よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「新幹線の見える丘を目指して」(福岡県春日市・那珂川市)

2024-06-29 18:52:18 | ふくおかウォーキング協会

6/26(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「新幹線の見える丘を目指して」でした。

集合場所は、JR西日本博多南駅。参加者は、31名。

今日は、朝から雨の予報でしたので雨具の用意をしてきましたが、雨はまだ降っていませんでした。

博多南駅は、JR西日本管轄の新幹線博多南線の駅です。(博多駅から330円です)駅舎は、春日市ですが、駅前の道路からすぐ那珂川市になります。

 

今日のコースマップです。

9:30 スタート 

那珂川にかかる日佐江(おさえ)橋を渡ります。

 

45分ほどで「現人(あらひと)神社」へ。

現人(あらひと)神社は、底筒男命(そこつつをのみこと)・中筒男命(なかつつをのみこと)・表筒男命(うわつつをのみこと)の住吉三神をお祀りする神社です。

住吉三神を祀る神社の中では最も歴史が古いといわれています。また約1800年前に神功皇后が三韓遠征をされた際には、住吉三神が荒れ狂う玄海の波風を鎮め、禊ぎの神として皇后の身を

護られたといわれています。神功皇后は帰国後、住吉三神を現世に姿を現した「現人神(あらひとがみ)」としてお祀りし、それが現在の現人神社の起源として伝わっています。

同神社は、神功皇后の逸話に登場する裂田溝(さくたのうなで)との関係も深く、周辺には裂田溝を水路として利用した神田が広がっていました。現在の神社の境内には、高さ5.15m、

柱間4.2mを誇る花崗岩製の堂々とした造りの鳥居があり、町の文化財に指定されています。また、毎年10月第3日曜日に行われる宮日(おくんち)は盛大で、子どもたちの奉納相撲や

流鏑馬(やぶさめ)など目当てに多くの見物客が訪れます。(クロスロードふくおかより)

 

 

境内には、たくさんの風鈴が付けられています。

 

 

現人神社から「ミリカローデン那珂川」に向かいます。

 

ミリカローデンとは、那珂川市の木「やまもも」(ミリカ)、那珂川市の花「シャクナゲ」(ロウダデンドウシ)、広場(ガーデン)を合わせた造語です。

ミリカローデンの広場には、大きなヤマモモの木が植えられています。

  

園内には、「柴田徳三郎先生の碑」というのがあります。柴田徳三郎先生は、国士舘大学の創立者です。出身は、那珂川市別所です。

 

この一帯、「仲(ちゅう)遺跡」といって縄文時代~古墳時代の遺跡があります。

 

休憩後再スタート。 30分後、春日市の白水(しろうず)大池公園に到着。このころから雨が降ってきました。

白水大池公園は、筑前三大池の一つに数えられています。周囲2,1kmを歩きます。

 

 

一周を廻り「新幹線の見える丘」に向かいます。

 

昨年10月、国内最大級の新幹線の車両基地「JR西日本博多総合車両所」の新幹線が見渡せる春日西多目的広場公園(春日市白水ケ丘)が園内の「新幹線の見える丘」がオープンしました。

 

ここからは、新幹線が見渡せます。

 

もともと、春日市は、魏志倭人伝に登場する「奴国」があった場所といわれていますので、新幹線の見える丘には、「原(はる)遺跡」があります。

 

 

新幹線車両基地からゴールの博多南駅に向かいます。

12:20 博多南駅にゴールしました。

今日のGPSです。

 

 


楽しいウォーク「伊都の郷歩き」(福岡県糸島市~福岡市西区)

2024-06-21 19:14:52 | ふくおかウォーキング協会

6/19(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「伊都の郷歩き」でした。

集合場所は、JR波多江駅から徒歩5分の「産宮神社」、参加者は31人でした。

天気予報は、今日福岡地方は、最高気温32度になるそうです。出発前コースリーダーより熱中症予防のため、こまめに休憩しますのでしっかり水分を補給するようにとの指示がありました。

産宮神社」の御祭神は、奈留多姫命。奈留多姫命とは、あまり聞かない神様ですが、調べてみると神武天皇の奥様だそうです。

名のごとくお産の神様です。

 

9:30スタート  民家の庭には赤の夾竹桃が咲いていました。赤の夾竹桃は珍しいですね。

 

 

約30分で「志登(しと)神社」に到着。

 

