今日(12月23日)は「一心太助 (魚屋)」の忌日?
「今日は何の日」の記念日を見ていると、1674(延宝2)年の今日(12月23日)が 「一心太助 (魚屋)」 の死亡した日となっている。何を根拠に一心太助の忌日と言っているのかは知らないが、一心太助 と言えば、江戸時代初期、一介の町人であるが、その義気を、天下のご意見番「大久保彦左衛門」に愛されたといわれる人物。太助が愛称で、腕に「一心白道(いっしんびゃくどう)」の4文字の入れ墨があったところから一心太助と称されたという。大久保彦左衛門と一心太助の物語は鶴屋南北の弟子で江戸末から明治にかけて活躍した河竹黙阿弥(1816-1893)が書いた歌舞伎で世に知られるようになる。歌舞伎「芽出柳翠緑松前(めだしやなぎみどりのまつまえ)」では、江戸っ子の典型的人物(実は三河の武士の出だとか)。魚屋を営み、義理人情にあつく、大久保彦左衛門の家来株として活躍する。(三省堂提供「大辞林 第二版」)・・・とある。
川勝丹波守の悪事を暴いたり、江戸茅町の穀商松前屋五郎兵衛の無実を晴らしたと言わる。のちに義侠心に富む江戸っ子の典型として、歌舞伎や浪花節、講談の主人公となった。
昭和に入っても映画監督の沢島忠氏が故中村(萬屋)錦之助を主演(一心太助 )に「一心太助 天下の一大事」('58)「家老と彦左と一心太助」('61)などの映画を撮っている。錦之助の当たり役である。それ以外にもテレビの連続ドラマや映画の題材に使われていることからも、太助 の人気の高さがうかがえる。しかし、彼は、飽くまで、伝説上の人物であるが、なんと、彼の墓が東京都, 港区白金2丁目 ・立行寺にあるという。この寺は、大久保彦左衛門により建立され通称、大久保寺といわれているらしい。戦国の生き残りとして将軍の御意見番と言われた、旗本大久保彦左衛門忠教の墓の裏手に、魚屋・一心太助の墓もあるのだとか。一心太助が虚構の人物であれば、大久保彦左衛門も同様らしい。
われわれの知っている大久保彦左衛門は、「天下のご意見番」で、三代将軍家光にたいしても、我儘勝手言い放題の人物という格好のいい人物像であるが、現実の彦左衛門の方は、小田原城主大久保忠世の弟ではあったが、何をすることもなく駿河台の自邸で、ぶらぶらしているただの零細旗本の一人にすぎなかったようなのである。それは、さておき、一心太助は、一本気の威勢のいい魚屋として描かれているが、江戸時代初期の当時の魚河岸や魚屋というのはどんなものだったのだろう?
1590(天正18)年、徳川家康が江戸入りした時、家康に従うように摂津国西成郡佃村(現在の大阪市淀川区佃町)の名主森孫右衛門が、佃及び隣村大和田村の漁師34名と共に江戸に出てきて、江戸向島(のちに佃島と名づけられる)を拝領するとともに、江戸近辺の海川の漁業権を与えられ、そのかわりに徳川家の御膳魚を納める役を仰せつかった。彼らの漁獲法は地獄網と呼ばれ、当時としては格段に優れたもので漁獲量はたちまち徳川家への献上分をオーバーしてしまう。そこで1610(慶長15)年には余った魚を市中で売る許可が幕府から下り、日本橋魚河岸(うおがし)が誕生したそうだ。生業的な漁業が産業への道を歩み出した第一歩である。1629(寛永6)年には、家光が武家と町人の同居禁止令を出し、一部漁民は佃島(つくだじま)に移る。これで日本橋に残る者と佃島に移る者との間に流通(魚河岸)と生産(佃島)の分業が確立、漁業は本格的な産業へと飛躍したそうだ。
現在「江戸っ子気質(かたぎ)」と呼ばれるものの大部分は魚河岸が育てたものだそうである。急成長する魚産業を背景に台頭してきた魚河岸の旦那衆は江戸文化のスポンサーとして歌舞伎役者などの贔屓(ひいき)筋となり、現在の江戸歌舞伎を育てたという。また足の早い鮮魚を扱う魚河岸の若衆は勢いせっかちで喧嘩早く、威勢のいい啖呵(たんか)を切る様になり、江戸っ子の基本の気質となっていったそうだ。
江戸時代の初期においては、金を持っていたのは武家であった。だから、当初の魚河岸が納魚を目的としたのは、江戸城以外にも大名や大身の武家が重要なお得意先であり、武家のふところの豊かさをあてにした商売だったわけである。しかし、武家の世の中もそう長くは続かず、平和な時代の到来により、武士の存在はやがて形骸化していき、やがて講談「一心太助」に語られる様な町の魚屋が出現、一般市民に魚が浸透して行くわけである。
