びっくりされたついでに北九州の若松から歩いて
来ていると言うと案の定驚かれていました。(笑)

街道は、今日のゴールの「深江宿」に入りました。


深江宿の入口には大燈籠があります。これには「太閤宿」と刻印されています。
この灯籠から入ったところに深江宿本陣があります。
今でも現存しています。
その本陣から右手に「深江神社」があります。
この神社は高祖城城主原田種直が1203年開基。
天正20年(1592)豊臣秀吉が名護屋城に在陣しているときにこの神社を参拝した。
ちょうどそのとき秀頼誕生の知らせを受けたので、この神社を秀頼公の産神と思い、
時の領主小早川隆景の命じて社殿を再興した。隆景も石の鳥居を奉納したが、
それが現在の第二の鳥居であると由来書きに書いてあります。
その社殿も現在建て直しの工事中です





時計を見るともう4時。
今から街道は、山道になりますし、一応今日の街道歩きはここまでとします。
次回こそ唐津までゴールしたいものです。

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