御祭神は海神である大綿津見神の娘、豊玉姫命です。龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火々出見命(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ、水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神、福を招き、出世を約束する女神とされています。古は志摩郡・怡土郡の総社として、この地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、郡民一体の崇敬を集めていました大社であったと伝えられています。(神社HPより)

志登神社は、伊都国時代にこの地で銅鏡を使い祈祷をしていたのが始まりと言われています。「志登(しと)」とは、太陽が昇る所という意味です

志登神社を中心に高祖山や雷山、可也山などの山々が東西南北に位置し、夏至や冬至、春分秋分の日の出、日の入りの方角と重なっていることや、境内に祈祷師が用いたとされる太陽観測石が残っていることから、天体観測が行われていた場所だったと伝えらえています。冬至には鳥居から社殿へと一直線に夕日が差し込む光景を見ることができます。(つなぐいとしまより引用)

 

   

右下の図のように、古代は糸島は、半島ではなく志登付近の糸島水道で志摩と怡土(いと)に分かれていました。

この糸島水道を通り渡来人が渡ってきました。糸島に韓国読みの地名が多数残っています。(例 加布里・加布羅・・・韓国語で大きな港という意味、可也山・・・韓国の伽耶から)

夏至の時には、太陽が今山(昔は夷魔山と呼んだ)から昇り加布里湾に沈んでいきます。横道にそれますが、今山は、昔、夷魔を彦火火出見尊(山幸彦)が夷魔を頂から射ったから

夷魔山になりました。その彦火火出見尊(山幸彦)は、志登神社の御祭神「豊玉姫命」の夫です。※山々は7月のやさしいWで歩きます。

 

 

 

話は変わりますが、コロナ前、淡路島に行きました。そこには「伊弉諾神宮」があります。国生み伝承で油脂のように漂っている大地を天沼矛でかき混ぜ2番目に出来たのが淡路島です。

この伊弉諾神宮には、「ひのわかみやと陽の道しるべ」がありました。これによると、(右下図)

伊弉諾神宮を中心に東は伊勢神宮内宮、西は対馬の海神神社が同緯度に並ぶことが分かりました。それだけではなく夏至には諏訪大社(長野県諏訪市など)の方角から日が昇り、伊弉諾神宮を通過して出雲大社(島根県出雲市)の方角に日が沈み、冬至には熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)から日が昇り、高千穂神社、天岩戸神社(いずれも宮崎県高千穂町)に日没することがかわかったそうです。

前述の志登神社やこの伊弉諾神宮のように昔は携帯電話もパソコンもない時代よくこれだけのことがわかったということにただただ感服です。古代人は侮れませんね。

 

休憩後再スタート

 

真行寺で再び休憩

 

倶会一處(くえいっしょ)とは、阿弥陀様のお浄土で仏になるという意味です。

 

 

 

泉公園で休憩

泉公園には、福岡海軍航空隊跡記念碑があります。当時福岡には、雁ノ巣飛行場がありましたが、雁の巣飛行場には大日本青年航空団や海軍予備航空団が学生の訓練を行っていましたが 

国際空港として、しだいに重要な飛行場になり、便数が増えて 飛行訓練に支障がでてきたので 訓練用地を他に 求めることになりました。
雁の巣の対岸で市内から近いことから 元岡に訓練用地を決め、用地の買収にはいりました。昭和16年1月から工事を始め12月に開所しました。

  

 

伊覩(いと)神社へ。江戸時代、ここに主船司という船役所がありました。周船寺の地名の由来はこの主船司からです。

 

 

丸隈山古墳  伊覩神社の祭神の伊覩県主命の墓と言われています。

 

古墳は階段を上がらなくてはいけませんが、私は膝痛のため上がりませんでした。

丸隈山古墳から5分ぐらい歩くとイオン伊都店が見えてきました。九大学研都市駅は、このイオンの所です。

11:45 九大学研都市駅にゴールしました。

 

今日のGPSです。

 

 

 


楽しいウォーク「宗像田園風景と唐津街道を歩く」(福岡県宗像市)