しかし、当時の魚河岸などの魚店は、売問屋であり、魚屋は、映画などの一心太助などに見られるように、天秤棒でになって振売りする「棒手振り(ぼてふり)で、この名は、棒手箱(ぼてばこ)に入れて売り歩いたからとか。関西方面では天秤棒かつぎのことを棒手振りと呼んだが、江戸・東京では棒手振りといえば行商の魚屋を言うのだそうだ。その頃、魚河岸は「朝千両の商い」といわれるようになり、早朝だけで千両の売上げがあるということで、ほかにも昼は芝居町で千両、夜は吉原で千両、合わせて三千両という金が毎日江戸で動いていたといわれ、魚河岸の繁盛は当時を代表するものだったそうだ。
(画像は映画「一心太助天下の一大事」左:月形龍之介、右:中村(萬屋)錦之助。日本映画100年。アサヒグラフより)
参考:
KATOHDB: 「正義」の問題
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2762.html
日本の墓:一心太助
http://www.hakaishi.jp/tomb/06-4.html
魚河岸野朗
http://www.sakanaya.co.jp/index.html
フィッシュLabo さかな物語
http://www.sanspo.com/fish/labo/monogatari/sakana_fugu1.html
中村錦之助 (ナカムラキンノスケ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/103352/
「今日は何の日」の記念日を見ていると、1674(延宝2)年の今日(12月23日)が 「一心太助 (魚屋)」 の死亡した日となっている。何を根拠に一心太助の忌日と言っているのかは知らないが、一心太助 と言えば、江戸時代初期、一介の町人であるが、その義気を、天下のご意見番「大久保彦左衛門」に愛されたといわれる人物。太助が愛称で、腕に「一心白道(いっしんびゃくどう)」の4文字の入れ墨があったところから一心太助と称されたという。大久保彦左衛門と一心太助の物語は鶴屋南北の弟子で江戸末から明治にかけて活躍した河竹黙阿弥(1816-1893)が書いた歌舞伎で世に知られるようになる。歌舞伎「芽出柳翠緑松前(めだしやなぎみどりのまつまえ)」では、江戸っ子の典型的人物(実は三河の武士の出だとか)。魚屋を営み、義理人情にあつく、大久保彦左衛門の家来株として活躍する。(三省堂提供「大辞林 第二版」)・・・とある。
川勝丹波守の悪事を暴いたり、江戸茅町の穀商松前屋五郎兵衛の無実を晴らしたと言わる。のちに義侠心に富む江戸っ子の典型として、歌舞伎や浪花節、講談の主人公となった。
昭和に入っても映画監督の沢島忠氏が故中村(萬屋)錦之助を主演(一心太助 )に「一心太助 天下の一大事」('58)「家老と彦左と一心太助」('61)などの映画を撮っている。錦之助の当たり役である。それ以外にもテレビの連続ドラマや映画の題材に使われていることからも、太助 の人気の高さがうかがえる。しかし、彼は、飽くまで、伝説上の人物であるが、なんと、彼の墓が東京都, 港区白金2丁目 ・立行寺にあるという。この寺は、大久保彦左衛門により建立され通称、大久保寺といわれているらしい。戦国の生き残りとして将軍の御意見番と言われた、旗本大久保彦左衛門忠教の墓の裏手に、魚屋・一心太助の墓もあるのだとか。一心太助が虚構の人物であれば、大久保彦左衛門も同様らしい。
われわれの知っている大久保彦左衛門は、「天下のご意見番」で、三代将軍家光にたいしても、我儘勝手言い放題の人物という格好のいい人物像であるが、現実の彦左衛門の方は、小田原城主大久保忠世の弟ではあったが、何をすることもなく駿河台の自邸で、ぶらぶらしているただの零細旗本の一人にすぎなかったようなのである。それは、さておき、一心太助は、一本気の威勢のいい魚屋として描かれているが、江戸時代初期の当時の魚河岸や魚屋というのはどんなものだったのだろう?
