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江戸幕府が、大名監視の為の「大目附」を設置した。

2005-12-17 | 歴史
1632(寛永9)年の今日(12月17日) 、江戸幕府が、大名監視の為の「大目附」を設置した。
大目付(おおめつけ)は、江戸幕府の役職の1つ。目付とともに老中の配下として位置づけられている。若年寄支配下の目付が、旗本・御家人の監察を任務とするのに対し、大目付は、大名の監視のほか、交替寄合(参勤交代をする上級旗本)、高家の監察など、幕政の最重要な監察を任務とし、法令の伝達にもあたった。1632(寛永9)年、秋山修理亮正重、水野河内守守信、柳生但馬守宗矩ら3人を総目付として任じたのがこの職の起源。大名目付ともいわれた。以降、この任には,定員4,5名で旗本の上位の者がえらばれ、その待遇は大名並みであった。室町時代の初期に所司代の被官として設けられた目付は,戦国大名も,被官や土豪,敵国の内情探査のため設置していたが,江戸幕府では,大名統制の主要な任務として、その耳目としての情報収集、善悪の糺名、文言・判形の取調べなど多岐にわたる職務があった。鎖国政策がとられてからは,外国貿易や宗門改め,道中奉行をも兼務することもあった。江戸中期以後の幕府体制の確立とともに,本来の職制から変わって式部官的な傾向が強くなった。職務が多岐にわたったために月番とともに,分担制で任務を行うようになった。
徳川家康は大阪の陣によつて豊臣氏を滅ぼし、徳川氏への対抗勢力を一掃し、全国の大名を支配することとなった。しかし、それは、所謂、幕藩体制といわれるもので、その中心にある徳川氏自体は最大の一大名であり、400万石の直轄領地天領を所有すると共に、全国66国を分轄して諸大名(藩)に領地として与え、領内の政治は一切大名に委任していた。したがって、幕府の権力維持のためには大名統制がもっとも重要であったが、2代秀忠、3代家光に至つて益々強固なものとして整備されていった。まづ、大名を親藩、譜代、外様の三つに分け、その領地は徳川氏の安全を図る為に巧妙に配置された。又幕府の要職は譜代又は親藩で占め、外様大名は一切除外された。一方武家諸法度を制定してこれに違反する大名をどしどし罰し、その領地を没収し、その家を取潰した。
1632年(寛永8)に秀忠が死去すると、3代将軍家光はそれまでの大御所との二元政治であったものを解消して将軍親政による政治を始める。老中・若年寄・奉行・大目付の制を定めて、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。そして、諸士法度の制定、加藤忠広など大名の改易を断行して武家統制の強化を図った。また、1635年(寛永12)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。対外的には長崎貿易の利益独占目的から、貿易統制ならびにキリシタン弾圧を強化し、1637年(寛永14)の島原の乱を経て1641(寛永18)年までに鎖国体制を完成させた。これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われているそうだ。
3代将軍家光の設置した「大目附」の中に、柳生但馬守宗矩がいる。
柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)は、大和国柳生庄に、石舟斎宗厳の五男として生れる。幼少にして才があり、父宗厳が柳生に隠居した1573(天正元)年の3歳、のころから1594(文禄3)年までの20余年間の大部分は父の膝下で新陰流兵法をはじめ諸種の兵法、軍法、和漢の学問、文芸、茶道などを学んだという。
1594(文禄3)年から父宗厳とともに徳川家康に招かれて伺候。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いではその功により旧領大和柳生を与えられる。1601(慶長6)年より家康の子秀忠の兵法師範となって正式に徳川の家臣となる。1614(慶長19)年,1615(慶長20)年の大坂の陣に参陣した。宗矩は,父石舟斎とは異なり政治に活路を見出し,その政治力によって家康・秀忠・家光と3代にわたって将軍に仕えるがいずれも信任厚く,1632(寛永9)年には江戸幕府初代の大目付,1636(寛永13)年には加増あって大和柳生1万石となり,諸侯に列することとなるが、柳生宗矩が一介の兵法指南役だけに収まらず、大名の監視を司る惣目付(大目付)にまで登りつめる事が出来たのは、影で柳生一族(俗に言う裏柳生)が暗躍し、忍者顔負けの諜報活動をしていたからだという説がある。 この柳生一族に関する武芸物は、数え切れないくらいに、小説、映画、ドラマ化されている。宗矩の長男 十兵衛三厳も剣豪として有名で多くの映画ドラマに登場する。恐らく、柳生の諜報網が確立したのは、全国の大名たちがこぞって将軍家に倣い、柳生石舟斉の門弟である新陰流の剣士たちを仕官させたから、宗矩はその門弟たちから各地の情勢を掴んでいたのではないかと思われる。