2024-06-15 15:28:52 | ふくおかウォーキング協会

先週は、月曜日が下見、水曜日楽しいウォーク、木曜日やさしいウォーク、土曜日サタデーウォーク、日曜日スマイルウォーク北九州と5日間のウォークでした。

過密なウォークのせいか、日曜日のスマイルウォークの時は、膝痛が再発し、やむなくリタイアしました。自分では若いつもりでいてもやはり歳は誤魔化せませんね。

月曜日にお医者に行き、痛み止めの注射と痛み止めのお薬をもらい、痛みも少しは薄れてきました。少しは休足日も設けなくては・・・・

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6/12(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「宗像の田園風景と唐津街道を歩く」でした。

集合場所は、JR東郷駅、参加者32名。

9:30スタート

 

王丸のアンダーパスを通ります。

 

今日の目的地は、宗生寺

 

許斐山登山口で休憩

休憩後大穂に向かいます。大穂から宗生寺へ

ここから上り坂になりますが、私は、膝痛のため合流場所の「かのこの里」へ行きます。

 

宗生寺    

禅宗の名刹、宗生寺は3,00本のツツジの庭園で有名。許斐城主小早川隆景の墓所や名島城搦手門を移築した山門があり、その裏山には奈良時代の僧行基作といわれる馬頭観音を安置した

観音堂がある。33年のうち2回しか開帳されない秘仏とされている。栴檀葉菩提樹、ヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃ)が珍しいと人気。(写真と文章は宗生寺HPより引用)

 

 

もうアガパンサスの花が咲き始めました。

 

宗像市の花は、鹿子百合(かのこゆり)。

鹿子百合ではありませんが、民家の庭には、百合の花が咲いています。

 

原町宿は、赤間宿と畔町宿の中間にあたります。昔は、南郷村という地名でしたが、1954年(昭和29)東郷・赤間・南郷・河東・吉武・神興が合併し「宗像町」になりました。

  

  

 

 

 

 

 

旧南郷村役場の横が産直店「かのこの里」ここで宗生寺に行ったメンバーと合流します。

 

合流後再スタート

 

宗像ユリックスの横を通ります。

 

12:34 東郷駅に到着しました。

膝痛でしたので途中でリタイアかな?とおもいましたがゆっくりゆっくり歩きましたのでなんとかゴールできました。今後も無理をしないようにします。

 

 

 

 


サタデーウォーク「博多を知ろう!旧西鉄市内線「城南線」を歩く」(福岡市博多区~早良区)

2024-06-12 20:42:23 | ふくおかウォーキング協会

6/8(土)ふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、「博多を知ろう!旧西鉄市内電車「城南線」を歩く」でした。

西鉄市内電車は、1927年(昭和2年)に開業し、6路線で営業していましたが、地下鉄工事が始まるとともに、昭和50年(1975)4路線が廃止になり、残りの2路線も昭和54年(1979)に廃止になりました。

この西鉄市内電車は、私が子供の頃は、平和台に野球を見に行ったり、叔母が馬出に住んでいましたので夏休みに遊びに行ったりして大変懐かしい電車です。

19歳ごろ車の免許を取り、それからは電車を利用しなくなりましたが、今、こうやって振り返ってみると懐かしさがこみ上げてきます。

小学校2年生の頃、親父の会社の上司が古小烏(ふるこがらす)のアパート(峯花台アパート)に住んでいました。(当時、アパートというとセレブの世界でした)

あるとき、その上司の所に遊びに行くということで姉と一緒に行きました。姪浜から城南線に乗り古小烏で下車、確か進行方向の左側にこのアパートはあったと記憶しています。

父の上司は、私が西鉄ライオンズきちがい(熱烈なファンの事)ということを知っており、その団地に西鉄の関口選手が住んでいることを知らされもう私は天に上るような気持でした。

残念ながら関口選手とは会えませんでしたが、何か初めてスター選手と知り合いになれたような気分でした。

その西鉄市内電車「城南線」を歩いてみようとこのウォークを企画しました。

城南線の電停名をマップの裏側に書きました。

集合場所は、博多駅の音羽公園、参加者は38名でした。9:30ウォーキング開始します。(電車の写真は西鉄アーカイブより引用させてもらってます)

 

  

那珂川を渡ると「柳橋」  三光園は、1926年(昭和元年)創業の老舗料亭でしたが、コロナの為、2020年(令和2年)閉館しました。

 

  

渡辺通りは、循環線と城南線の交差点。ホテルオークラの所には、電車の操車場がありました。電気ビルで休憩

   

休憩後再スタート

西鉄薬院駅の所は、「城東橋」電停でした。薬院新川にかかる城東橋が電停の名前でした。ここは、西鉄大牟田線の踏切になっていました。

   

