12月27日「浅草仲見世記念日」
1885(明治18)年、東京・浅草の仲見世が新装開業した。煉瓦作りの新店舗139店が開店した。1923(大正12)年の関東大震災で倒壊したが、鉄筋の建物として再建されたもの。
東京で最も古い寺である浅草寺の起源は、推古天皇36年(628年)、漁師の檜前(ひのくま)兄弟が隅田川から拾い上げた観音様を、土師中知(はじの なかとみ)が堂を設けて安置したのが始まりと言われている。645(大化元)年に観音堂が建立されたのが始まりと言われている。1590(天正18)年、 徳川家康が秀吉から関八州を与えられ江戸に入ると、浅草寺を江戸城鎮護の祈願寺と定め500石を寄進した。
神田川にかかる浅草橋(1616(元和二)年に出来た)は、江戸日本橋から奥州街道、日光街道、水戸街道へ、そして浅草寺や新吉原などへ行く重要な道筋であり、江戸市民にとって府内と府外の交通上の要所であると共に、江戸城防衛の拠点ともなっていたようだ。
江戸市中にこうした場所が36ヶ所あり(実際にはもっとあったとも)、これを江戸城36見附とも江戸36門とも言った。その36見附の1つである浅草見附は、浅草御門とも浅草門とも呼ばれていた。東京都内には他にも市谷見附、四谷見附、赤坂見附などの名が見られるよね。ここには門があり、、たとえば、大名の多くは”大手門の門前の橋の手前、下馬所において駕籠や馬から下りた”といい、さらに奥の下乗所~玄関と続き、日光門主・御三家などのほかはこの場所(下乗所)で駕籠から下りる定めであったとか(あとは徒歩)。この浅草見附門が出来たのは1636(寛永13)年だそうだ。三代将軍家光はこの年4月に焼亡の本堂を再建したが、その6年後の1642(寛永19)年にまたも炎上 。再度、家光が復興し、1648~9( 慶安元~2)年 にかけて五重搭、本堂・仁王門を建立した。 そして、江戸の人口も増えてゆき、浅草寺への参拝客も一層賑わうようになった。参道の両側には12の支院が並んでいたというが、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられた。これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688~1735)の頃といわれている。
江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、みやげ品などを売っており、次第に店も増え日本でも一番形の整った門前町へ発展していった。 明治維新の政変により、寺社の所領は政府のものとなり、浅草寺の境内も東京府の管轄となった。
そして、1885(明治18)年5月東京府は、仲見世全店の取り払いを命じ、その後地に、同年12月26日、煉瓦造りの洋風豊かな新店舗が完成、近代仲見世が誕生したのである。
文明開化、明治の匂いを留めた赤れんがの仲見世も、1923(大正12)年の関東大震災により壊滅し、同1925(大正14)年に、現在の鉄筋コンクリート造りの建物として再建された。しかし、その後、又、1945(昭和20)年の戦災で内部は全部焼失したが復興し現在に至っている。浅草寺の建物も殆どは、1945(昭和20)年3月10日の空襲で焼失したが、1958(昭和33)年の本堂、1960(昭和35)年の雷門の再建に続いて、1964(昭和39)年に宝蔵門が1973(昭和48)年には五重の搭が再建された。 雷門をくぐって今でも日本的情緒の残っている仲見世は海外からの観光客にも人気のようである。
私は、浅草と言うと雷門と共に、浅草六区の興行街の方がなつかしい。昭和30年代の後半東京に住んでいたころ、よく六区の興行街へ行ったが、まだ、多くの劇場、映画館、寄席などが軒を並べていた。なんとなく大阪の天王子や南と共通した雰囲気があり、東京のほかの地域とは違った庶民的な街は、関西人には、親しみが持てたな~。
(画像は、広重 「浅草雷門」 江戸名所百景の内。本シリーズ中で最も有名とも言える作品。)
参考:
台東区ホームページ/なんでも情報
http://www.taitocity.com/kanko/asakusa_ueno/j_guide/info/index.html
浅草大百科
http://www.asakusa.gr.jp/index2.html
浅草の歴史
http://www.asakusa-e.com/rekisi/rekishi.htm