私は、大の時代劇ファンである。柳生と言うと思い出されるのが、五味康祐の小説『柳生武芸帳』である。1956(昭和31)年2月、創刊の「週刊新潮」に長期連載されたものであるが、私は、本は読んでいない。何でも、五味康祐はこれを長期にわたって完成するつもりのまま、昭和50年に、最後まで書き上げないままになくなったため未完の本であるらしい。この小説は、東宝で、稲垣浩監督の同名映画「柳生武芸帳」(1957年)として製作されており、この映画は見た。主演は、三船敏郎の「霞の多三郎」と鶴田浩二の「霞の千四郎」兄弟を主演にしたものであり、戸上城太郎が扮する柳生十兵衛は脇にまわってしまっていた。
柳生一族の長、柳生石舟斉と、その弟、松吟庵は、後日のため、暗殺者の候補者リストと、暗殺実行者がわかる文書を、3巻の暗号化した巻物として作成した。これが柳生武芸帳である。3巻が揃うと、柳生一門はもとより幕府の安泰や禁中の平穏をも危うくする秘密が露呈するらしい。そこで、柳生の秘密を守ろうとする宗矩と十兵衛の親子、九州鍋島柳生の本家・竜造寺一族の再興をはかる夕姫、それを扶ける忍者、将軍家の周辺、柳生の正体は「忍びの者」だと睨む唐津の山田浮月斎、それに霞の忍者の多三郎兄弟らが、縦横に入り乱れて暗闘を繰り広げるといったものである。映画は、豪華配役で面白く娯楽性はあったが、ストーリー自体は、なんか良くわからない映画ではあった。実際の小説は読んでいないので知らないが何でも、小説と映画では内容に異なる点があるようだ。そこらのことは、以下参考の「松岡正剛の千夜千冊『柳生武芸帳』上・下」を見ると詳しく書いてある。
又、時代劇の東映映画が、1965(昭和40)年の「宮本武蔵・巌流島の決闘」以来、12年ぶりの本格派時代劇として製作した映画、深作欣二監督、「柳生一族の陰謀」(1978年製作)は見ごたえがあった。内容は、二代目将軍・徳川秀忠の急死に伴って、 江戸幕府では後継者争いが表面化していた。三代将軍の座をめぐって、 秀忠の長男・家光を推すグループと次男の忠長を推すグループの派閥争いは、 次第に激しさを増していく。一方、 京都に押し込められて力を奪われた公家たちは、 後継者争いに幕府を倒すチャンスがあると見て、 いつまでも将軍宣下の詔を出さない。そんな中、 家光側につく柳生但馬守宗矩は、 息子たちと共に次々と策略を張り巡らせるが・・・、権力に生きる柳生一族の存続を賭けた陰謀が、次第に、骨肉の争いへと展開していく姿を描く。しかし、今までの時代劇とは違ったもの、それは、「時代劇じゃないよ。仁義なき戦いのようなチャンバラ風味のヤクザ映画だ」と言う人もいる。もし、萬屋錦之介 (柳生但馬守宗矩)の重厚な演技がなければ単なる荒唐無稽な映画に終わっていたかも・・・。兎に角、柳生の系譜は複雑で、謎の多い家系のようであり、作家も色々と想像を掻き立てられるのだろうね。
(画像は、東映映画「柳生一族の陰謀」パンフレットより)
参考:
徳川家光 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
幕藩体制 ばくはんたいせい
http://db.gakken.co.jp/jiten/ha/501730.htm
江戸幕府 えどばくふ
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C088R100.HTM
江戸幕府職制図
http://homepage1.nifty.com/gorozo/real/data/system.htm
松岡正剛の千夜千冊『柳生武芸帳』上・下
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0352.html
映画「柳生一族の陰謀」(1978)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18787/