1773年の今日(12月16日)は、「ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」のあった日。
1773年12月16日、東インド会社に植民地への茶輸出の独占権を与える「茶法」に怒ったボストン市民が輸入された茶を港内に投げ捨てる事件がおこった。
なんだ?、そんな事件がと思う人がいるかもしれないが、この事件こそ、イギリス本国と植民地アメリカの対立がピークに達し、アメリカ独立戦争に発展してゆくこととなった大事件なのである。
アメリカ・マサチューセッツ州ボストン。このボストン市内に独立戦争に関わる史跡が、フリーダムトレイル(自由への道)として整備されている。この道に、このボストン茶会事件の謀議を行ったとされるオールド・サウス集会場、独立宣言が高らかに読み上げられた旧州会議事堂などが有り、また、ウォーターフロント地区には、ビーバー2世号というボストン茶会事件当時の東インド会社船を復元した木造帆船が停泊しており、隣接する建物とともにボストン茶会事件船・博物館として公開されている。
当時、アメリカには、イギリスによって造られた植民地が13あった。《最初に造られたのがヴァージニア植民地(1607年)、13番目がジョージア植民地(1732))
「ボストン茶会事件」は、フレンチ・インディアン戦争後、イギリスは戦費回収のために、13植民地の住民に対し砂糖法(1764年)、印紙法(1765年)など様々な税を新設した。これに対し反発した13植民地は反対運動を展開し、イギリスからの独立を求める空気が急速に高まった。とくに、茶法(1773年)制定に対しては,植民地(ボストン)住民は、指導者のサミュエル・アダムズを中心にアメリカ先住民(インディアン)に変装し、ボストン湾に停泊していた東インド会社の船を襲撃、その積み荷(342個の茶箱)を海に投げ捨てボストン湾全体をティーポットにしてしまうという抗議行動に出た(ボストン茶会事件)。そこでイギリスは港を封鎖するなど強圧的措置をとって報復にでたため、イギリスと13植民地との対立はもはや修復不可能なものになった。
そこで、庶民地住民側は、1774年9月に第1回大陸会議を開く。これはジョージア以外の12の植民地から、各植民地議会より選出された50人の代議員が集まった会議である。そして、第1回会議に於いてはイギリス国王ジョージ3世にイギリスとの和解の助力を要請する「権利の宣言」という陳情書を送り、一方、陳情書が認められない場合に備えて、イギリス製品のボイコットなどをすすめる大陸同盟の結成も決議する。結局、この陳情書は認められず、この大陸会議がそのまま、今のアメリカ政府に発展していくことになる。そして1775年4月19日。ボストン北西郊外のレキシントンで、イギリス軍とアメリカ植民地の民兵による武力衝突が起こり、全面的な戦争に突入していくのである。又、第2回の大陸会議も招集され、この時に代議員として登場したのがジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズといった、その後のアメリカをリードしていくことになる人々である。そしてこの大陸会議に於いてワシントンを最高司令官に大陸軍を組織することが決定したのである。
ついでにお茶の話を・・・西欧に初めてお茶を伝えたのはオランダの東インド会社であるが、それは紅茶ではなく緑茶であったそうだ。1823年、イギリスの冒険家ブルースがインドのアッサム地方で自生の茶木を「発見」し、後にそれが中国種とは別のものであることが確認された。また1845年、緑茶と紅茶は製法の過程が違うだけで原料は同じだと言うことを「発見」。これらの「発見」により、アッサム種と中国種との交配が進み、インド、スリランカで茶の栽培がはじめられたのだそうだ。
(画像は、「ヨークタウンのコーンウォリス将軍包囲」の画。以下参考の「アメリカ独立戦争 ( Wikipedia)より」
参考:
アメリカ独立戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
アメリカ独立革命
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-77.html
フレンチ・インディアン戦争(1754-1763)
http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/america/french.htm
ボストンの美術館・博物館