薬院大通り  ここは高宮通と大正通が交差します。

 

南薬院(動物園前)  ここは、昔の電停名は、「古小烏(ふるこがらす)」でした。近くに「小烏神社」があり、この神社の祭神は、八咫烏(やたがらす)です。

           父の会社の上司のアパートは、薬院に向かって左側にありました。(峯花台アパート)

練塀町(ねりべいちょう)  現在の町名は、「桜坂」 近くに桜ヶ峯神社がありその「桜」とこの一帯坂道になっているのでその「坂」をとって「桜坂」になりました。

              昔、黒田長政が造った土塀から練塀町になったといわれています。

   

城南線はここから緩やかな坂を上り、六本松に向かいます。

  

六本松の福岡市科学館で休憩

 

休憩後再スタート

草香江  平安時代平清盛が博多に「袖の湊」を開いた当時の博多津を描いた住吉神社蔵「博多古図」には、現在の博多湾に当たる部分に東の「冷泉津」と西の「草香江」、博多中心部と

そこから橋で繋がれた「沖の浜」と言う出島があったと記されています。後年、筑前福岡藩初代藩主となった黒田長政により入り江の一部が埋め立てられ、天神を通り那珂川へ掘られた肥前堀と共に福岡城の外堀となり、さらに時代が下り、1929年(昭和4年)に大濠公園となりました。

 

大濠  

  

鳥飼 ~ 城西車庫 

城西車庫の跡地にには、現在西鉄系のスーパーが入居しています。

   

西新町  貫線との交差点

  

西新町で仮ゴールしここから高取焼窯元までは、希望者だけのウォークです。

 

福岡市早良区にある高取焼味楽窯は、江戸時代に窯が開かれて今年で300年を迎えた伝統ある窯元です。現在は第15代の亀井味楽さんが、第16代を継ぐ予定の息子さんと一緒に焼き物を

作り続けています。高取焼は福岡藩の御用窯として知られていますが、現在も市内にあって作陶しているのは味楽窯だけになりました。

  

 

    

 

 

 

 


やさしいウォーク「戒壇院の菩提樹と天満宮の菖蒲観賞」(福岡県太宰府市)

2024-06-10 18:27:27 | ふくおかウォーキング協会

6/6(木)ふくおかウォーキング協会やさしいウォークは、「戒壇院の菩提樹と天満宮の菖蒲観賞」でした。

集合場所は、西鉄都府楼前駅、参加者は28名でした。

都府楼がある大宰府は、和名では(おほみこともちのつかさ)といい、太宰帥(だざいそち)が司る所です。また、「大宰府」と「太宰府」は、一般に言って古代の役所を「大宰府」

中世以降は「太宰府」と呼んでいます。

9:30スタート   関屋へ、ここは、日田街道。コロナの時にこの道を通って日田まで歩きました。

 

 

 

筑前国分寺跡

聖武天皇は741年、日本全国に国分寺・国分尼寺を建て、七重塔に経典を収めると詔しました。こうして造られたのが、国分寺です。国分寺の総本山は、奈良の東大寺です。筑前国分寺は、

大宰府が管轄した西海道(九州)の中では最も早く、756年までに完成したとみられています。これまで金堂、講堂、七重塔、回廊など堂塔跡の遺跡調査が行われ、その成果に基づき整備されています。また、寺を囲む塀が残るところがあり、寺の範囲は192m四方とみられています。

 

  

太宰府文化ふれあい館で休憩。ここには、国分寺の七重塔の模型があります。

 

休憩後再スタート。

 

坂本八幡宮   もとは戦国時代の勧進と伝えられている神社で、祭神は応神天皇。坂本地区の守り神として、地元の方々によって大切に祀られてきました。 

また、新元号「令和」の起源となった「梅花の宴」が行われた大伴旅人邸跡の候補地の1つとしても注目を集めています。

 

令和になったころは、参拝客が多かったのですが、最近は参拝者も少なく落ち着きを見せています。

 

お詣りして次へ進みます。

 

 

都府楼跡

 

戒壇院  奈良時代、観世音寺に戒壇院が置かれました。戒壇とは僧侶として守るべき戒律を授けるところで、ここで戒を受けなければ正式の僧侶とは認められませんでした。

戒壇はここ大宰府の他に、奈良の東大寺、下野(栃木県)の薬師寺に置かれ、天下三戒壇と言われました。本尊の廬舎那仏は平安時代の作で、重要文化財に指定されています。

江戸時代に観世音寺を離れ、現在は禅寺となっています。(ふらっと大宰府より)

