今日(12月20日)は「霧笛記念日」
1879(明治12)年」12月20日、津軽海峡の本州側東海岸にある尻屋崎灯台に、日本で初めて霧笛が設置された。
青森県下北半島の東北端に位置し、津軽海峡と太平洋を仕切るところで,沖合1600mに暗礁があり、昔から難所として知られている。その暗礁を照らす照射灯が設けられている。1876(明治9)年、東北地方で最初の灯台として建設され、当時は石油灯であったが、1901(明治34)年に日本初の自家発電による電気式燈台となった。現在の光度は200万カンデラで日本最大らしい。この燈台は、光波・音波・電波による総合的な航路標識として機能し、総合燈台と呼ばれているそうだ。
船舶が海上での位置を知るための道しるべとなる岬・港湾に立つ灯台や無線方位信号所、霧信号所などを航路標識と呼んでいる。
航路標識の中で、視界が悪いときに音で船舶に位置を知らせる音波標識として、霧信号所があり、これは、「霧笛」とも呼ばれているが、霧が出やすく灯台の明かりが見えにくくなるたいていは灯台と同じ場所に設置されていて、その鳴り方(周期=鳴っている時間と休んでいる時間の間隔)が灯台毎に異なっているために、どこから発せられているか識別できるようになっているのだそうだ。現在も霧笛を出す灯台は20弱残っているようである。ただ最近は電波 による位置の確認技術が進んでいるため霧信号所を廃止する所が多くなっており、この尻屋崎灯台の霧笛も1994年に廃止されてしまったようだ。
灯台(とうだい)と言われているものは、航路標識の中の光波標識の一種であり、正しくは航路標識灯と言う。岬の先端や港内に設置され、コンクリートやレンガなどでできた塔状の形をしており、最上部には数キロ先からでも識別可能な強力な光源がある。夜間には光源が明滅(大型のものは、指向性を持ったレンズを回転させている)し、航行する船舶が明滅周期により場所を識別する目印にされている。記録に残る最古の灯台は、紀元前7世紀にエジプトのナイル河口の寺院の塔上で火を焚いたことに始まると言われている。日本最初の灯台については、839(承和6)年に復路離散した遣唐使船の目印として、九州各地の峰で篝火を焚かせたと続日本後記にあるのが最初と言われている。江戸時代に入り、海運が盛んになると、日本式の灯台である灯明台や常夜灯が岬の上や港に近い神社の境内などに設置されるようになった。現役最古の灯台は兵庫県西宮市にある今津灯台で、1858(安政5)年に再建されたものが航路標識として海上保安庁から正式に承認されているそうだ。灘五郷の東端が今津郷である。かつて酒の積み出しでにぎわった港に建つ和風灯籠形灯台は酒造家・長部家(現大関)の5代目当主・長兵衛が、船の出入りの安全を願い1810(文化7)年に、私費を投じて建造したもので、。現在の灯台は6代目当主・文治郎が再建したものを基本に復元されたもので、正式名称は「大関酒造今津灯台」と言うそうだ。木造の袴腰付灯籠形行灯式灯台で、建設当時は油を燃料にしていた。現在の今津港あたりはヨットハーバーのような景観になってしまったが、今津灯台だけは昔ながらの姿で電灯に代わった今も港の安全を見守っている。又、日本最初の洋式灯台は1869(明治2)年に点灯した観音崎灯台である。着工した1868年(明治元年)11月1日(新暦)が灯台記念日となっている。日本の開国は1854(嘉永7=安政元)年であるが、日本近海は暗礁も多い上、光達距離の短い灯明台や常夜灯の設置のみで航路標識の体系的な整備が行われていなかったため諸外国から「ダークシー」と呼ばれておそれられた。このため1866(慶応2)年5月にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヶ国と結んだ改税約書(租税条約、江戸条約)の中で8ヶ所の灯台、翌1867年4月にイギリスと結んだ大坂約定(大坂条約)の中で5ヶ所の灯台を整備することが定められた。明治維新による政権交代があったため着工が1年遅れたが、順次建設された。これらの設計・建設には、お雇い外国人である英国人、リチャード・ヘンリー・ブラントンなどが携わった。リチャード・ヘンリー・ブラントンは、1868(明治元)年8月、妻子及び助手2人を伴って来日。当時26歳。この時から1876(明治9)年までの日本滞在中に、26の灯台、5箇所の灯竿、2艘の灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げた。また灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだ。
