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国定忠治が磔の刑に処せられる

2005-12-21 | 人物
12月21日国定忠治が磔の刑に処せられる 。
1850(嘉永3年)年12月21日、「赤城の山も今宵は限り~」でおなじみの国定忠治(本名長岡忠次郎)が磔(はりつけ)の刑という悲惨な最期を迎えた。
国定忠治(忠次)は、1810(文化7)年上野国左位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)の農家に生まれ、本名は長岡忠次郎。博徒となって赤城山中を縄張りに上州から信州一帯を舞台に活動した江戸時代後期の侠客。信州街道の大戸(吾妻町)の関所を破る。碓氷関所(群馬県松井田町-長野県軽井沢町)を破った事により1851(嘉永3)年12月21日(旧1月22日)磔(はりつけ)の刑という悲惨な最期を遂げた。享年41。群馬県伊勢崎市国定町の養寿寺に墓がある。
長岡忠次郎は、天保の飢饉で農民を救済した侠客国定忠治として脚色され、講談や、浪曲、新国劇、映画の題材とされ、新国劇や映画で、沢田正二郎、辰巳柳太郎、坂東妻三郎、三船敏郎といった大物俳優らが、義理人情に厚く、弱きを助け悪政を許さない“ヒーロー国定忠治”を演じ、大人気を博した。国定忠治の映画は、数多く製作され、明治・大正・昭和にかけての国民的ヒーローであった。しかし、理由は分らないが、17歳で人を殺して、ヤクザの世界に入り、組を構えてから、賭場荒らし、縄張り抗争など、悪の限りを尽くしている彼が何故に、ヒーローになったのだろう。こうした忠治の事績を後世に伝えた者がいる。それは、羽倉外記(羽倉簡堂羽)という国定村の代官もつとめた男である。外記は水野忠邦の天保の改革に重用された役人で、納戸頭から勘定吟味役にもとりたてられたいう、忠治とは対極にいた幕吏であった。その外記が『劇盗忠二伝』(『赤城録』)を著して、凡盗にあらずして劇盗と評しているという。以下、参考の高橋敏 『国定忠治』 (岩波新書)によると、 ”賭博,伊三郎・勘助殺し,関所破りなどで有罪となり,最も重い関所破りの罪により磔の刑に処されることになる。関所破りの場合、その管轄地で刑を執行される事になっていたようで、忠次郎は上州と信州の境の大戸の関に護送された。忠次は、その処刑前日、大戸加部氏醸造の銘酒を一椀所望して飲み,雷のようないびきをかいて寝た。翌朝、また一椀飲み,「本州の酒を飲み本州の土と為る、快なるかな」と言った。更に勧められると,「刑に望みて沈酔するは死を畏るる者之事也」と断った(羽倉外記「劇盗忠二小伝」)。そして、いよいよ槍で突かれるに際しては,「手前儀,悪党を致しまして国のみせしめになって御成敗と決まり有難うござんす。お陰で小伝馬町牢内でも身持大切にできやして,かように天下の御法に叶うことに相成り,天にものぼるような喜びにござんす」と言った。目を閉じ、一槍付いては引き抜くごとにかっと目を開き、1500人といわれる見物人を見回した。また目を閉じ・・・と12回まで繰り返し,13度目で死んだ。(楡木宿惣左衛門談)” ・・・とある。
忠次の刑に連座して、何人もの人物が各種の刑にあい、そのうち最も重い罪に問われたのが田部井村の名主で、名主でありながら忠次郎と組んで悪行を行ったとして打ち首の刑になっているそうだ。当時の刑罰で、最も重い刑が「磔(はりつけ)」であった。「死罪」(斬首=打ち首、残された家族の財産も全て没収)以上のこのような極刑を受けるのは非常に悪質な犯罪を犯した者に限られており、権力機構に挑戦した者などが、この刑をうけたようだ。しかし、忠次は、この「磔(はりつけ)」に処せられており、このことが、後に、忠治は、庶民の為に、権力機構に挑戦した者=義賊という形で伝説化されたのではないかといわれている。長岡忠次郎が、「磔(はりつけ)」の刑にあってから18年後に徳川政権は崩壊し、明治維新となる。
長岡忠次郎が、国定忠治として脚光を浴びたのは、あの有名な、「講釈師見てきたような嘘をつき」の川柳もあるように、宝井馬琴の孫弟子で、明治の講談師宝井琴凌という人物が『馬方忠治』という講談をヒットさせたのが始まりと言われている。長岡忠次郎が生まれた上州はもともと穀物の稔りにはまったく不向きの土地で、そのため唯一桑畑と養蚕によって経済社会をつくっていた(後には、それで桐生や足利が栄えるのだが)。そして、忠次郎が育った時代の前半は「天保の飢饉」で関東が冷えきっていた時期にあたる。又、後半は、大塩平八郎の乱などが勃発し、日本がしだいに不穏な空気に包まれていた。やむなく水野忠邦が政治改革にとりくむが、倹約と奢侈の取り締りはかえって百姓を苦しめ、逆に下っ端役人の不正をふやしていくことになる。上州は関八州の管轄で、関東取締役出役が見回りをしていたが、彼らは私腹を肥やし収奪にあけくれる。また、神宮・神社・山陵に幣帛を捧げるための例幣使とよばれる公家たちが、年中行事として日光参内に名を借りて、さかんに関東一帯で賄賂を取り立て(入魂金)、強請をほしいままにしていたという。
忠次郎は貧農の生まれといっても長岡と言う姓をもつ元武家の子とも言われている。渡世人の間では悪の限りを尽くしていた一方で、窮民を助けたり、灌漑用の溜池などを農民のために作るという一面もあったようだ。この当時のような食べるものにも窮している貧しい人たちの多い時代、当時の人の悪人のとらえ方は今の時代とは随分違っていたのではないか?。恐らく、ヤクザ同士の争いがいくらあろうと、普通の庶民に迷惑さえかけなければ、それは、大して悪い人間とは見なかったとも考えられる。それが、今でも義理・人情のヤクザの世界として芝居や映画などで受け入れられているのだろう。
今の時代は、おとなしそうな顔をして、お上の顔色を伺いながら、お金のためには平気で、悪いことをする人がはびこっている。昔の、貧しい時代より、今は、性質の悪い、残虐な犯罪が増えたことが哀しくなる。地震大国の日本で、地震が来れば倒壊するような建物を平気で売って金を稼ごうとする輩(やから)が今、世間を騒がせている。法改正し、刑罰を見直し、最近世間を騒がせている極悪非道の悪人などは、見せしめの為に、磔の刑にでも処するようにしないと、もう、駄目な日本になってしまったのかも知れない。
(画像は新国劇辰巳柳太郎演ずる「国定忠治」チラシより)
参考:
My town いせさき 国定忠治 群馬県伊勢崎市佐波郡の地域情報 ...
http://www.news.imap.ne.jp/cat6/021220tyuji/
高橋敏 『国定忠治』 岩波新書
http://www.geocities.jp/ktmtkg2000/review/1029.html
虚構の義賊国定忠治伝
http://www.ryomonet.co.jp/p-soft/chuji/index.html
酔雲庵・侠客国定忠次一代記の創作ノート
http://www.geocities.jp/suiun_an/newpage136.html
やくざと日本人
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0152.html