 

戒壇院の横に植樹されているのは中国原産のシナノキ科シナノキ属の落葉高木菩提樹(ボダイジュ)です。 この菩提樹は例年6月の上旬より香りの良い綺麗な花を咲かせます。

戒壇院にある菩提樹は奈良時代中期に来日した高僧鑑真和上が唐より請い受けて持ってきたといわれており、大宰府市指定の文化財となっています。

 

戒壇院から次へ進もうとしたら、木の上に「フクロウ」がいました。

 

 

 

白川橋の先の方に山上憶良が詠んだ「日本挽歌」があります。太宰の帥として赴任した大伴旅人の奥方が亡くなり、その心情を詠んだ歌です。

「妹が見し棟の花は散りぬべし わが泣く涙いまだ干なくに」(妻が生前に見たセンダンの花はもうすぐ散ろうとしている 私の泣く涙はいまだ乾かないというのに)

 

連歌屋とは、太宰府天満宮の連歌会所「連歌屋」があったことから地名としています。

 

今日のゴール太宰府天満宮へ

 

太宰府天満宮では、御祭神 菅原道真公(天神さま)に御縁の深い25という数に因み、25年毎に式年大祭を執り行い、御神威の甦りと天神信仰のさらなる発揚を繰り返してきました。
令和9年(2027)に、道真公が薨去(こうきょ)なされてから1,125年という大きな節目を迎えます。この節目となる式年大祭を前に、令和5年5月より約3年をかけ、124年ぶりに

重要文化財「御本殿」の大改修が行われています。

  

参拝を終え菖蒲園へ 

 

 

園児が菖蒲の絵を書いていました。

 

 

今日のGPSです。

 

 


楽しいウォーク「小郡のあじさい寺と城山公園を歩く」(福岡県小郡市)

2024-06-09 04:47:57 | ふくおかウォーキング協会

6/5(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「小郡のあじさい寺と城山公園を歩く」でした。

集合場所は、西鉄三国ヶ丘駅。参加者35人。

小郡のあじさい寺とは、如意輪寺のことで別名カエル寺・あじさい寺と呼ばれています。

集合場所は、西鉄三国ヶ丘駅。参加者35人。9:30スタート。

 

15分ぐらいで「如意輪寺(カエル寺)に到着。

 

すぐカエルがお出迎えです。

 

 

 

 

カエル寺の紫陽花です。

 

 

また、この時期風鈴も楽しめます。

 

 

 

カエル寺から城山公園に向かいます。

 

 

干潟の信号の所に昔の取引先がありました。

 

城山公園で休憩。城山公園は、兜の形をしたなだらかな山、花立山(城山)のふもとに広がる公園。4月は桜、5月はツツジ・藤、6月は菖蒲、夏の蓮、秋の銀杏と四季を通じて自然を

楽しむことができます。休憩後再スタート。

 

立石小学校の所に来ました。ここは、旧薩摩街道です。コロナで自粛中個人で歩いたことがあります。

 

 

 

 

12:10 西鉄大保駅にゴールしました。

 

 

 


6月例会「宮地嶽神社菖蒲祭りと潮風香る津屋崎千軒巡り」(福岡県福津市)

2024-06-07 06:33:52 | ふくおかウォーキング協会

6/1(土)ふくおかウォーキング協会6月例会は、「宮地嶽神社菖蒲祭りと潮風香る津屋崎千軒巡り」でした。

集合場所は、JR福間駅。この日は、JR九州ウォーキングも同じコースでした。

JRウォークは、9時スタートですが、30分前には約100人ぐらいの行列ができていました。それに比べ我がW協会は33人の参加です。

JRウォークスタート時に、当協会の6月分の予定表をJR参加者に配りました。このうち何人か参加してくれるかな?・・・・

9:30スタート

 

 

福間海岸へ

 

 

 

難しい字の石碑ですが、調べると「法華塔」です。昔の文字(江戸時代)で書かれています。

要は、昔、玄界灘での遭難者が潮流の関係でこの場所に流れ寄るので供養塔が建てられたそうです。

 

 

コースは、津屋崎町に入ります。津屋崎町は、福間町と合併し、両町の最初の文字をとって「福津市」になりました。

津屋崎千軒「なごみ」で休憩です。ここでは、JRウォーキングに合わせて抽選会が行われていました。

私も並んで抽選しましたが、「はずれ」です。私たちの仲間の方では、1等賞・2等賞が当たっていました。私ってくじ運が悪いのかな???