和田岬灯台(兵庫県)は、大坂条約の中で5基の洋式灯台の建設を約束した。和田岬灯台はこの中の一つで兵庫の開港を前に設置されたものである。初代の灯台は1871(明治4)年に完成し、1872(明治5)年10月1日に初点灯された。このときの建物は八角型の木製灯台で、後に1884(明治17)年二代目となる鉄製灯台に改築され、1963(昭和38)年に廃灯になるまで神戸初の水族館「和楽園」や和田岬砲台などのあった和田岬に設置されていた。現在残る鉄製の灯台は「日本の灯台の父」と称されるイギリス人リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計されたもので、高さが15.76メートルの三階建て、初代とは異なって六角形の形をしている。またこの2代目灯台は現存する日本最古の鉄製灯台で歴史的文化財的価値が高く、1998年(平成10年)には国の登録有形文化財に指定され、和田岬から須磨海浜公園に移設保存されている。尻屋埼灯台(青森県)も彼の建造によるものである。
その後、海運の発展とともに航路標識の整備も進み、第二次世界大戦直前期には400基を数えるようになったが、依然として諸外国の水準とは隔たりがあり、「ダークシー」と呼ばれる状況は続いた。昭和初期になっても式根島(東京都新島本村式根島)では私設灯明台が建てられている。この 1935(昭和10)年頃、ッ船の往来の烈しかった瀬戸内海は濃霧による船の事故が続いていたようであり、その時の状況は、以下参考の「新聞記事文庫:海運」を見ても良くわかる。
灯台と言えば、1957(昭和32)年に製作された木下恵介監督の映画「喜びも悲しみも幾年月」を思い出す。この映画は、実在の灯台守の妻・田中キヨの手記に基づいて作られたもの。灯台守の夫婦を佐田啓二と高峰秀子が演じていた。夫婦は、戦争の影の迫る昭和初期(昭和7年)の神奈川県観音崎灯から始まって、北海道から九州まで各地の灯台を転勤して回り,、その間、苦難を共にして生きていく夫婦の姿を描いたものである。この映画は、先月、NHKのBSでも再放映されていたが、心に残る名画の一つだ。「おいら岬の~灯台守は~」この映画の主題歌、若山 彰の朗々と歌うあげる歌も良かったな~。しかし、かつて灯台といえば、この映画に描かれた僻地の灯台に暮す灯台職員のイメージと強く結び付いたが、、現在では、無人化が進み、ごく一部の灯台で、数日間交代で職員が滞在するケースが残されているだけで、かつてのような住み込み勤務は全くなくなったという。先に挙げた屋埼灯台(青森県)は今も、職員の勤務する数少ない燈台だそうだ。
下は、映画「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」歌詞つきMIDIです。歌を聴きながら、名画の名場面を思い起こしてみては・・・。
MIDI「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」作詞・作曲:木下忠司、唄:若山 彰
(画像は「和田岬の灯台」神戸市須磨区に保存)
参考:
灯台 ( Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AF%E5%8F%B0
航路標識法
http://kaiun.hourei.info/kaiun43.html
灯台用語集
http://gauss0jp.hp.infoseek.co.jp/tyougo.htm
リャード・ヘンリー・ブラントンの灯台
http://www.k-oka.com/kiminchi.htm
灯台の歴史について
http://www.kaiho.mlit.go.jp/05kanku/osaka/syoukai/history.htm
新聞記事文庫:海運
霧禍を解消せよ! : 魔の瀬戸内海に”霧笛信号機”設置 : 関係一府六県を一丸として交通安全運動起る (大阪毎日新聞 1935.7.5 (昭和10))
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00159563&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00159563
灯台事始め一覧
http://www.kaiho.mlit.go.jp/01kanku/muroran/hoanbu/toudai/kotohajime.html
日本船主協会:208 無人化が進んだ現代の大型沿岸灯台
http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_208.html
尻屋埼燈台
http://hp1.cyberstation.ne.jp/toudai/siriya.html
歴史街道(酒蔵のある町・伊丹と西宮 )