1885(明治18)年、東京・浅草の仲見世が新装開業した。煉瓦作りの新店舗139店が開店した。1923(大正12)年の関東大震災で倒壊したが、鉄筋の建物として再建されたもの。
東京で最も古い寺である浅草寺の起源は、推古天皇36年(628年)、漁師の檜前(ひのくま)兄弟が隅田川から拾い上げた観音様を、土師中知(はじの なかとみ)が堂を設けて安置したのが始まりと言われている。645(大化元)年に観音堂が建立されたのが始まりと言われている。1590(天正18)年、 徳川家康が秀吉から関八州を与えられ江戸に入ると、浅草寺を江戸城鎮護の祈願寺と定め500石を寄進した。
神田川にかかる浅草橋(1616(元和二)年に出来た)は、江戸日本橋から奥州街道、日光街道、水戸街道へ、そして浅草寺や新吉原などへ行く重要な道筋であり、江戸市民にとって府内と府外の交通上の要所であると共に、江戸城防衛の拠点ともなっていたようだ。
江戸市中にこうした場所が36ヶ所あり(実際にはもっとあったとも)、これを江戸城36見附とも江戸36門とも言った。その36見附の1つである浅草見附は、浅草御門とも浅草門とも呼ばれていた。東京都内には他にも市谷見附、四谷見附、赤坂見附などの名が見られるよね。ここには門があり、、たとえば、大名の多くは”大手門の門前の橋の手前、下馬所において駕籠や馬から下りた”といい、さらに奥の下乗所~玄関と続き、日光門主・御三家などのほかはこの場所(下乗所)で駕籠から下りる定めであったとか(あとは徒歩)。この浅草見附門が出来たのは1636(寛永13)年だそうだ。三代将軍家光はこの年4月に焼亡の本堂を再建したが、その6年後の1642(寛永19)年にまたも炎上 。再度、家光が復興し、1648~9( 慶安元~2)年 にかけて五重搭、本堂・仁王門を建立した。 そして、江戸の人口も増えてゆき、浅草寺への参拝客も一層賑わうようになった。参道の両側には12の支院が並んでいたというが、浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられた。これが仲見世の始まりで、元禄、享保(1688~1735)の頃といわれている。
江戸時代には、伝法院から仁王門寄りの店を役店(やくだな)と呼び、20件の水茶屋が並び、雷門寄りは平店(ひらみせ)と呼び、玩具、菓子、みやげ品などを売っており、次第に店も増え日本でも一番形の整った門前町へ発展していった。 明治維新の政変により、寺社の所領は政府のものとなり、浅草寺の境内も東京府の管轄となった。
そして、1885(明治18)年5月東京府は、仲見世全店の取り払いを命じ、その後地に、同年12月26日、煉瓦造りの洋風豊かな新店舗が完成、近代仲見世が誕生したのである。
文明開化、明治の匂いを留めた赤れんがの仲見世も、1923(大正12)年の関東大震災により壊滅し、同1925(大正14)年に、現在の鉄筋コンクリート造りの建物として再建された。しかし、その後、又、1945(昭和20)年の戦災で内部は全部焼失したが復興し現在に至っている。浅草寺の建物も殆どは、1945(昭和20)年3月10日の空襲で焼失したが、1958(昭和33)年の本堂、1960(昭和35)年の雷門の再建に続いて、1964(昭和39)年に宝蔵門が1973(昭和48)年には五重の搭が再建された。 雷門をくぐって今でも日本的情緒の残っている仲見世は海外からの観光客にも人気のようである。
私は、浅草と言うと雷門と共に、浅草六区の興行街の方がなつかしい。昭和30年代の後半東京に住んでいたころ、よく六区の興行街へ行ったが、まだ、多くの劇場、映画館、寄席などが軒を並べていた。なんとなく大阪の天王子や南と共通した雰囲気があり、東京のほかの地域とは違った庶民的な街は、関西人には、親しみが持てたな~。
(画像は、広重 「浅草雷門」 江戸名所百景の内。本シリーズ中で最も有名とも言える作品。)
参考:
台東区ホームページ/なんでも情報
http://www.taitocity.com/kanko/asakusa_ueno/j_guide/info/index.html
浅草大百科
http://www.asakusa.gr.jp/index2.html
浅草の歴史
http://www.asakusa-e.com/rekisi/rekishi.htm