津屋崎千軒とは、商家が千軒も並ぶほど栄えた町並みという意味です。黒田長政公は、関ヶ原の戦いの論功行賞によりほぼ筑前一国を与えられ博多に入りました。

津屋崎は、博多の外港として発展し、交易が盛んになってきました。そして裕福な商人が生まれ長政公の家来の佐治家は士官を断り、酒造りを始めました。また、江戸時代中期の

寛保3年には、大社元七氏が塩づくりを始め、大規模な塩田で働く人は、400人もにも達し、廻船問屋の吉原家も塩取引に加わりました。

塩は、五十集船で日本海沿岸各地に運ばれ、鉄や日用雑貨、食糧を仕入れて帰港しました。それらの商品は、宗像・糟屋・筑豊へと運ばれ販売されましたので、津屋崎港は、出船入船で

大変賑わいました。明治23年〈1890)に鉄道が旧福間町を走り、明治38年にの塩の専売制により、製塩や海上交易の拠点として栄えた津屋崎は活気を失いました。

平成18年には、水産庁から全国の「未来に残したい漁業漁村の文化財百選」に選定されました。

 

  

津屋崎の町中を歩きます。

  

西鉄貝塚線は、かつて宮地岳線と呼ばれ、貝塚から津屋崎迄運行していましたが、2007年(平成19年)新宮~津屋崎迄が廃止されました。

旧津屋崎駅には、電車延長記念碑が建っています。

 

 

福津カメリアステージを通り「宮地嶽神社」へ。宮地嶽神社は、息長足比売命(神功皇后)を祭神としています。

 

宮地嶽神社では、現在「菖蒲祭り」が開催されています。

  

  

  

宮地嶽神社の境内には、「ふくろう」が2羽います。正直者がモマ(フクロウ」を介し、黄金の玉を授かったという言い伝えがあるそうです。

 

宮地嶽神社からゴールの福間駅に向かいます。12:26福間駅にゴールしました。

 

 

 

 


楽しいウォーク「大野城・御笠川河畔を散策」(福岡県大野城市)

2024-06-04 07:38:33 | ふくおかウォーキング協会

5/29(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「大野城・御笠川河畔を散策」でした。

集合場所は、西鉄下大利駅。参加者は33人でした。

 

西鉄天神大牟田線は、22年8月に雑餉隈~下大利駅間の高架工事が終了しましたが、まだ各駅周辺の工事が残っています。

これも令和6年中には、完成の見込みです。

 

出発式の後9:30スタート

 

 

まどかぴあで休憩

  

休憩後再スタート。歩いていると幼稚園園児と遭遇。園児たちとハイタッチをかわします。

 

この一帯は、福岡空港に近く5分おきぐらいに飛行機が着陸態勢で飛んでいきます。いろんな航空会社の飛行機があります。

 

 

仲畑中央公園で休憩

 

西鉄自動車学校近くでは、この地の出身の副会長から説明を受けます。

 

このあと、「御笠の森」へ。

大野北小学校正門前の県道36号線をへだてて、北西300メートル程の山田児童公園の横に森があって、昔から「御笠の森(みかさのもり)」とよばれています。
日本で最も古い歴史の本といわれている「日本書紀(にほんしょき)」や、元禄時代に書かれた「筑前国続風土記(ちくぜんこくぞくふどき)」という本に

仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)のお后である神功皇后(じんぐうこうごう)が、荷持田(のとりだ)(甘木市秋月字野鳥)に住む羽白熊鷲(はじろくまわし)という豪族を従わせようとして、香椎の宮(福岡市東区香椎)から松峡宮(まつのおのみや)(朝倉郡夜須町)へ向かわれていると、突然つむじ風が起こり皇后の被られていた笠が吹き飛ばされて、この森の木にひっかかったため御笠の森というようになった。そして、この地方の地名も御笠郡と名付けられた。と書かれております。