1590(天正18)年、徳川家康が江戸入りした時、家康に従うように摂津国西成郡佃村(現在の大阪市淀川区佃町)の名主森孫右衛門が、佃及び隣村大和田村の漁師34名と共に江戸に出てきて、江戸向島(のちに佃島と名づけられる)を拝領するとともに、江戸近辺の海川の漁業権を与えられ、そのかわりに徳川家の御膳魚を納める役を仰せつかった。彼らの漁獲法は地獄網と呼ばれ、当時としては格段に優れたもので漁獲量はたちまち徳川家への献上分をオーバーしてしまう。そこで1610(慶長15)年には余った魚を市中で売る許可が幕府から下り、日本橋魚河岸(うおがし)が誕生したそうだ。生業的な漁業が産業への道を歩み出した第一歩である。1629(寛永6)年には、家光が武家と町人の同居禁止令を出し、一部漁民は佃島(つくだじま)に移る。これで日本橋に残る者と佃島に移る者との間に流通(魚河岸)と生産(佃島)の分業が確立、漁業は本格的な産業へと飛躍したそうだ。
現在「江戸っ子気質(かたぎ)」と呼ばれるものの大部分は魚河岸が育てたものだそうである。急成長する魚産業を背景に台頭してきた魚河岸の旦那衆は江戸文化のスポンサーとして歌舞伎役者などの贔屓(ひいき)筋となり、現在の江戸歌舞伎を育てたという。また足の早い鮮魚を扱う魚河岸の若衆は勢いせっかちで喧嘩早く、威勢のいい啖呵(たんか)を切る様になり、江戸っ子の基本の気質となっていったそうだ。
江戸時代の初期においては、金を持っていたのは武家であった。だから、当初の魚河岸が納魚を目的としたのは、江戸城以外にも大名や大身の武家が重要なお得意先であり、武家のふところの豊かさをあてにした商売だったわけである。しかし、武家の世の中もそう長くは続かず、平和な時代の到来により、武士の存在はやがて形骸化していき、やがて講談「一心太助」に語られる様な町の魚屋が出現、一般市民に魚が浸透して行くわけである。
しかし、当時の魚河岸などの魚店は、売問屋であり、魚屋は、映画などの一心太助などに見られるように、天秤棒でになって振売りする「棒手振り(ぼてふり)で、この名は、棒手箱(ぼてばこ)に入れて売り歩いたからとか。関西方面では天秤棒かつぎのことを棒手振りと呼んだが、江戸・東京では棒手振りといえば行商の魚屋を言うのだそうだ。その頃、魚河岸は「朝千両の商い」といわれるようになり、早朝だけで千両の売上げがあるということで、ほかにも昼は芝居町で千両、夜は吉原で千両、合わせて三千両という金が毎日江戸で動いていたといわれ、魚河岸の繁盛は当時を代表するものだったそうだ。
(画像は映画「一心太助天下の一大事」左:月形龍之介、右:中村(萬屋)錦之助。日本映画100年。アサヒグラフより)
参考:
KATOHDB: 「正義」の問題
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2762.html
日本の墓:一心太助
http://www.hakaishi.jp/tomb/06-4.html
魚河岸野朗
http://www.sakanaya.co.jp/index.html
フィッシュLabo さかな物語
http://www.sanspo.com/fish/labo/monogatari/sakana_fugu1.html
中村錦之助 (ナカムラキンノスケ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/103352/