http://www.asahi.co.jp/rekishi/04-01-20/01.htm
1879(明治12)年」12月20日、津軽海峡の本州側東海岸にある尻屋崎灯台に、日本で初めて霧笛が設置された。
青森県下北半島の東北端に位置し、津軽海峡と太平洋を仕切るところで,沖合1600mに暗礁があり、昔から難所として知られている。その暗礁を照らす照射灯が設けられている。1876(明治9)年、東北地方で最初の灯台として建設され、当時は石油灯であったが、1901(明治34)年に日本初の自家発電による電気式燈台となった。現在の光度は200万カンデラで日本最大らしい。この燈台は、光波・音波・電波による総合的な航路標識として機能し、総合燈台と呼ばれているそうだ。
船舶が海上での位置を知るための道しるべとなる岬・港湾に立つ灯台や無線方位信号所、霧信号所などを航路標識と呼んでいる。
航路標識の中で、視界が悪いときに音で船舶に位置を知らせる音波標識として、霧信号所があり、これは、「霧笛」とも呼ばれているが、霧が出やすく灯台の明かりが見えにくくなるたいていは灯台と同じ場所に設置されていて、その鳴り方(周期=鳴っている時間と休んでいる時間の間隔)が灯台毎に異なっているために、どこから発せられているか識別できるようになっているのだそうだ。現在も霧笛を出す灯台は20弱残っているようである。ただ最近は電波 による位置の確認技術が進んでいるため霧信号所を廃止する所が多くなっており、この尻屋崎灯台の霧笛も1994年に廃止されてしまったようだ。
灯台(とうだい)と言われているものは、航路標識の中の光波標識の一種であり、正しくは航路標識灯と言う。岬の先端や港内に設置され、コンクリートやレンガなどでできた塔状の形をしており、最上部には数キロ先からでも識別可能な強力な光源がある。夜間には光源が明滅(大型のものは、指向性を持ったレンズを回転させている)し、航行する船舶が明滅周期により場所を識別する目印にされている。記録に残る最古の灯台は、紀元前7世紀にエジプトのナイル河口の寺院の塔上で火を焚いたことに始まると言われている。日本最初の灯台については、839(承和6)年に復路離散した遣唐使船の目印として、九州各地の峰で篝火を焚かせたと続日本後記にあるのが最初と言われている。江戸時代に入り、海運が盛んになると、日本式の灯台である灯明台や常夜灯が岬の上や港に近い神社の境内などに設置されるようになった。現役最古の灯台は兵庫県西宮市にある今津灯台で、1858(安政5)年に再建されたものが航路標識として海上保安庁から正式に承認されているそうだ。灘五郷の東端が今津郷である。かつて酒の積み出しでにぎわった港に建つ和風灯籠形灯台は酒造家・長部家(現大関)の5代目当主・長兵衛が、船の出入りの安全を願い1810(文化7)年に、私費を投じて建造したもので、。現在の灯台は6代目当主・文治郎が再建したものを基本に復元されたもので、正式名称は「大関酒造今津灯台」と言うそうだ。木造の袴腰付灯籠形行灯式灯台で、建設当時は油を燃料にしていた。現在の今津港あたりはヨットハーバーのような景観になってしまったが、今津灯台だけは昔ながらの姿で電灯に代わった今も港の安全を見守っている。又、日本最初の洋式灯台は1869(明治2)年に点灯した観音崎灯台である。着工した1868年(明治元年)11月1日(新暦)が灯台記念日となっている。日本の開国は1854(嘉永7=安政元)年であるが、日本近海は暗礁も多い上、光達距離の短い灯明台や常夜灯の設置のみで航路標識の体系的な整備が行われていなかったため諸外国から「ダークシー」と呼ばれておそれられた。このため1866(慶応2)年5月にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヶ国と結んだ改税約書(租税条約、江戸条約)の中で8ヶ所の灯台、翌1867年4月にイギリスと結んだ大坂約定(大坂条約)の中で5ヶ所の灯台を整備することが定められた。明治維新による政権交代があったため着工が1年遅れたが、順次建設された。これらの設計・建設には、お雇い外国人である英国人、リチャード・ヘンリー・ブラントンなどが携わった。リチャード・ヘンリー・ブラントンは、1868(明治元)年8月、妻子及び助手2人を伴って来日。当時26歳。この時から1876(明治9)年までの日本滞在中に、26の灯台、5箇所の灯竿、2艘の灯船などを建設し、日本における灯台体系の基礎を築き上げた。また灯台技術者を育成するための「修技校」を設け、後継教育にも心血を注いだ。