「笠が飛んだ話」
武内宿彌(たけのうちのすくね)以下大勢の軍兵を率いて、香椎の宮から唐山峠(からやまとうげ)を越えて大野に出られ、宝満山から流れ出て博多湾にそそぐ川(御笠川)のほとりを、荷持田をめざして南に向かわれた神功皇后が、筒井の辺りまで進まれたときに、いたずらなつむじ風が皇后の笠を奪ってしまったのです。そこで土地の人たちは笠がぬげたところに「笠抜ぎ」という地名をつけました。今の大野城市上筒井字笠抜の地名は、こうして起こったということです。

皇后の笠が吹き飛ばされたのにびっくりしたお供の人たちは、急いでその笠を追いかけましたが、空高く舞い上がった笠は風に乗ってくるくる廻りながら、北へ北へと飛んで行って、1キロメートルはなれた山田の森の、大きな楠の木の梢にかかっていました。
やっと森までたどりついたお供の人は、早速この笠を取ろうとしますが、高い梢に笠のひもがまきついて、どうしても取ることができません。お供の人たちは大変困っておりました。
そのさわぎを見つけて村人たちも集まって来ました。事情を聞いた村長(むらおさ)は、森の神様にお願いして取っていただく以外に方法はないと思い、お供の人たちと相談しました。そして森の前の田んぼの中で、神様に奉納(ほうのう)する舞がはじまりました。するとどうでしょう。枝にからまっていた笠のひもは、ひとりでにするするとけて、笠はひらひらと舞人の上に舞い下りてきました。大変喜んだ村人たちは、そこを「舞田(まいでん)」と呼ぶようになりました。

今の大野城市山田大字御笠の森通称舞田の、地名の由来を知る人はほとんどありませんが、児童公園となって、子どもたちが蝶のように舞い遊ぶ姿は、舞田の地名にふさわしく、御笠の森の神様もきっと喜んでおられることでしょう。

こうして「御笠の森」「御笠郡」の名がつけられ、川の名も「御笠川」というようになったということです。

 

御笠の森から旧3号線に向かいます。このあたりは、雑餉隈(ざっしょのくま)です。※難解地名です。

雑餉隈地区は、中世以降博多宿と二日市宿の中間に位置し、間の宿として旅籠や茶店、日用雑貨の商店が軒を並べて繁栄していた宿場町であった為、商売繁盛の神である恵比寿様と

防火の神であり、疫病の侵入を防ぐ塞神でもある愛宕様を宿場の鎮護の神として勧請しました。

 

恵比寿神社の横には、道標があります。

西、那珂郡、東、御笠郡。南面、筒井村(現大野城市)抱、北面、井相田(いそうだ)抱(現福岡市)。実物は、保存の為大野城市歴史資料展示室に展示されているそうです。

那珂郡は、春日市全域、大野城市一部、那珂川市全域、博多区・南区・東区一部。御笠郡は、筑紫野市・太宰府市全域、大野城市大部分。

 

ゴールの西鉄春日原駅が見えてきました。

11時50分春日原駅にゴールしました。

 

 

 

 

 

 

 


楽しいウォーク「外環状線を歩く(姪浜から福大まで)」(福岡市西区~早良区~城南区)

2024-05-27 07:49:25 | ふくおかウォーキング協会

5/22(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「外環状線を歩く(姪浜から福大まで)」でした。

集合場所は、地下鉄姪浜駅。参加者41名。

 

外環状線は、国道202バイパスで、西区拾六町から博多区立花寺(りゅうげじ)迄の16kmです。都市高速道の下を通ります。

今日は、そのうち姪浜から福大前までを歩きます。

9:30スタート

 

ホームセンターで休憩

 

休憩後再スタート

 

 

室見川を渡ります。

室見川の所に隈 研吾さんが設計したもつ鍋「万十屋」があります。すき焼き風のもつ鍋の元祖です。

「もつ」というのは、牛や豚の内臓(臓物ぞうもつ)です。昔は捨てられる(ほーるもん)ことが多かったのですが、捨てることを意味しホルモンと呼ばれた。

然し、戦後の食糧難でこのホルモン(もつ)が貴重なたんぱく源として見直されるようになりました。

万十屋は、創業70余年になります。
もともと、おまんじゅうを作っていたことが店の名前の由来となりました。
終戦前後の食糧難で原材料の砂糖や小麦粉がてにはいらず、「まんじゅう」が作れなくなった時に、唐津(佐賀県)の行商人が扱っていた牛もつに初代女将が着目し、もつ鍋を