http://www.pockyboston.com/museum/museum.html
1773年12月16日、東インド会社に植民地への茶輸出の独占権を与える「茶法」に怒ったボストン市民が輸入された茶を港内に投げ捨てる事件がおこった。
なんだ?、そんな事件がと思う人がいるかもしれないが、この事件こそ、イギリス本国と植民地アメリカの対立がピークに達し、アメリカ独立戦争に発展してゆくこととなった大事件なのである。
アメリカ・マサチューセッツ州ボストン。このボストン市内に独立戦争に関わる史跡が、フリーダムトレイル(自由への道)として整備されている。この道に、このボストン茶会事件の謀議を行ったとされるオールド・サウス集会場、独立宣言が高らかに読み上げられた旧州会議事堂などが有り、また、ウォーターフロント地区には、ビーバー2世号というボストン茶会事件当時の東インド会社船を復元した木造帆船が停泊しており、隣接する建物とともにボストン茶会事件船・博物館として公開されている。
当時、アメリカには、イギリスによって造られた植民地が13あった。《最初に造られたのがヴァージニア植民地(1607年)、13番目がジョージア植民地(1732))
「ボストン茶会事件」は、フレンチ・インディアン戦争後、イギリスは戦費回収のために、13植民地の住民に対し砂糖法(1764年)、印紙法(1765年)など様々な税を新設した。これに対し反発した13植民地は反対運動を展開し、イギリスからの独立を求める空気が急速に高まった。とくに、茶法(1773年)制定に対しては,植民地(ボストン)住民は、指導者のサミュエル・アダムズを中心にアメリカ先住民(インディアン)に変装し、ボストン湾に停泊していた東インド会社の船を襲撃、その積み荷(342個の茶箱)を海に投げ捨てボストン湾全体をティーポットにしてしまうという抗議行動に出た(ボストン茶会事件)。そこでイギリスは港を封鎖するなど強圧的措置をとって報復にでたため、イギリスと13植民地との対立はもはや修復不可能なものになった。
そこで、庶民地住民側は、1774年9月に第1回大陸会議を開く。これはジョージア以外の12の植民地から、各植民地議会より選出された50人の代議員が集まった会議である。そして、第1回会議に於いてはイギリス国王ジョージ3世にイギリスとの和解の助力を要請する「権利の宣言」という陳情書を送り、一方、陳情書が認められない場合に備えて、イギリス製品のボイコットなどをすすめる大陸同盟の結成も決議する。結局、この陳情書は認められず、この大陸会議がそのまま、今のアメリカ政府に発展していくことになる。そして1775年4月19日。ボストン北西郊外のレキシントンで、イギリス軍とアメリカ植民地の民兵による武力衝突が起こり、全面的な戦争に突入していくのである。又、第2回の大陸会議も招集され、この時に代議員として登場したのがジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・アダムズといった、その後のアメリカをリードしていくことになる人々である。そしてこの大陸会議に於いてワシントンを最高司令官に大陸軍を組織することが決定したのである。
ついでにお茶の話を・・・西欧に初めてお茶を伝えたのはオランダの東インド会社であるが、それは紅茶ではなく緑茶であったそうだ。1823年、イギリスの冒険家ブルースがインドのアッサム地方で自生の茶木を「発見」し、後にそれが中国種とは別のものであることが確認された。また1845年、緑茶と紅茶は製法の過程が違うだけで原料は同じだと言うことを「発見」。これらの「発見」により、アッサム種と中国種との交配が進み、インド、スリランカで茶の栽培がはじめられたのだそうだ。
(画像は、「ヨークタウンのコーンウォリス将軍包囲」の画。以下参考の「アメリカ独立戦争 ( Wikipedia)より」
参考:
アメリカ独立戦争 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
アメリカ独立革命
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-77.html
フレンチ・インディアン戦争(1754-1763)
http://www.h4.dion.ne.jp/~room4me/america/french.htm
ボストンの美術館・博物館
http://www.pockyboston.com/museum/museum.html