和田岬灯台(兵庫県)は、大坂条約の中で5基の洋式灯台の建設を約束した。和田岬灯台はこの中の一つで兵庫の開港を前に設置されたものである。初代の灯台は1871(明治4)年に完成し、1872(明治5)年10月1日に初点灯された。このときの建物は八角型の木製灯台で、後に1884(明治17)年二代目となる鉄製灯台に改築され、1963(昭和38)年に廃灯になるまで神戸初の水族館「和楽園」や和田岬砲台などのあった和田岬に設置されていた。現在残る鉄製の灯台は「日本の灯台の父」と称されるイギリス人リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計されたもので、高さが15.76メートルの三階建て、初代とは異なって六角形の形をしている。またこの2代目灯台は現存する日本最古の鉄製灯台で歴史的文化財的価値が高く、1998年(平成10年)には国の登録有形文化財に指定され、和田岬から須磨海浜公園に移設保存されている。尻屋埼灯台(青森県)も彼の建造によるものである。
その後、海運の発展とともに航路標識の整備も進み、第二次世界大戦直前期には400基を数えるようになったが、依然として諸外国の水準とは隔たりがあり、「ダークシー」と呼ばれる状況は続いた。昭和初期になっても式根島(東京都新島本村式根島)では私設灯明台が建てられている。この 1935(昭和10)年頃、ッ船の往来の烈しかった瀬戸内海は濃霧による船の事故が続いていたようであり、その時の状況は、以下参考の「新聞記事文庫:海運」を見ても良くわかる。
灯台と言えば、1957(昭和32)年に製作された木下恵介監督の映画「喜びも悲しみも幾年月」を思い出す。この映画は、実在の灯台守の妻・田中キヨの手記に基づいて作られたもの。灯台守の夫婦を佐田啓二と高峰秀子が演じていた。夫婦は、戦争の影の迫る昭和初期(昭和7年)の神奈川県観音崎灯から始まって、北海道から九州まで各地の灯台を転勤して回り,、その間、苦難を共にして生きていく夫婦の姿を描いたものである。この映画は、先月、NHKのBSでも再放映されていたが、心に残る名画の一つだ。「おいら岬の~灯台守は~」この映画の主題歌、若山 彰の朗々と歌うあげる歌も良かったな~。しかし、かつて灯台といえば、この映画に描かれた僻地の灯台に暮す灯台職員のイメージと強く結び付いたが、、現在では、無人化が進み、ごく一部の灯台で、数日間交代で職員が滞在するケースが残されているだけで、かつてのような住み込み勤務は全くなくなったという。先に挙げた屋埼灯台(青森県)は今も、職員の勤務する数少ない燈台だそうだ。
下は、映画「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」歌詞つきMIDIです。歌を聴きながら、名画の名場面を思い起こしてみては・・・。
MIDI「喜びも悲しみも幾歳月(いくとしつき)」作詞・作曲:木下忠司、唄:若山 彰
(画像は「和田岬の灯台」神戸市須磨区に保存)
参考:
灯台 ( Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AF%E5%8F%B0
航路標識法
http://kaiun.hourei.info/kaiun43.html
灯台用語集
http://gauss0jp.hp.infoseek.co.jp/tyougo.htm
リャード・ヘンリー・ブラントンの灯台
http://www.k-oka.com/kiminchi.htm
灯台の歴史について
http://www.kaiho.mlit.go.jp/05kanku/osaka/syoukai/history.htm
新聞記事文庫:海運
霧禍を解消せよ! : 魔の瀬戸内海に”霧笛信号機”設置 : 関係一府六県を一丸として交通安全運動起る (大阪毎日新聞 1935.7.5 (昭和10))
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00159563&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00159563
灯台事始め一覧
http://www.kaiho.mlit.go.jp/01kanku/muroran/hoanbu/toudai/kotohajime.html
日本船主協会:208 無人化が進んだ現代の大型沿岸灯台
http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_208.html
尻屋埼燈台
http://hp1.cyberstation.ne.jp/toudai/siriya.html
歴史街道(酒蔵のある町・伊丹と西宮 )
http://www.asahi.co.jp/rekishi/04-01-20/01.htm