生み出しました。その後、二代目女将がもつや野菜の種類、量などの試行錯誤を続け、現在の万十屋のもつ鍋が完成しました。

 

室見川を渡ると早良区です。田村中央公園で休憩。

 

休憩後再スタート。今日の参加者の中に田隈小学校卒業生がおられました。

 

梅林ぐらいから城南区です。

 

 

12:20 福大前にゴールしました。

今日のGPSです。

 

 

 

 

 

 


サタデーウォーク「七寺川から野外センターを巡る」(福岡市西区)

2024-05-25 18:17:31 | ふくおかウォーキング協会

5/18(土)ふくおかウォーキング協会のサタデーウォークは、「七寺川から野外センターを巡る」でした。

集合場所は、JR筑肥線今宿駅。参加者は、32名。

 

9:30 スタート

 

七寺川は今宿野外センターの方から長垂海岸の方に流れる川です。

俗に鯰川(なまずかわ)とも呼ばれ、地元の方にはその方が親しみやすいかもしれません。七寺川は河口近くの鯰川橋のところでもう1つの川と合流しますが、実は七寺川と

合流するこの小さな川が鯰川なのです。しかし、昔から七寺川全体を鯰川と思っている人も多いようです。

七寺川は高祖山、高地、叶ヶ嶽などいわゆる高祖山系を源流にもつ2級河川で、野外センター付近の2本の川がこの川の源となっています。

この七寺川の名前の由来は、今宿、上ノ原にある鉢伏山金剛寺が持っていた7つの子院(寺)から名付けられたとされています。

川の名の由来になった寺の名前については、諸説あります。「筑前国続風土記付録」の中の怡土群上原村の項に記されているのは、帰来寺・寿福寺・東光寺・常楽寺・寶憧寺(ほうとうじ)・金さん寺・長福寺の7つの寺です。この他にも、周船寺にある龍松寺なども名前があがっていますがはっきりしません。

風土記の中にある寺で現在、今宿に残っているのは常楽寺と金さん寺のふたつだけです。寿福寺は今津、東光寺は姪浜へそれぞれ移転し、長福寺は順光寺と改名しました。

残りの寺の消息は不明です。(今宿タイムスより)

 

今宿青木公園で休憩

 

ここから上り坂です。

約1時間で今宿野外センターに到着。

 

今宿野外センターは、これから夏休みにかけ子供たちのキャンプなどで賑わいます。また、高祖山の登山縦走コースでもあります。

 

 

休憩後再スタート

 

 

 

今日の目玉は、江戸時代前期「農業全書」を出版した「宮崎安貞書斎」訪問です。

安貞は、安芸国(現:広島市)の出身でしたが、25歳頃から福岡藩に仕えることになりました。28歳のとき、藩から京都に遊学するよう命を受け、そこで農業に詳しい儒学者の貝原益軒と

出会います。益軒から農業について学んだことがきっかけで、その後は自ら希望して農業に従事することを決めました。

やがて安貞は、大蔵永常(おおくら・ながつね)、佐藤信淵(さとう・のぶひろ)とともに江戸時代の三大農学者と呼ばれるまでになりました。安貞は農耕のかたわら農業技術の改良に努め、全国各地を回って経験豊富な老農からノウハウの聞き取り調査を行いました。

安貞は研究熱心な人でしたが、学問だけに没頭せず、農民たちと共に開墾したり作業したりしました。その合間に中国の農業書を読みあさり、時間を見つけては日本全国を回り、話を聞いてまとめることを繰り返しました。これらの背景には、師である益軒が社会のためになる学問を目指していたことが影響しているのではないかと考えられます。

そして、40年にわたるこの作業をまとめあげたのが『農業全書』だったのです。『農業全書』を刊行した年の7月、宮崎安貞は75歳で亡くなりました。

長年の農業への思いを遂げて往生したと言えるのではないでしょうか。(マイナビ農業より)

 

ちょうど西区歴史探訪の一行が訪れていましたので、一行が帰った後、宮崎安貞書斎管理人の三島氏に安貞のことを説明していただきました。

 

 

宮崎安貞書斎からゴールの九大学研都市に向かいます。

 

12:04 九大学研都市駅にゴールしました。

 

今日のGPS

今日は午後2時よりみずほPAYPAYドームでプロ野球のチケットをゲットしていましたので九大学研都市駅から直行しました。

ピンクユニフォームデーということで球場内は、ピンクに染まりました。